004
「ちょ、どうしたのホープ?」
登校した望を出迎えた美冬の声はどこか不安げだった。
いつもなら満面の笑みで「おはよう!」と声をかけてくれるクラスメイトも、その顔にはどこか影が差している。
「あ、あぁ。何でもないよ。ちょっと気分が悪いだけ」
「大丈夫なの? 顔、物凄く青いよ?」
「午後になれば落ち着くよ」
「そう? 無理しない方がいいと思うけど?」
「平気平気」
望は机にカバンを置き、椅子にどかっと座りこむ。その顔には、さながら徹夜明けの疲労が滲み出ていた。心配そうに、美冬が何度か望に声をかける。そのたびに努めて冷静に対応するが、心の中では正直、美冬に構っていられるほどの余裕はなかった。
(撰択の儀? 世界を消す? 人を殺す? 判定者? ……冗談だろ?)
昨日見たあの夢の光景とかけられた言葉の数々。それらが望の中で浮かんでは消え、浮かんでは消えていった。
誰かに正直に話せば「お前は馬鹿か?」と言われるのは目に見えて分かる。こんなことあるわけがないだろうと言下に否定されることも望自身分かっている。確かにそんな設定は小説の中だけで成立するものだと考えるのが自然だし、是非ともフィクションという枠組みの中で成立させて欲しいものだ。
(けれど、あれは紛れもない――『現実』なんだ)
望はシャツ越しにタグをギュっと握り締めた。ドッグタグのヒヤリとした感触が、望に逃げられない現実を突きつけていた。
午後十二時二三分。いつものように、この日も望の携帯電話が震えた。
いつ目の前の教師に見つかるか、望はそれを考えるといつも怯えたが、教師は黒板に書くことに夢中で望の姿が見えていなかった。
(あんなことがあったのに、この世界はいつも通り、か……)
画面を開くと、『メールを受信しました』の文字が踊っていた。差出人には、「相川聡史」と表示されている。望が判定者として世界の全てを担うことになっても、変わりばえのない事象にわずかばかりの安堵感がよぎった。
いつものように授業が終わり、いつものように鐘が鳴る。
終礼も挨拶も手早く終わらせ、望はいつものように駈け出した。
「よぉ! いつも済まないなぁ望クン」
(よくそんなセリフが吐けるもんだよな……)
この日も屋上に呼び出された望は、ニタニタと笑う相川達が気づかないよう内心そんな言葉を思いながら近づいた。
「あっ――」
いつものように必死の思いで獲得した戦果をあっさりとかっ攫われ、望の儚げに満ちた小さな声が空へと消えていく。
普段ならここで望は帰されて事は終わりを告げる。変わりばえのしない日常。これが望の役割。さながら童話の端役――それが望の立場だった。
しかし、この日ばかりはどこか様子が違っていた。戦果を奪われ、とぼとぼと教室へ帰ろうかとしたその時、相川とその仲間が、望の進路を塞いだのだ。困惑の色を見せた望に「どうかしたか?」と言いそうな態度で、へらへらと薄ら笑いを浮かべるだけの相川が、おどけたように望に声をかけた。
「いやぁ、済まないなぁ。なんだかいつも気を遣わせてもらっちゃってさ。……あっ、そうだ! お詫びにと言ってはなんだけどさ、これから俺達と一緒に食わない?」
瞬間、ビクリと望の肩が跳ね上がるのを、相川は見逃さなかった。
「あっ……でも、僕は……」
「固ぇこと言うなって! 一緒に食いたいんだよ、な」
「えぇ~っと、僕はそのぅ……」
相川の瞳が蛇のように望を捉えて離さなかった。言葉は明るいが、対面した人間にしか分からない 不気味な空気が伝わってくる。
「一緒に来るよな?」
「…………はい」
望は断ることができずに、気づけばただ相川の言葉に頷いていた。
「お前、用意できたんだろうな」
連れてこられた体育館裏で、望は相川に殴られ、蹴られていた。相川が言葉を発するたびに腹に衝撃と痛みが走る。
体育館の裏で行われるカツアゲやイジメ。案の定、というお約束がこれでもかと言いたくなるようなシチュエーションだった。
「がはっ……だから、もうお金は……もうな、いよ」
「『ない』じゃねぇだろうが! どんな事をしてでも繕ってくるんだよ! んなもん自分で考えろよな! 少しは頭を使ったらどうだ? お前の頭は飾りかよ!」
相当頭にきているのか、目の前の三人から腹や顔を何度も殴られ、蹴りが放たれる。殴られる度に視界がぐにゃりと歪み、痛みも感じなくなっていく。
やがて相川が疲れたのか、おもむろに望を投げ捨てた。背中にコンクリートが当たり、一瞬息ができなくなる。掠れた息づかいが望の口から細い息づかいが漏れ出ていた。
「ったく、このグズが……。あぁん?」
汚いものを見るような眼で望を見下していた相川が、ふと何かに気づいた。
(あっ――、しまっ……!)
投げられた衝撃からか、望のシャツで隠していたドッグタグがわずかばかり顔を覗かせていたのだ。
「へぇ~。カネがねぇとかほざきながら、いいモン持ってんじゃねぇか……」
相川の手が掛けられていたタグに伸びてくる。望は震える手でタグを掴むと、とっさに身体を丸めて隠した。
『もし、それを失くした者、逃げ出した者が現れたならば――』
頭の片隅に焼きついた言葉。もし、あれがただの夢だったのならここで相川に奪われてもよかったかもしれない。だが、この時望はどうしてか「絶対にくれてやるか」という意識が働いていた。
目の前の相川達に一泡吹かせたい、というささやかな抵抗のためか? ――いや、違う。
(あれは……。あの言葉は夢じゃない。……紛れもない《現実》だ!)
あの時、モニター越しで見たゼウスの表情、態度。そして『お前たちの世界を消してやる』という脅しめいた言葉。夢だと思っていた自分が見た現実。
断片をかき集めて作り上げた一枚の絵が、『これは現実なんだ』と叫んでいた。
「あぁ? 舐めたマネしてんじゃねぇぞこのカスが!」
望の取った行為が相川の逆鱗に触れたのか、背中に重い衝撃が何度も伝わった。
「痛っ――!」
殴られ、蹴られ続けた望の身体はすでにぼろぼろで、もう痛みすらも感じられない。
(僕、こんな簡単に死ぬのかな……)
望の頭に、鮮烈な〝死〟のイメージが焼き付いた。ぼろぼろになって倒れ、無様に死を晒す自分の姿。たとえ、世界を消すほどの判定者として選ばれても、これでは何の意味がないなと思えた。
自分の生を諦めかけたその時、望の頭に声が響いた。
『――〝撰択の儀〟におけるルールの一。〝生命維持〟を強制適用致します』
(ル、ルール?)
問いかけた言葉に答えは返されず、代わりに暗闇が望を支配した――。
「なっ――!」
相川の口からそんな言葉が飛び出したのは、望の意識が闇に呑まれてからすぐのことだった。異変は突然だった。
自分に襲いかかる相川の蹴り。それを転がるようにして回避した望は、ゆっくりと立ち上がった。突然回避されたことに驚く相川達だったが、望はそんな彼らに付き合うこともせずキツイ一発をその顔に叩き込んだ。
「ぐふっ!」
倒れた相川を見て気付いたのだろう。彼の取り巻きである二人の形相が変化し、望に襲いかかった。
「…………」
望は殴ろうと襲いかかる拳を巧みに受け流し、蹴りを交わし、その顎に自分の拳を叩きこむ。通常の望からは到底考えられなかった動きに、立ち上がった相川の判断が一瞬遅れる。
「くそっ……なんなんだ、コイツ……」
強がってまだ戦えるよう構える相川も、その足はふらついていた。望の拳は相川の顎を支点に、その脳を強烈に揺さぶったのだ。
人間の外見は鍛えられても、中身はそうそう簡単に鍛えられるものではない。望の一撃がかなり効いたのか、相川から攻撃が来るも、今までに比べたらその威力は格段に落ちていた。
「…………」
繰り出される拳打の嵐を悠然とかいくぐり、沈黙のままに望の足が相川のこめかみを捉える。
「ヘッ、ヘヘッ……。何なんだよ、お前」
再び膝をついた相川が鋭い目つきで、望を睨みつけた。普段なら震えて言葉も出ない望だったが、この時は別人のように悠々と落ち着き払っていた。
「マジでワケ分んネェよ、お前……。完っ全にキレたぜ……。殺すっ!」
相川が懐に隠し持っていた『獲物』を取り出す。それは刃渡り十五センチほどにも及ぶ、バタフライナイフ。
その刃が持つ銀色の輝きに、仲間の顔が瞬時に青くなる。
「ヤ、ヤバイよ……」
「も、もういいだろ? 早くズラかろうぜ……」
急にオロオロと挙動不審になった仲間に、相川は『うるせぇ!』と一喝し、望を真正面から見据えた。
ギラギラと復讐にも似た怒りの炎が、瞳の奥に宿っていた。
だが、対する望の瞳は生気を失ったかの如く、内に静謐さを宿していた。茫洋と、ただ深さを湛えた瞳が相川の眼前にあった。
「死ねええええええええええぇぇぇぇぇぇ!」
右手に持ったナイフを振りかざし、相川は目の前に対峙する望へと駈け出した。
望は相川の腕を左手で払い、即座に自分からも距離を詰めた。そして渾身の力を込め、肘で腹を突く。人体の急所――水月と呼ばれるそこは、人間の構造上、肝臓がある部分だ。
そこを正確に突く――ギュッと握った右拳を左手で支え、勢い良く右肘を叩きこんだ。
「がはっ!」
「ひ、ひいいぃぃぃ! た、助けてくれっ!」
相川が白目を剥いて倒れ、周囲で呆然と様子を見ていた仲間が、弾かれるように望のもとから去って行く。
「な、何だったんだ? ……今のは?」
暗闇から解放された望は、自分に起きたことが分からず、しばらくその場で突っ立っていることしかできなかった。
◆
「おい、聞いたかよ……」
「あぁ、あの希坂が相川を倒したって話だろ?」
「意外よねぇー。やる時はやるっていうことなのかしら?」
望が相川を倒したという話は瞬く間に広がっていった。今までイジメの現場を見ていた者も、まるで手のひらを返したように望への評価を上げていた。
「ホープ、人気者じゃん」
放課後、美冬が帰り支度を始めていた望に声をかけてきた。これから部活なのか、ジャージに着替え、陸上部らしく靴ひもで双方の靴を括ったスパイクを片手にぶら下げている。
「へっ? あ、あぁ……まぁ」
「あら、そっけない。一躍人気者になっちゃったから戸惑ってるっていう感じ?」
「う~ん。どうなんだろ?」
からかうような笑みを見せる美冬の見立ては、正直に言えば望の心境からは大きく外れていた。望はあれから「なぜ、どうして」という疑問が頭の中で解決できてはいなかったのだ。
(なんだったんだろ、あれ……?)
既に相川との一戦など、望にとっては蚊帳の外の出来事だった。嬉しいのか嬉しくないのか、どちらにでも受け取れるような曖昧な笑みを浮かべつつ、望はカバンに必要な物を詰めていく。
(あの時に聞こえてきた声……もしかしたら)
予感はあった。けれども、それが正解なのか、もしくは不正解なのかが分からないという、あやふやな感覚が望を支配していた。
「ふーん……まぁ相川も今回の一件があってからは、今までと同じようにデカイ態度はとれないでしょうよ」
「まぁこれからどうなるかなんて分かるわけはないけど」
望が肩をすくめて応えると、美冬は「確かに」と、あっけらかんとした顔で言いながら教室を出て行った。
「帰るか……」
いつの間にか陽は傾き、オレンジ色の夕焼けが教室内を包み込んでいた。ちらりと窓の外をうかがうと、美冬がグラウンドの端で準備体操をしてアップしているのが目に入った。
ほとんど荷物が入っていないくたびれたカバンを背負い、教室のドアを開けた。
ガラッとドアをスライドさせ足を踏み出す前に――
「うわぁ!」
望は突如現れた人影とぶつかりそうになり、慌てて後ろに下がった。
(ったく、誰だ? 危ないなぁ……)
心の中で密かに悪態を付けた望は、改めて目の前に現れた人物を見やった。
「突然の訪問、失礼致します」
そこには――
「あれ? どうして――」
「……私がいちゃいけませんか?」
銀糸のようにさらさらと長い白い髪と深い青い瞳が望の前にあった。それは見間違いでも何でもなく、あの白い世界で出会った少女だった。望の言葉に、若干頬を膨らませている。
「眞白……か?」
「また会いましたね……私の名付け親」
目の前の少女はにこりと笑ってそう言うと、初めて出会った時と同じように、折り目正しく御辞儀をした。
(あぁ……。やっぱりアレは本当に《現実》だったのか……)
目の前に映る少女が、望にこの時、現実として一つの事実を突き付けていた。
◆
「それで? なんで眞白がここに? 君はあの白い世界――どちらかといえば、ゼウスと一緒の世界の住人だろ?」
眞白から、『お話があります』と言われ、望は静かに自分の席へと戻った。教室に入ってきた眞白が自分の目の前の席に腰を下ろす。望はやって来た「場違いな住人」に目的を訊ねた。
「そうですね。その認識で間違いはありません。ですが、本日はご連絡があって参りました」
「もしかして、今日一日中学校にいた?」
「まさか。ここへ来たのはつい先ほどですよ。それに一日中いたのなら、私は学校関係者に問い詰められてしまいます」
「それもそうか……。まぁ、いいや。連絡って言ってたよね? どんな?」
「はい。……正確には報告事項が一点と、連絡事項が一点ということになります。先にどちらを訊きますか?」
「それじゃあ、連絡事項からかな。訊くだけだし」
「では。本日、〝撰択の儀〟の第二段階が行われます。今回は、前回より詳細なものをご説明いたします。例えば、開催の期間から詳細なルール、そして……貴方の判定する世界」
「…………」
告げられた望はひりつく喉を、唾を飲んでやり過ごした。
(いよいよ、か。やはりゼウスの言葉通り、判定者としてただの高校生である僕が世界を〝撰択〟するのか……)
頭では分かってはいるが、いざとなると身体が震えることを抑えることができなかった。
それは恐怖からなのか、高揚感から来る武者震いなのか。
どちらかは分からなかったが、望は改めて「これは現実に起きていることだ」と認識していた。無意識のうちに、望は胸にかけられたドッグタグを握り締めていた。
その様子を見ていた眞白の目がすっと細くなった。夕日の残照に照らされた髪は、燃え盛る炎のようにきらきらと美しかった。
「――きちんと守られているようですね」
望の様子と見ていた眞白は慈しむ様な声を掛けた。
「あ、あぁ……。まぁね」
一瞬、目の前の眞白に見とれていたのか、望の返答が若干遅れてしまう。何のことだろうかと思ったが、すぐに手に握られているものだと気付く。
眞白は望の返答にゆっくりと頷き、
「では、もう一つ……本日で二四七の世界が消滅しました」
まるで毎朝流れる天気予報を伝えるかのように、そんな言葉を呟いた。
(……はっ? 今、何て言った?)
呆然とした顔で見つめる望に、「聞こえませんでしたか?」と一拍置いて、眞白はもう一度同じ言葉を繰り返す。
「ですから――」
「――二四七の世界が『消滅』しました」
見つめられた少女は微笑みを崩さぬまま、淡々と何事もないように事実を告げた。