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追放された悪役令嬢は王宮の影から成り上がる  作者: 渚月(なづき)


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8/10

第8話 騎士の誓いと沈黙の太后

ディーターは、王都の南門近くの安宿に身を隠していた。


 カイとヨハンの騎士団情報網が突き止めた。南門周辺は日雇い労働者や旅商人が多く集まる地区で、身元を問われることが少ない。逃亡資金は持っていたものの、国境の通行証がまだ届いておらず、足止めされていたらしい。


「会いに行く」


「俺も行く」


 カイの言葉は、もう当然のことのように聞こえた。いつからか、「俺も行く」は二人の間で確認ではなく、前提になっていた。


 安宿の一室。扉を叩くと、しばらく沈黙が続いた後、鎖の音がして扉が開いた。薄暗い部屋の中から、饐えた匂いが漏れた。何日も外に出ていないのだろう。


 痩せた男が立っていた。影の薄い風貌。だが、記憶の中のディーターよりもさらに痩せている。頬がこけ、目の下に濃い隈がある。けれど目だけがぎらぎらと光っている。追い詰められた獣の目だった。


「あなたがディーター殿ですね」


「……誰だ」


「リーゼル・フェルゼンです」


 名前を聞いた瞬間、ディーターの顔から血の気が引いた。一歩後ずさる。壁に背が当たって、それ以上下がれない。


「お話があります。座っていただけますか」


 声を穏やかに保った。この男を追い詰めるつもりはない。追い詰めれば、口を閉ざすか、嘘をつくかのどちらかだ。


 部屋に入る。カイが扉の横に立った。威圧のためではなく、逃走防止のためだ。彼は腕を組んだまま、一言も発しなかった。


 ディーターは椅子に座ったものの、視線が定まらない。指先が細かく震えている。手袋をはめた手を膝の上で握ったり開いたりしていた。


「ナディア様に何か吹き込まれて来たのか」


「いいえ。ナディアとは関係ありません。むしろ、あなたはナディアに切り捨てられかけているのでは?」


 ディーターの指が止まった。


「口止め料を渡されて、国外に逃げるよう指示された。でも、あなたは逃げ切れていない。通行証がまだ届いていませんね」


 沈黙。


「ナディアはあなたが国境を越えたかどうか、確認もしていないのではないですか。もう関心がない。公爵家の使用人名簿から、あなたの名前は消されています」


 ディーターの目が揺れた。名簿から消されたという事実は、彼にとって衝撃だったらしい。唇が震えている。


「ディーター殿。あなたがフェルゼン領の帳簿を改竄したことは、すでに証拠があります。帳簿の筆跡、インクの違い、改竄の時期。すべて記録に残っています」


「証拠だと? そんなものは――」


「あります。そして、仮面舞踏会の運営費に紛れ込んだ架空支出も。『特別警護委託費』として計上された二千ルカ。あなたへの口止め料の出所も、帳簿に記載されていました」


 ディーターの顔が歪んだ。手袋をはめた手が、膝の上で震えている。


「あなたには二つの道があります」


 私は声を落ち着かせた。感情を出してはいけない。この男に必要なのは、冷静な選択肢の提示だ。怒りをぶつけたいのは山々だが、それでは何も得られない。


「一つ目。このまま逃げ続ける。けれどナディアはあなたを助けに来ません。むしろ、あなたの存在が彼女にとって最大のリスクです。証拠を持った人間が野放しになっている。いつ消されてもおかしくない」


 ディーターの喉が鳴った。


「二つ目。真実を証言する。誰の指示で帳簿を改竄したか、すべてを話す。王太后の前で証言すれば、あなたの身の安全は騎士団が保障します。罪が消えるわけではありませんが、協力者として減刑の余地はあります」


 カイが小さく頷いた。それだけで、言葉に重みが加わった。騎士団の副団長が保障するという意味を、ディーターは理解したはずだ。


 長い沈黙が落ちた。窓の外から、路地を歩く人々のざわめきが遠く聞こえる。


 ディーターは手袋をはめた手を見つめていた。いつも二重にはめるという手袋。記録を書き換える時の癖だ。インクが手につかないように、証拠を残さないように。


 やがて、彼はゆっくりと手袋を外した。一枚目。そして二枚目。素手の指が震えていた。インクの染みが、爪の際に残っている。洗っても落ちなかったのだろう。


「……ナディア様は、仰った。フェルゼン家が消えれば、すべてうまくいく、と」


 声は掠れていた。何日もまともに話していなかったのだろう。


「最初に指示を受けたのは、クラーラ様が亡くなった直後でした。葬儀の翌週に、ナディア様に呼ばれた。『フェルゼン領の帳簿を少し調整してほしい』と。最初は本当に少しだった。数字をほんの僅かずらすだけ。罪悪感はあった。でも、ナディア様に逆らうことの方がもっと怖かった」


 ディーターは手袋のない素手を見つめながら続けた。


「帳簿の改竄は、すべてナディア様の指示です。交付金の流れを変え、その金をヴァルトシュタイン家の寄付として王宮に戻す。最初は小さな金額だった。年に数百ルカ。だが、年を追うごとに規模が大きくなった。最後の年は二千ルカを超えていた」


「そして、私の追放は?」


 聞かなければならなかった。


「リーゼル嬢が母上の帳簿を引き継ぐという話が出たとき、ナディア様は焦った。クラーラ様と同じ目を持つ娘が帳簿を見れば、必ず気づく。だから先に排除するしかない、と。王太子殿下に取り入り、あなたの悪い噂を流し、追放の口実を作った。すべて、帳簿を守るためでした」


 すべてが、帳簿のため。私の人生が壊されたのは、数字の辻褄を合わせるためだった。

 怒りが込み上げた。けれど、ここで怒りを見せれば、ディーターが萎縮する。深呼吸した。一つ、二つ。


「あなたは、なぜ従った?」


「恐ろしかったからだ。従わなければ、切り捨てられる。あの方の微笑みは――笑顔のまま人を消す。私だけじゃない。公爵家の使用人で、ナディア様に逆らった者は全員、いなくなった。ある者は辞めさせられ、ある者は遠方に飛ばされ、ある者は――」


 ディーターは言葉を切った。その先は言えないのか、言いたくないのか。


「私は忠実に従うことで生き延びてきた。手袋を二重にはめるのは、指紋を残さないためだ。だが、それでもインクの染みは取れなかった」


 素手の指に残るインクの跡を見つめるディーターの目に、長い年月の疲弊が見えた。


 ディーターは顔を覆った。


「だから、記録を残した。いつか、こういう日が来ると思っていた」


「記録?」


「指示を受けた日付と内容を、手帳に書き留めていた。ナディア様には内緒で」


 ディーターの証言を、カイが書面に記録した。一言一言、正確に。ディーターも内容を確認し、署名した。


 署名の筆跡は震えていたが、名前だけは読めた。ディーター・ヴォルフ。それが彼の本名だった。

 この名前が、ナディアの不正を証明する最後の鍵になる。


 部屋を出る前に、ディーターが言った。


「一つだけ。あなたの母上、クラーラ様の帳簿は……本当に見事だった。改竄するとき、あの筆跡を真似るのが一番苦しかった」


 返す言葉が見つからなかった。

 母の仕事を壊した人間が、母の仕事を認めている。複雑な感情が渦巻いた。けれど今は、その感情に浸っている時間はない。


 これで、証拠の鎖が完成した。


 ◇


 仮面舞踏会の前夜。マルテの書庫に全員が集まった。


 カイ、マルテ、ヨハン、そして私。狭い書庫に四人は窮屈だったが、誰も文句は言わなかった。

 ここまで来るのに、何日かかっただろう。灰色の街に辿り着いた日から数えれば、まだひと月も経っていない。けれど、体感ではもっと長い。


「明日が本番だ。段取りを確認する」


 ヨハンが机の上に会場の配置図を広げた。大きな手が紙の上を動く。


「まず入場について。カイと騎士団は通常の警護として配置される。入り口、大広間の四隅、そして太后席の近くに。リーゼル嬢は招待客として入場する。王太后への書簡で、入場の許可はすでに得ている」


「仮面は?」


「つけた方がいい。最初はな。正体を明かすのは、証拠を提示する直前がいい。早く気づかれれば、ナディアが先手を打つ」


 マルテが頷いた。


「タイミングが重要だ。婚礼の日取りが発表される直前に割り込む。発表された後では遅い。発表前に真実を示すことで、発表そのものを止める」


「証拠は?」


「四つの帳簿と照合資料、領民の署名入り証言書、ディーターの証言書。すべて写しを三部用意した。一部は提出用、一部はマルテが保管、一部は騎士団が保管する。万が一、一部が失われても、残りが証拠として機能する」


 マルテが書類の束を確認しながら言った。


「提示の順番が重要だ。まず帳簿の改竄を示し、次に資金の流れ、続いて領民の証言。最後にディーターの証言で締める。数字で論理を組み、人の声で感情を動かし、実行者の告白で逃げ道を塞ぐ」


「ナディアの反撃は?」


「当然ある。彼女はおそらく、リーゼルの証拠を偽造だと主張するだろう。『追放された恨みで証拠を捏造した』という論法だ。それに備えて、帳簿の原本をマルテが持参する。司書長の証明印付きだ。三十年の実績がある司書長の印は、容易には否定できない」


 準備は整った。

 あとは、明日の夜を迎えるだけ。


 ヨハンとマルテが帰った後、書庫にカイと二人だけが残った。


 ランプの灯りが揺れている。書架の影が壁に長く伸びて、二人を囲んでいた。


「緊張しているか」


「少し」


 嘘だった。少しどころではない。手が冷たかった。指先がかじかんでいる。


 カイは黙って立ち上がり、私の隣に来た。そして、何も言わずに隣に座った。


 肩が触れた。温かかった。彼の体温が、薄い衣服越しに伝わってくる。


「俺は入り口の近くに配置される。何かあればすぐに動ける」


「うん」


「だが、何もなくても、見ている」


 その言葉の意味を、私は正確に理解していた。


 守るためだけではない。見届けるためだ。

 私が自分の力で立つ姿を、この人は見ていてくれる。


「カイ」


「ん」


「ありがとう。あの日、路地で声をかけてくれて」


「礼を言うのは早い。まだ終わっていない」


「そうだね」


 肩が触れたまま、しばらく黙っていた。

 言葉はいらなかった。沈黙が心地よいと感じる相手は、そう多くない。


 ランプの炎が小さく揺れて、二つの影を壁に映していた。影は肩を寄せ合って、本物よりも近くに見えた。


 明日。すべてが決まる。


 ――そして舞踏会の朝、王宮から一通の知らせが届いた。王太后が出席を取りやめる可能性がある、と。


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