002
午後一〇時。指定された場所は近くの公園だった。望がふと頭上に広がる夜空を見上げると、車の排気ガスで折角の星空もどこかひどく淀んでいるように思えてならない。
呼出人は昼間に望の戦果を横取りした相川聡史だった。彼は毎日毎日飽きもせずに、望を玩具にして楽しんでいるグループの中心人物である。
そいつが今、望の目の前でニタニタと下卑た笑いを浮かべていた。
(相手をするのは馬鹿らしいけど、しょうがないか)
望は胸ポケットに忍ばせていたICレコーダーのスイッチが、「ON」の表示になっていることを確かめると、ゆっくりと相川に歩み寄った。
「よぉ! パシリ君。今日はちょっとお願いが合って呼び出したんだ」
相川の笑いに釣られたのか、周囲の奴等がくすくすと笑い出す。彼らが浮かべる表情は、どれもこれも吐き気がするほど不気味で怖気さえ走るものだった。
――これも望にとっては見慣れた光景だった。
「単刀直入で悪いんだが、ちぃっとばかしカネ、貸してくれや。……ざっと五万ぐらいな」
「えっ……!」
「いやぁ、まいったぜ。ちょっと遊び過ぎて気付いたらカネがなくなっててヨォ……。どうしたもんかな~って考えてたら思い至ったワケよ。……そうだ、オマエから借りれば良かったんだってな」
ニヤニヤと悪趣味な笑みを浮かべながら相川の放った言葉に、望の肩が一瞬縦に揺れる。
普通ならその金額に目を見開くだろう。たかが高校生に五万の金額をせびるなど、恐喝もいいところだ。
「いや、でも。そんなお金、もうないし……」
「あぁん? んだとコラァ!」
望が恐縮そうに首をすぼめて何とか声を吐き出した。そんな望の様子から、交渉が決裂しそうなことを感ずるや否や、目の前の相川は一転してその顔を修羅の如く変化させる。
「それに、そのぉ……今まで貸したお金も……戻っては来ていないし」
「貸す前に払えだとぉ!」
ぐぃっと襟をつかまれた望は、一層その身を震えさせながら、慎重に言葉を選んだ。
「で、でも本当にそんなお金――」
瞬間、腹に激痛が走った。どうやら相川が殴ったらしい、ということが痛みの後で分かった。襟を掴んでいた手が放され、望は背中から地面に倒れ込む。
「そんなもん知るか。さっさと用意するんだよ、このクズが。オマエはこの俺の――相川聡史に仕える忠実な奴隷だろ? なけりゃあないで親から借りるなりなんなりすりゃあいいじゃねぇかよ! ったく、永久無利子無担保がオマエの売りだろ?」
「ぐぷっ――!」
倒れた望に相川の容赦のないケリが入る。その足は腹や上腕、太腿など、目にはそれと気づかれない場所を的確に突いていた。
「……ったくヨォ。こっちがちぃっとばかし下手に出てりゃあ、何様だよオマエ。いい気になるんじゃねぇぞ、オイ。テメェはさっさと言われたことだけをやりゃあいいんだよ。そうすりゃ全てが丸く収まるんじゃねぇか。……えぇ? オイ!」
「ゴフッ……!」
くぐもった音が闇夜に響くが、誰一人気づく者はいなかった。
十分、十五、二十――……。公園に設置された時計の針が刻々と進んでいった。
やがて。
「いいか、来週までには用意しろ。これは命令だ。今度舐めたマネしやがったら……そうだな、重りを付けて川にでも沈めてやんよ」
「…………」
殴り、蹴ったことで一応のストレスが解消できたのだろう。相川はそんなセリフと共に、夜の街へと消えていった。
望は芋虫のように地べたでもぞもぞと動いていた。ところどころが赤く腫れ上がり、衣服や顔には誰のか分からない靴底の跡がついている。口の中は錆びた鉄のような味が舌の上を転がっていた。
「ゴホッ、ゴホッ……。そろそろ帰るか……。痛っ……」
相川たちが去ってから数分後、倒れていた望はそんな言葉を吐きながらやっとの思いで立ち上がった。口に溜まった血を吐きだし、口元に垂れた血を袖口でゴシゴシと拭った。身体中に付いた土ぼこりを払い落し、シビれる足に鞭打って歩き出した。
幸いにも胸ポケットに忍ばせていたICレコーダーは無事だったようで、スイッチをOFFにして公園を出る。
「ぐっ……。っつう……」
額に脂汗が滲み、一歩一歩踏み締める度に身体に痛みが流れる。相川達が手加減したのか、無意識に身体を守ったのか、骨は折れていない。けれども、軽い捻挫を起こしているようで、気づけば足首には大きな青痣ができていた。
昼は走って、夜は殴られて。
それが今の希坂望の人生だった。
誰も彼もが望のように相川たちにマークされるのを恐れているためか、手を差し伸べる人は皆無に等しい。
教師たちも、見て見ぬふりを決め込んでいる。一向に改善を見ない望の現実。
(あぁ……。なんて、なんて)
それで問題が見つかって糾弾されれば、学校側は『対処しなかった私どもの責任』だなんだと紋切り型の謝罪を述べるだけで逃れるのだろう。それが大人達の常套手段だということは日々のニュースを見ていればわかる。『原因を精査し、再発防止に努めたい』なんて言葉は、結局のところ体のいい逃げ口上でしかない。
再発防止に努めているなら、なぜ同じようなことが二度三度と起きるのだろうか。そんなことを言うのなら、最初から何もしない方がよほどマシだ。
親は親で『手のかからない子』として扱ってきた分、『どうして……』などと目に涙を浮かべて話すのだろうか?
――なんて滑稽な《現実》だろう。なんて非情な《現実》だろう。
ついつい望の頬が緩んだ。うっかり喉を切り裂いて外へ出ようとする笑いを必死に噛み殺す。
大人達は、いつも自分の身を守ることに必死だ。繰り返される毎日、保身に走る大人達……。いつもしわ寄せが来るのは、まだ〝現実〟を知らないひ弱な子どもだ。
大人達が勝手に組み上げた〝社会の掟〟は建前でしかない。
それは丁度、法律が人を救わないように。
車道に流れる車のヘッドライトを追いながら、望はそんな事を考えていた。足枷を引きずるように 歩道を歩く様子は、さながらホームレスのようでどこか暗くて陰惨だった。
だったら――現実なんて消えてしまえ。明日なんて来るな。
来た時間の倍以上の時間をかけて自室に戻った望は、そのまま何もせずにベッドへと倒れた。
ベッドの上に倒れ込んだ望はいつもそんな考えを浮かべては、現実がそれを否定した。
望がどんなに願っても、世界は消えることなく回り続け、陽はまた昇り、朝を告げる。
「はぁ……。もう、《現実》なんてクソ喰らえだ……」
望は掻き消えそうなほどに細い声でそう呟いた。
(なんかもう、どうでもいいや)
「……もう寝よう」
――そう。自分にできるのは、明日が今日よりもマシになるよう、ただ願うだけしかない。
何度《現実》を消そうと望んでも、ただ世界は何事もなかったかのように回り続ける。
――そう。たとえどんなに派手に、どれほど有名な人が死んだところで変わることはない。
朝日はまた昇り、今日と何ら変わりなく、明日も同じように世界は回り続ける。
笑ってしまうほどに当り前で、どうしようもない現実。
「なんで《現実》は絶望しかないんだろう」
この世界――《現実》は絶望で満ちている。
言葉通りの〝希望〟など、あるはずもない。そう思うように大人たちは社会のシステムを組み上げた。
自分達の都合がいいように、自分達にだけオイシイ思いができるように。
ルールが秩序を作り、秩序が社会を形成する。作り上げた社会はいつの間にか人間を区別し、色分けする。「勝ち組」と呼ばれる強者が、「負け組」という弱者からカネと力を奪い、絞り取る。
社会の掟がそうならば。
誰も何も救いが無いのなら。
(――自分の掟で戦うしかないじゃないか)
「はぁ……。ホント、絶望しかないよなぁ……」
行き場のない望の独白が、部屋の中を彷徨い、消えて行く。
そして望は深い深い闇の中へと――落ちて行かなかった。
◆
(なんだ……ここは?)
眠りにつき、視界が暗くなるのと同時にその先から白い空間が姿を現す。望の意識がそれに合わせるようにゆっくりと覚醒した。不思議な感覚だった。ついさっき望はベッドに倒れ込み、ちょうど電源をOFFにするかのようにブチッと意識を切ったはずだと思っていたのに。
だが、なぜかまたもや意識が覚醒したのだ。
眼前に広がる景色に対し、〝今までこんな風景を見たことがない〟というのが、最初に望が抱いた感想だった。
なぜならそこは――
(白――。白い、世界……?)
ただただ白い、真っ白な風景が目の前に広がっていただけだったのだから。
声を出そうにも出すことはできない。いや、声を出しているのかさえも分からない。
今、自分は立っているのか、それとも座っているのかも分からない。まるで真っ白なミルクの中に自分が溶け込んでしまったかのようでもある。
そんな状況の中、意識だけが肉体と切り離されているような感覚が望を支配していた。
(どこだ……ここは? なんでこんなところにいるんだ?)
状況を整理しようと頭が回転を始める。今自分の身に起きている現状を夢を夢として捉え、冷静に分析する。
(あぁ……。こういうの、明晰夢っていうんだっけ?)
回転を始める頭の片隅に、ふとそんな単語が浮かんだ。
直後。
「――ようこそお越しくださいました」
柔らかく、優しい声が望の耳朶を打った。
「いつの間に……って、あれ?」
(変だ……声が出る)
望には、もう訳が分からなかった。さっきまで声も出せなかったのに、言葉が聞こえた瞬間、自分の放った声も聞くことができた。
「ここは〝白夜ノ神殿〟と申します。あなたは――選ばれたのです」
目の前にふっと現れた少女が、ふわりと包み込む暖かな微笑みを湛えながら、望の問いに答えた。
さらさらと銀糸のように細く艶のある白い髪。そして白一色の中で映える蒼い瞳がこちらを見つめていた。白い服を身につけているのか、体の輪郭がはっきりとは窺い知ることはできない。
動きに合わせ、光の加減でかろうじて覗く身体のラインが、望に「少女」という印象を与えてくれた。
「――はい?」
「ですから、あなたは選ばれたのです」
少女は、確信めいた口調で再度そう言い切った。
「選ばれたって誰に? 何をする気なんだ?」
望は早鐘のように打つ心臓を必死で抑えつつ、自分を落ち着かせるように、ゆっくりと目の前の少女に訊ねた。
「それはこれから順々にお話しいたします」
くすくすとじゃれるように笑うも、目の前の少女がメイドのように折り目正しい挨拶をする。再び顔を上げた彼女が指し示した方向へと視線を向けると、そこには大きな扉が姿を現していた。
(……あれっ? こんなのさっきあったっけ?)
望は疑問に思いながらも、素直に少女の後を追った。
その扉は大きく、まるでずっと待っていたかのように、静かに望を招き入れた。
扉を抜けた先には、またもや白い風景が広がっていた。しかし、望の歩みに合わせて足元から音が聞こえることが、「ここは建物の中だ」という認識をかろうじて与えてくれた。
「…………」
「…………」
望の一歩前には、先ほど突如として姿を現した少女が先導してくれていた。
「あぁ~……。まず聞きたいんだけど……。君の名前は?」
望はただ黙々と歩くことに飽きたのか、目の前を案内する少女の背に問いかけた。
「私ですか? ……私には『名前』などというものはありません」
「名前がない?」
「えぇ。そもそも、私には『名前』などという個体の識別名はいらないのですよ。私は数多あるうちの一つ。〝重複存在〟とも呼ばれる存在なのですから」
そう言われて望は、少し言葉に詰まった。
名前がないのならば、どう見ても初対面の相手にどうやって話を切り出せばよいのか分からない。そもそも望にはこれから何が行われるのか、その目的が分からないのだ。
(この人に訊こうかと考えていたんだけど……。どう切り出そうかなぁ)
「ふふっ。名前がないのがそんなにオカシイことですか?」
望の前を歩く少女が、望の煮え切らない表情をちらりと見て笑っていた。
「いや、まぁ……ね。名前ってその人を示す大事な『存在証明』の一つでしょ? それが無いこと、無いことを平然と受け入れていることが不思議でさ」
望は頭を掻きながらも、少女の言葉に続けた。自分の名前は他者と区別する最も簡単で最も効率的なものだ。自分の証として名前も無い者は、他者との違い――すなわち「自分」を確立して一人で生きてはいけない。
「『存在証明』――ですか。人間とははなはだ可笑しい生き物ですね。自分の名前という究極的な『存在証明』を持っていても、『他者とは、自分とは何だ?』と、結局は区別したはずの『他者』という存在によって自分の立ち位置を簡単に見失ってしまうのですから」
(へぇ……)
普通の人なら、「えらく哲学的な話だよね」、と笑って済んでしまう話ではあった。だが、望にはなぜか目の前の少女が微笑みながら人間を皮肉るさまは、どこか自分と似通っているように思えてならなかった。
「そうだね。なかなかに興味深いことではあるね。確かに僕も人間なんてものは愚かしい生き物だと思うよ。でも、今この瞬間で言うならば、ここには僕と君しかいない。君に自己が確立していないのなら、僕はコミュニケーションすることもできない。コミュニケーションが取れないんじゃあ、君と話してこれからのことを考えることができないでしょ? 何のためにここに呼ばれ、これから何をしようとしているのかが分からない。それは僕としては困るんだよね」
望は肩を竦めつつ、少女に語りかける。
「でも、今はコミュニケーションができているのではありませんか?」
「確かに、〝今は〟ね。でも、僕ら以外の人物がいたらどうなんだろ? 僕以外の人に名前なんてなかったら? 僕は誰に訊き、誰と話し、誰とコミュニケーションを図らなければならないんだ?」
「では、私はどうすれば?」
目の前の少女は謝ることも怒ることもなく、ただ望の前を先導するだけだった。
「う~ん……。まぁ取り合えず、無理矢理にでも自己を確立させてもらうよ。だから、僕は君をこれからこう呼ぼう――眞白、ってね」
「御随意のままに」
望を先導する、眞白と名付けられた少女がこくりと頷いた。
◆
「では、こちらでお待ちください」
先導していた眞白が恭しく礼をする。導いたその先には、ただ一つの背もたれがない赤いスツールだけが寂しそうに置かれていた。真っ白な世界に映えるその赤は、ひどく際立っていて眼が引き付けられる。
(夢なのに妙にリアルだな……)
眞白との会話、自分が歩いているという感覚。夢であるはずなのにそれと感じさせない現実感があった。望はゆっくりと導かれた先にあったスツールに腰かけた。
(けどなぁ……)
望はもう白一色の世界には見飽きていた、というのが正直な感想だ。そもそも、初めから今に至るまで、自分の歩んでいた世界に変化がないのだ。望の目がスツールを捉えるまで、正直その場で足踏みをさせられていたのではないか、という疑念すら湧いていたほどだった。
それが逆に、これが現実ではないことを密かに訴えているように思えてならなかった。
「それにしても……。一体、何を始めようというんだ……?」
望がぽつりと声を出すが、誰もその問いに答えてくれる人はいない。唯一手がかりを得られそうな眞白は、先ほど望を送り届けるや否や、まるで最初から誰もいなかったかのように姿を消していた。
一秒、十秒、一分――……。
刻一刻と時間だけが過ぎていくように思える。望がいる場所には時計が無いため、正確にどのぐらい時間が経ったのかが分からなかった。
(これが死後の世界というものなのかな?)
ふとそんな考えが望の脳裏をよぎる。どんな根拠で? という思いは正直あった。
しかし、こんな不可思議な場所は、世界のどこにもあるはずがない。
相川に殴られ、蹴られ、ベッドに辿り着いた途端、自分は死んでしまったのではないかとさえ思えた。
(これが、「臨死体験」というヤツなのかな?)
眞白に先導されて渡ってきたのが、かの有名な「三途の川」というもので、ここが死後の世界なのかもしれない……などと時が過ぎるほどそんな気持ちが大きくなる。
そんなことを考えてからは、既に時間の感覚は無かった。
ここでこれから生まれ変わるのを待つのだろうかと考えていた時、
――リィィィン、ゴォォォォォォン……リィィィン、ゴォォォォォォン……。
「な、なんだ?」
かすかに鳴る鐘の音が望を思考の海から引き揚げてくれた。鐘の音は遠く静かに鳴り響き、そして次第に大きくなっていく。
――リィィィン、ゴォォォォォォン……リィィィン、ゴォォォォォォン……。
「長らくお待たせいたしました」
目の前には先ほど望を先導していた少女がゆっくりと頭をあげてこちらを見つめていた。
深く蒼い瞳が、望を射抜くように捉えていた。
望は目の前に立つ少女が、まるで壇上で踊る一人の役者のように思えた。少女はそれほど白く何もない壇上の上で輝いていたのだ。その瞳はただ静かに、ただ深く、絶望も希望も怨念も愛情も恨みも羨望も喜びも全て飲み込むほどの深い色を湛えて、静かに言葉を紡いだ。
「――これから〝撰択の儀〟を執り行います」
目の前の少女の言葉とともに、望は遠くで何かが音を立てて崩れていくのを聞いていた。
しかし、望には崩れたものが何だったのか、判別するだけの時間は与えられなかった。
ここで出てきた「真っ白な世界」は、作者の体験をもとに構成されています(嘘デス)。
※タイトルにもありますが、「選択」ではなく「撰択」です。(意味は一緒で表記が微妙に違うだけっちゃあそれまでですが……)