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クリスマスは誰のもの?  作者: ミムラ ヒジリ
1/4

強制参加?

クリスマスの記念に書きました。

地味な話ですが、お読み頂ければ幸せです。



 

「ああ、母さん。そう、俺。翔太しょうたはどうしてる? そうか、テレビ見てるか……。いや悪いんだけどさ、まだまだかかりそーなんだわ。それで翔太に飯を食わしてやって欲しくて……、え? 残業? いや、違うよ。別口。そっ、保育園のね、役員会。こいつが思ったより、かかりそーなんだわ。……ああ、じゃあ頼むよ飯。うん、終わったらすぐ迎えに行くから。じゃ」

 

 電話を切ると、田上耕平たがみこうへいはため息をついた。

 明かりの付いた階段下のホールから、上階にある広い遊具室を仰ぎ見る。役員会が行われている筈のその部屋からは、何の物音もして来ない。

 きっと電話をかけるからと耕平が席を立ったあとも何一つ状況は変わっておらず、誰もが押し黙りただ虚しく時間だけが過ぎているのであろう。

 ホールの前には玄関があり、ガラス戸の向こうには月の登った夜空が見えている。耕平は携帯の示す時刻を確認した。夕刻から始まった役員会は、十九時になろうかとする現在も終わる兆しは見えなかった。

 

 

 田上耕平はこの白鳥しらとり保育園に、子供を預けて働くシングルファザーだ。

 妻のいずみは、息子の翔太が一歳だった五年前に、事故で他界した。それから彼は、実家の母親に保育園のお迎えや時々の守りなどを助けてもらいながら、一人で息子を育てている。

 

 今まで耕平は父子家庭ということもあり、保育園の行事等どうしても顔を出すことが難しく、いつも母に任せきりになっていた。

 そのため役員なども回ってくる気配すらなかったのだが、今年の春とうとう貧乏クジを引いてしまったらしい。

 春の恒例行事である参観日のあと行われた懇談会にて、彼の代わりに参加していた母が、役員を決めるくじ引きを見事に引き当ててしまったらしいのだ。

 仕事を終え息子を迎えに実家に寄った彼は、母からその話を聞いた時、あまりのショックにしばし口がきけなかった。

 すぐさま父子家庭を理由に役を断ろうとしていた耕平だったが、息子の翔太から待ったがかけられる。最後の年ぐらい、父と行事を楽しみたいと懇願されてしまったのだ。

 役員は保育園行事に参加する機会が多いため、翔太はいつも欠席していた父がやって来るのでは、と期待したようだった。

 翔太は来年の春には小学校に上がる。保育園で過ごすのも今年が最後。

 仕方がない。最後の年ぐらい、息子の生活に触れて成長振りを感じてみるのもいいかもしれない。

 そんなことを考え、耕平は渋々引き受けることにしたのだった。

 

 しかしいざ蓋を開けてみれば、耕平には名前だけの会長と言う肩書きがあてがわれ、実際の行事参加などの負担は免除してもらえた。

 三十二歳という油の乗った年齢の耕平は、会社でも重要な仕事を任されることが多く、保育園行事のために再々仕事を休むことはやはり難しい。

 他の役員をしている母親も、そこのところを理解してくれたらしく、何かあれば会長として挨拶などをする代わりに、仕事の負担を減らしてくれたのだった。

 そうして、この一年がなんとか無事に過ぎて行き、そろそろ年末が見えてくる時期になってきた。

 

 この時期にはクリスマス会という大きな行事がある。

 

 今日集まっているのも、クリスマス会でする保護者会からの出し物を決めるためのものだ。

 だがこれも、いつものように耕平はスルーできる筈だった。ーー筈だったのだが、こうしてクリスマス会のための話し合いに、参加せざるを得なくなっている。

 今回ばかりは、逃れることは叶わないらしい。

 

 しかし、今までどんな話し合いにも出席していなかった耕平には、勝手が全く分からなかった。

 だから役員会というものが、こんなに手こずるものだとは知らなかったのだ。

 一応進行を担当している、副会長職の園児の母親がいるにはいるのだが、全く仕切れていない。

 しかも彼女は小さな声で「何か意見はありませんか?」と促すだけで、自分からは何のプランも提供することはない。

 他の母親も似たり寄ったりで、聞こえてくる声は私語や関係のない会話ばかりだった。

 耕平は十分もしない内に、この不毛な会議に見切りをつけた。これでは終わるものも終わらない。

 場所を提供してくれている保育園側も、役員の子供を見ながら会の終結を待っているようだが、母親達はよっぽど帰りたくないのか、何一つ決めようとはしていなかった。無駄な時間ばかりが虚しく過ぎていく。

 勝手の分からない自分が、むやみに口出しして水を差すのもまずいと、発言を控えていたがそうも言ってられないだろう。

 これ以上は我慢できない。早く終わらせるには、彼が音頭を取るしかあるまい。

 

 耕平は携帯電話を胸ポケットにしまうと、部屋に戻るべく階段を上がる。進行を代わってもらい、こちらで議題を片付けてやろうと考えていた。

 

 

「あら、翔君のパパじゃない」 

 その時、階段を上がりかけた耕平の背中に弾んだ声がかかった。

 振り向くと、玄関の上がり口の所で靴を脱ぐ翔太の同い年の園児、秋元真凛あきもとまりんの母親の姿があった。

 彼女は纏った冷気を振り撒きながら彼に並んでくる。相変わらず濃いメイクと派手な装いだ。香水まで身に付けているようで、彼は密かに顔をしかめた。

 

「よかった、まだ終わってないんでしょう? なんとか間に合ったわ」

「もう七時ですよ? まだ終わらないのが信じられないくらいですがね……。五時頃からしてる筈なのに」

「田上さんは五時から役員会に?」

「いや、さすがにそれは無理ですよ。六時過ぎから出ています」

「そう。いつもこんなもんだから、時間なんてあんまり気にしたことなかったわ」

 寒い中を保育園までやって来た秋元真凛の母親は、鼻の上をほのかに赤く染めてケラケラと笑った。

 

 今頃のこのことやって来て、悪びれもせずこの態度か。

 

 彼は呆れて彼女を盗み見た。

 男の耕平ですら、早目に仕事を切り上げ六時には顔を出しているのに、こんな時刻に悠々とやって来るとはどんな神経をしているのだろう。仕事だってただのパートか何かの筈である。

 

 耕平はこの母親が苦手だった。

 いやーー、苦手と言うより、むしろ嫌いと言った方が正しいかもしれない。

 そもそも彼が、クリスマス会に半強制的に参加させられる羽目に陥ったのも、この役員の一人である、秋元真凛の母のせいであったのだから。

 

 

 

 彼が彼女を嫌うのには、勿論ちゃんとした理由があった。

 

 彼女ーー秋元真凛の母とは、少々因縁めいた関係が彼にはあるのだ。

 まあ、関係というほど深いものではないのだが、彼から見れば手っ取り早く断ち切ってしまいたいくらい、憂鬱なものである。

 

 息子の翔太が彼女の娘と同じ組ということもあり、以前から『真凛ちゃん』の名前は、家でも度々耳にはしていた。

 翔太は一緒に入る風呂の中で、毎日園での出来事をせっせと聞かせてくれる。その際彼女の話も出てくるので、仲の良い友達だとずっと微笑ましく思っていたのだ。

 

 その考えが覆されたのはいつのことだったか。

 もう記憶が定かではないが、確か去年か、あるいは一昨年の運動会でのことだったと思う。

 実家の母親と共に見学をしていた耕平は、突然きつい調子で声をかけられた。

「あなたが田上翔太君のパパ?」

 声をかけてきたのは見たこともない女性だった。年の頃は、彼よりかなり下に見える。

 派手に金色に染めた髪の毛に、今流行りの盛り上げてボリュームを出した髪型。アイラインをきつく引いた青に見える瞳と、毒々しい化粧。短いスカートからは足を晒して、目のやり場に困るような格好を平気でしている。

 園児の母親なのだろうか。

 それにしては不釣り合いな出で立ちだった。親子競技をこの姿でやるのは無理だと思うが、いったい誰なのだろう。

 彼には園に知り合いなどいない。目前の女性に心当たりなどなかった。

「そうですが、どちら様ですか?」

「私、秋元真凛の母親です」

 相変わらずきつい口調で女性は名乗った。

「真凛ちゃんの? ああ、それは。いつも息子がお世話になっています」

 だが彼女は彼の挨拶を無視して怒鳴ってきた。

「お宅の翔太君、いい加減になんとかしてほしいんだけど。いつもいつも真凛を苛めて、どういうつもり?」

 思いもしない罵声に彼は面食らって狼狽える。

「え? 翔太が?」

「ええそうよ、私が朝せっかく綺麗にセットした髪の毛は引っ張りまわしてメチャクチャにするわ、意地の悪いことを泣くまで言ってくるわ、真凛がちょっとミスすると大声で囃し立てるわ、あの子、毎朝保育園に行くの嫌だと泣いているんですから」

 彼女の剣幕に、彼は呆気に取られて黙り込んだ。寝耳に水の話であった。翔太が真凛を苛めていたとは、彼は予想すらしてないことだったのだ。

「これ以上、こんなことが続くようなら考えさせてもらいます。ちゃんと注意してちょうだい」

 捨て台詞を残して女性は立ち去ろうとする。その瞬間、耕平の胸に怒りが湧いた。彼女の言い分は、息子に対する不当な言いがかりのように思えた。

「ちょっと待ってもらえませんか」

 彼の呼び止めに真凛の母親は振り向く。彼女は濃いメイクをした顔を歪ませて彼を睨んでいた。

「何よ、文句でもあるの」

「文句など……。息子が申し訳ないことをいたしました。それはお詫びします。だが今の話を聞いていたら、あの年頃の子供にはよくあることだと俺は思いましたがね。好きな女の子をからかって苛めたことは、俺にも経験ありますし。翔太は怪我をさせたりはしてないんでしょう? そんな目くじら立てて、親が怒鳴りこむ話ではないと思いますよ」

「な、なあに、あなた?!」

「だから、ちょっとした子供のいたずらまで、そんな恐い顔で糾弾しなくてもいいって話ですよ。息子もその内気が付きます。このままじゃあ彼女に嫌われるってね」

「え? な、何? き……、きゅうだん?」

「とやかく言って、相手を責め立てることですよ」

「なっ、とやかくだってぇ〜?」

 耕平が小馬鹿にしたように笑ってみせると、真凛の母親は火を吹くばかりに顔を赤くした。

「信じられない、謝る振りして馬鹿にするなんて!」

「してませんよ、馬鹿になんて」

「してるじゃないの、思い切りっ!」

 女性は盛りヘアで高くなった頭をブルブルと振るわせながら、耕平を突飛ばしかねない勢いで彼へと近付いて来た。

 それから通り過ぎる瞬間、耳の側で大きな啖呵を切る。

「うちの真凛に二度と近寄らないで。あんたの息子に、きっちりそう言っておいてよ、分かった?!」

 キーンとした耳鳴りの消えたあと、既に彼女の姿はなかった。

 

「すごかわったわねえ、今の」

 横で一部始終を見ていた母の頼子よりこが、呆然としたように呟く。

「今頃の若い人は皆あんななの? わたしらの時には人前で他人に、あんなふうに噛みつくなんて考えられなかったよ」

「さあ、どうだか? 俺にも分からん」

「あんたには再婚してもらいたいけれど、あんなお嫁さんは、わたしは嫌だねぇ」

 頼子はいつもの口癖を、こんな場所でも漏らしている。

 馬鹿馬鹿しい。相づちを返す気力すらなくなり、耕平は目線を逸らした。

 運動場では一歳前後の園児達が、可愛らしい踊りを披露して場を和ませていた。

 

 彼にとって妻と呼べる女は、今も亡き泉だけだ。共に暮らした日々は短いものだったが、一生分の思い出を作ってくれた。それに彼女は愛する息子を授けてくれた。泉以外の妻など彼には必要ない。

 

 この気持ちは彼女が亡くなってから五年経った今でも、変わらず耕平を支えている。

 

「それにケバい化粧とあの短いスカート。あれが母親だなんて世も末だね。ああ、おっかなかったわァ」

 頼子は孫への非難に内心剥れているらしい。しつこく真凛の母親に対して、怖い怖いを連発していた。

 その意見には耕平も賛成だった。怖いと言うより、不快な存在という程度のものではあるのだが。

 

 彼は妻が亡くなってから、息子と二人男所帯となっていた。身近な女は年老いた母親だけ。母は口やかましいが甲高い声は上げない。息子もわんぱくだが、我が儘を言って煩く騒ぐタイプではなかった。

 だから久しぶりだったのだ。女性のキンキンと鼓膜に響く声を聞いたのは。

 それは想像以上に苦痛なことだった。

 こちらこそ、もう二度とお目にかかりたくない。耕平は心の中で悪態をついた。

 

 

 これが、彼女と耕平の最初の出会いだった。この出会いにより、彼女に対する悪印象を彼は持ってしまったのである。

 

 それからというもの、耕平は息子にきつく言い含めてきた。

 もう二度とあの母親にかかわりあいたくない。

 息子が何を思い真凛を苛めているのか、その理由などある意味どうでもよかった。とにかくあちらから要らぬ攻撃を受けたくない。

 それだけが彼にとって最重要事項だったのだ。

 しかし、きつくきつく、何度も繰り返し言って諭しても、翔太が真凛にちょっかいを出すのは止まらなかった。

 そしてその度に、真凛の母からきっちりと抗議を受けてしまう。

 耕平にではなく、迎えに赴く彼の母に言い立ててくるのだ。母も彼女に辟易して、時に孫にきつく当たったりもしていたものだった。

 

 そんな憂鬱な日々がしばらく続いていたのだがーー。

 永遠に続くかと思われた日々にも、終わりは必ず来るものだ。

 翔太もやっと周りの言うことが分かってきたのか、あちら側からの息子に対する不満も段々聞かれなくなり、田上一家と秋元一家の対立も今では下火になってきている。

 最近では、彼女を毛嫌いしていた筈の頼子も、心境に変化が出始めているようだ。

「真凛ちゃんのママに、教えて貰ったお店のケーキを買ってきてるわよ。翔太も美味しいって、あんたも食べるでしょ?」

 などと息子を迎えに現れた耕平に勧めてきて、あちらと仲良くなっている様子まで見せ始めていた。

 全く、女というものは。

 食べ物の話をすれば、大概うまくいくものらしい。

 

 だが耕平は御免だった。

 秋元真凛の母親とどんな形であれ、金輪際かかわりあいたくなかったのだ。

 

 しかし運命とは、得てして皮肉な真似をしてみせる。

 新しい一年が始まり、翔太もいよいよ保育園最後の年かと感慨深く感傷に浸っていた耕平に、嫌味のようなオマケを押し付けてきたのだ。

 曰く、秋元真凛の母親と一緒に役員になるという、最悪のオマケである。

 そしてつい先日のこと。

 長いことスルーで済んでいた役員仕事から、参加の要請がとうとうやってきてしまった。

 さぼりがちの耕平を、引っ張り出すことを提案した犯人は、どうやらこの、秋元真凛の母親らしいのだ。

 

 

 

 

「ごめーん、遅くなって。はかどってる?」

 

 真凛の母が明るい声を上げながら、会議が行われている遊戯室のドアを開けた時、そこにいた母親達は一様にホッとした表情を見せた。

「もう、秋元さん、遅いじゃない。待ちくたびれたわよう」

「ごめん、ごめん。店長の奴がなかなか解放してくれなくってさ」

「店長ってパチンコ屋の?」

「う、うん……、ま、それはどうでもいいことじゃない? 今はそれよりもクリスマス会でしょ」

 真凛の母親は耕平の方に気まずい視線をチラリと送ると、話題を変えるべく改まった声を出した。

 そう、そうと母親達の顔付きも変わっていく。たった今やって来たばかりの彼女を中心に、一同は俄然やる気を出してきていた。

 耕平は急に変わった面々の雰囲気に驚く。

 つい先ほどまで、纏まりもない、話し合う空気さえ感じることの出来なかった母親達が、一人の人間が入ってきただけで目を輝かせ会議に臨み始めたのだ。

 

 これはいったいどういうことなのか。突如として変わってしまった状況に、彼は思考が追い付かない。

 

「議題はクリスマス会での出し物でしょう? で、何か出た?」

 真凛の母親は、集まった役員達の顔をぐるりと見回した。いつの間にか、進行役まで彼女に変わってしまっている。役員の一人が、申し訳なさそうに答えを返した。

「ううん、まだ」

「そう……」

 彼女は呆然としている耕平を一瞥した。彼の意見を期待したのだろうか。だが特に何も問いかけもせず、視線を再び前へと戻す。

 何だか嫌な感じだった。彼は彼女の態度に妙な胸騒ぎを覚える。何故自分はこの席にいるのだろう。そんなことさえ頭を掠めていた。

 それから彼女は、思い切ったように大きな声を出す。

「ねえ、わたしにいい考えがあるんだけど聞いてくれる? あのね、保護者がサンタとトナカイに扮して赤鼻のトナカイの寸劇をするのってどう?」

「ええっ! 劇?」

 母親達がざわついた。

「無理じゃないの? 準備とか大変でしょう」

「準備は任せて。わたし洋裁得意なんだ。だから衣装は大丈夫。それに劇って言っても、歌に合わせてコントみたいなことをするだけだし、簡単よ」

「う、う……ん」

「そうね……」

 彼女以外の役員達はお互いに顔を見合わせて、答えあぐねているようだった。劇はなかなかハードルが高い出し物だ。準備もだが、練習する時間だって取りにくい。

「だけど、誰がするの? サンタとトナカイ。アミダくじとか?」

 一人の母親が彼女に尋ねる。元は進行役を努めていた、副会長職の気弱い感じがする女性だった。

 

「配役? それなら決まってるわよ。言い出しっぺの私ともう一人はーー」

 真凛の母親は耕平の方へ視線を向ける。目元を彩るアイラインやマスカラが、大きな目を怖いくらい印象付かせ、よからぬ企みをくわだてる魔女のような、不気味な迫力を持って彼を見つめていた。

 彼女はにっこり微笑んで口にした。

「会長の田上さんよ。よろしくね、翔君パパ」

 

 

 

  ***

 

 

 

「父ちゃん、お帰りぃ〜!」

 会議を終えて実家に戻って来た耕平に、息子の翔太が飛び付く。玄関先で二人は恒例となったハグをした。

「翔太、飯は食ったのか?」

「うん、ばあちゃんから貰った。美味かったぞ、カレーライス」

 翔太の元気な笑顔は、彼の疲れた精神を癒してくれる。家の中に漂うカレーの匂いに、彼の腹がグウッと鳴った。

 台所から母の頼子が顔を覗かせている。

「お帰り。あんたも食べて帰るでしょう」

「ああ、頼む」

 耕平も実家で夕食をご馳走になることにした。役員会でのダメージが強すぎて、家に帰って飯の支度など出来そうもない。母の申し出はありがたかった。

「親父は?」

 カレーライスを持って来た頼子に、何気なく尋ねる。

 父は定年後に勤め出した職場で、いまだ現役だ。母の後から翔太がニコニコしながら水を持って現れ、耕平の前に置くと飛び跳ねた。

「今日は忘年会だって。遅くなるって言ってたけど」

「忘年会? 早いな、まだ十一月だろ」

「感じのいいお店を見つけたんだって、師走は混むからとか言ってたわよ」

「ふうん」

 カレーライスをひとくち口に運んだ彼の顔を、頼子と翔太が食い入るように見つめていた。

「何だよ?」

 二人の真剣な眼差しに少々怯みながら問いかける。

「美味しい?」

「ああ……」

 翔太が我慢出来ないというように、大声を出して噴き出した。

「それ、チョコレートが入ってるんだ!」

「はっ? ち、チョコ?」

 びっくりして固まった耕平を、息子と母親が愉快な笑い声で包んでいった。

「実はね、それ、真凛ちゃんのママに聞いたのよ。美味しいから試してみてって」

 頼子の説明に、耕平の口からカレーライスが吹き出ていた。

 

 

 

 結局あのあと耕平は、秋元真凛の母親とクリスマス会の出し物に、出演することが決定した。

 

 他の役員の母親達は彼に気の毒そうな表情を見せながらも、役を代わろうとしてくれる者など、一人としていなかった。

 想像もしていなかった展開に気が抜けたようにぼんやりしている彼の側に、この事態を招いた当の本人が、平然と笑いながらやって来る。

 彼女は薄っぺらいレポート用紙を鞄から出すと、それにサラサラと数字を書きこんでいった。

「田上さん、これ私が作った一応台本。目を通しておいてね。で、もし何かあったら電話してよ、この番号に」

 あっけらかんとそう告げて、彼に紙を押し付けてくる。

 彼女が渡してきたレポート用紙に目をやれば、小さな字でセリフのようなものが書かれてあった。随分用意がいいではないか。まさかこれを書いている時から、彼を念頭に置いていたのではあるまい。

 余計な疑念が耕平の胸をよぎった。

「い、いや……俺はやるとは……」

「おかしなところは追々詰めたらいいでしょ? また連絡するから。ーーて、ことで、ハイ」

 耕平の弱々しい苦情など聞こえてないかのように、彼女はツイと手を出した。

「な、何?」

「番号教えて。連絡出来ないから」

 

 そして耕平は、あれほど避けたかった人間と、何の因果か携帯の番号交換まで、してしまう羽目になったのだった。

 

 何かの冗談に違いない。どうして、こんな状況になってしまったのか。

 やはり彼女は疫病神なのだろう。田上家に悪影響を及ぼす、天敵のようなものということか。

 最初は息子の翔太が、次には母が、いつの間にか影響を受け取り込まれていく。

 そしてとうとうこの度、耕平自身の番が回ってきたということか?

 

 冗談じゃない、勘弁してくれ。

 

 彼は秋元真凛の母親のような女が、あまたいる女性の中でも一番苦手だった。

 派手な化粧と派手な服装。軽薄そうにチャラチャラと見える外見。自分とは最も気が合わない人種だ。

 かかわり合うと、ろくなことにならないだろう。

 だから、アレも気のせいだーー。

 耕平は思い出して顔をしかめた。

 

 彼の番号を手にした彼女の、「頑張りましょ。子供達のためにも」と言って微笑んだ顔が、意外と愛くるしく魅力的に見えた。

 

 ーーなんてことは、そう、ただの気のせいであり、一瞬の勘違いでしかないのだから。




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