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追放された悪役令嬢は王宮の影から成り上がる  作者: 渚月(なづき)


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第9話 断罪の間に立つ者


 王太后の出席取りやめ。


 その知らせを聞いた瞬間、足元が崩れるような感覚がした。床が傾いたのかと思ったが、傾いたのは私の心の方だった。


 王太后がいなければ、公の場での裁定が成立しない。王太后は王宮における最高の裁定権を持つ人物だ。その人がいない場で証拠を示しても、「後日検討する」と流される可能性が高い。そしてその「後日」が来る前に、ナディアが証拠を潰しにかかるだろう。


「落ち着け」


 カイの声が耳に届いた。低く、安定した声。いつもと同じ調子だ。


「まだ『可能性がある』だ。確定ではない」


「でも――」


「だから、確定させないために動く」


 カイはヨハンに連絡を取った。ヨハンは近衛騎士団として王宮内部の情報に通じている。伝令を飛ばし、返事を待つ。


 待つ時間が長かった。書庫の中で、私は帳簿を何度も確認し直した。数字が揃っていることを確かめるためではなく、手を動かしていないと不安に飲まれそうだったからだ。


 昼過ぎ、ヨハンから返事が来た。


「王太后の出席取りやめは、ナディアが仕掛けた可能性が高い。太后の侍女長に、太后のお体の具合が悪いという報告を上げさせたらしい」


「侍女長を抱き込んだのか」


「いや、侍女長は善意で動いている。ナディアが『太后様にご無理をさせるのは忍びない。お体が万全でない中、長時間の行事はお辛いのではないかしら』と心配して見せたんだ。侍女長はそれを真に受けて、出席を止めた」


 ナディアらしい手口だった。嘘はつかない。ただ、善意の人間を使って、望む方向に状況を動かす。侍女長が悪いのではない。ナディアの言葉が巧みなのだ。本当に心配しているように聞こえるから、誰も疑わない。


「太后殿下ご自身は?」


「ご自身は出席のつもりだったらしい。だが、侍女長が強く止めているせいで、現在保留になっている」


 ならば、太后本人に直接伝える方法はないか。


「私が会いに行きます」


「無理だ。追放された身で王宮に二度も入れば、今度こそ衛兵に捕まる。前回は太后の書簡があったから通れた。同じ手は二度は使えない」


「では、別の方法で」


 考えた。太后に伝えたいのは一つだけ。「出席してほしい」ではない。「今夜、真実が示される」という事実だ。

 王太后は事実で判断する人だ。事実があれば、自分で動く。


「マルテ」


 老司書長を呼んだ。


「王宮図書室から太后の居室に、書類を届けることは可能ですか」


「定例の報告書なら、月に一度届けている。今日がその日ではないが、司書長の裁量で臨時報告を上げることはできる。公金の監査に関する報告であれば、不自然ではない」


「その報告書に一枚、帳簿の照合結果を添付していただけませんか。数字だけで構いません。フェルゼン領の交付金と、公爵家の寄付金の対照表を」


 マルテは眼鏡の奥で目を細めた。


「なるほど。太后の目に直接、証拠の一部を届けるわけか。あの方なら、数字を見ればすべてを理解する。クラーラと同じだよ。数字を読める人間は、数字だけで物語を読む」


「お願いします」


 マルテは帳簿の照合結果の要約を一枚にまとめ、定例報告書に紛れ込ませて王宮に向かった。足取りは速かった。三十年間、同じ道を歩いてきた足が、迷うことなく王宮の奥へと向かっていく。


 あとは、待つしかない。


 ◇


 夕刻。仮面舞踏会の開場まで二時間。


 日が傾き始め、西の空が赤く染まっていた。マルテからの知らせを待つ間、私は宿の部屋で母の手帳を開いていた。


 手帳の最後のページに、母の文字があった。

 『リーゼルへ。数字は正直だけれど、人は嘘をつく。だから数字で人を守りなさい』


 母は、こうなることを予見していたのだろうか。それとも、単なる帳簿管理の心得だったのか。どちらでもいい。今の私を支える言葉であることに変わりはない。


 マルテから知らせが届いた。


「太后殿下はご出席なさる。侍女長を説得したそうだ。一言だけ伝言があった――『数字は拝見した。続きを楽しみにしている』と」


 胸の奥で、何かが動いた。安堵でも喜びでもない。覚悟だ。

 王太后が来る。あの人の前で、すべてを示す。失敗は許されない。


 仮面をつけ、用意された衣装に袖を通す。華やかな衣装ではない。質素だが仕立ての良い深い青のドレス。ブリギッテが領地から届けてくれたものだ。

 そして、母の形見のブローチを胸につけた。小さな銀細工の、葉の形をしたブローチ。華やかではないが、確かな重みがある。


 宿を出ると、カイが待っていた。騎士団の正装だった。黒い外套に銀の留め金。仮面はつけていない。警護だからだ。

 いつも見慣れた姿のはずだが、正装だと印象が違う。背が高く、肩幅が広いことを改めて意識した。


「準備はいいか」


「はい」


「行こう」


 並んで歩いた。隣を歩くことに、もう迷いはなかった。

 夕暮れの通りを、二つの影が並んで伸びている。


 王宮の大広間。シャンデリアの光が仮面の群れを照らしている。数百本の蝋燭が天井の装飾に反射して、部屋全体が金色に輝いていた。音楽が流れ、貴族たちが談笑する。華やかな世界。かつて私がいた世界。けれど今は、外側から入り込んだ異物だ。


 仮面をつけている分、私の正体に気づく者は少なかった。だが、仮面の下の目は、確かにこの場を見渡していた。


 広間に入ったとき、かつての知人たちの姿が目に入った。追放される前に親しくしていた令嬢たちが、華やかな衣装で笑い合っている。私の追放後、一人も連絡をくれなかった人たちだ。恨んではいない。貴族社会とはそういうものだ。権力のある側につく。それが生き残る術だ。

 けれど、今夜からは変わる。


 広間の隅で、カイの姿を確認した。騎士団の正装で入り口近くに立っている。目が合った。彼は微かに頷いた。準備はできている、という合図。


 ヨハンは広間の反対側に配置されていた。大柄な体で目立つが、警護の騎士として自然に溶け込んでいる。


 マルテは傍聴席に紛れていた。小柄な体が仮面の群れに隠れて、ほとんど見えない。だが彼の懐には、司書長の証明印が押された帳簿の原本がある。


 会場の奥。一段高い席に王太后オルテンシアが座っていた。深い紫の瞳が、仮面越しにこちらを見つけた。

 微かに顎を引いた。それだけだった。けれど、それは合図だった。『見ている。始めなさい』。


 反対側には、ナディアが立っていた。金の髪に白い仮面。隣にはエルヴィン王太子。二人で招待客に挨拶を配っている。完璧な笑顔。完璧な装い。この場の主役は自分たちだという確信に満ちた佇まいだった。


 ナディアの視線がこちらを捉えた。一瞬、笑顔が固まった。だがすぐに元に戻った。

 私が来ることは想定内だったのだろう。だが、太后が出席していることは計算外だったはずだ。ナディアの視線が、一瞬だけ太后の席に向かったのを、私は見逃さなかった。


 音楽が区切りを迎えた。時間が来た。


 ナディアが広間の中央に進み出た。


「皆様。本日は王太子殿下より、大切なお知らせがございます」


 エルヴィンが一歩前に出る。顔は穏やかだが、目に力がない。いつものことだ。


 今だ。


「お待ちください」


 私は仮面を外し、広間の中央に歩み出た。


 ざわめきが広がった。追放されたフェルゼンの令嬢が、なぜここにいるのか。囁きが波のように広がっていく。


「僭越ながら、王太子殿下のお知らせの前に、皆様にお伝えしなければならないことがございます」


 ナディアの目が鋭くなった。白い仮面の下で、唇が引き結ばれている。


「何をするつもり?」


「真実をお伝えするだけです」


 声は震えなかった。

 ここまで来るのに必要だったすべてのもの――母の帳簿、マルテの知恵、ブリギッテの励まし、領民の声、ヨハンの協力、カイの存在。そのすべてが、今の私を支えていた。


 懐から書類を取り出した。手が冷たかったが、震えてはいなかった。


「フェルゼン領の交付金に関する帳簿が改竄されています。元帳と照合した結果、三年分の差額は合計四千ルカ以上に上ります。この金額はヴァルトシュタイン公爵家を通じて王宮に還流されていました」


 広間が静まった。音楽も止まっている。

 四千ルカ。その数字の重みが、貴族たちの間にも伝わったのがわかった。


「照合の根拠は、私の母クラーラ・フェルゼンが生前に作成した帳簿の写しです。母の帳簿と、王宮保管の元帳を突き合わせた結果、改竄の痕跡が確認されています」


 書類を一枚ずつ、読み上げる。年度、項目、金額。母が教えてくれた通り、正確に、順序立てて。


「証拠はこちらにございます。王宮図書室の司書長マルテ殿の証明印付きの照合結果、フェルゼン領民の署名入り証言書、そして――」


「嘘です!」


 ナディアが叫んだ。微笑みが剥がれていた。仮面を外し、碧い目を大きく見開いている。


「この女は追放された罪人です。偽造した書類で私を陥れようとしている!」


「偽造ではありません。帳簿の原本は、司書長が保管しています。そして、もう一つ」


 広間の入り口が開いた。ヨハンに伴われて、ディーターが姿を現した。


 ナディアの顔から、完全に血の気が引いた。あの完璧な微笑みが、初めて完全に消えた。


「ディーターが、すべてを証言しています。改竄の指示が誰から出たか。資金がどこに流れたか。すべてを」


 ディーターはナディアを見なかった。目を伏せたまま、書類を差し出した。


「ナディア・ヴァルトシュタイン様の指示により、フェルゼン領の帳簿を改竄しました。すべて私の手で行いました」


 広間が騒然となった。


 ナディアがエルヴィンの腕を掴んだ。


「殿下、この者たちの言葉を信じるのですか? 私は何も――」


 エルヴィンは口を開きかけ、そして閉じた。視線が泳いでいた。窓の外に目を逸らそうとして、けれど逸らす窓がなかった。大広間の窓はすべてカーテンで覆われている。


 大広間の最奥から、静かな声が響いた。


「証拠を見せなさい」


 王太后オルテンシアだった。


 広間が静まる。茶室で聞いたのと同じ、静かで揺るぎない声だ。


 私はすべての書類を侍女に渡し、王太后の元に届けさせた。


 長い沈黙。王太后が書類に目を通す間、広間の誰もが息を潜めていた。蝋燭の炎が揺れる音すら聞こえそうなほどの静寂だった。


 やがて、王太后は顔を上げた。


「この件については――」


 全員の視線が集中した。


「――明日、正式な裁定の場を設ける。本日の舞踏会は中止とする」


 即決ではなかった。けれど、それが正しかった。

 感情で裁くのではなく、制度の中で正しく裁く。王太后はそういう人だ。あの茶室で私に言ったことと、矛盾しない。


 ナディアの仮面が床に落ちた。白い仮面が、石の床の上で乾いた音を立てた。

 拾おうとしないまま、彼女は立ち尽くしていた。


 私は広間を出た。

 廊下で、カイが壁に背を預けて待っていた。


「終わった?」


「まだ途中。明日が本当の裁定だから」


「そうか」


 カイは壁から背を離し、私の隣に立った。


「よくやった」


 短い言葉だった。でも、それが一番嬉しかった。


 月が高かった。

 王宮の尖塔が白く光っている。あの回廊を追い出された朝から、ずいぶん遠くまで来た。


 ――明日、すべてが決まる。今度こそ、本当に。


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