第8話 騎士の誓いと沈黙の太后
ディーターは、王都の南門近くの安宿に身を隠していた。
カイとヨハンの騎士団情報網が突き止めた。南門周辺は日雇い労働者や旅商人が多く集まる地区で、身元を問われることが少ない。逃亡資金は持っていたものの、国境の通行証がまだ届いておらず、足止めされていたらしい。
「会いに行く」
「俺も行く」
カイの言葉は、もう当然のことのように聞こえた。いつからか、「俺も行く」は二人の間で確認ではなく、前提になっていた。
安宿の一室。扉を叩くと、しばらく沈黙が続いた後、鎖の音がして扉が開いた。薄暗い部屋の中から、饐えた匂いが漏れた。何日も外に出ていないのだろう。
痩せた男が立っていた。影の薄い風貌。だが、記憶の中のディーターよりもさらに痩せている。頬がこけ、目の下に濃い隈がある。けれど目だけがぎらぎらと光っている。追い詰められた獣の目だった。
「あなたがディーター殿ですね」
「……誰だ」
「リーゼル・フェルゼンです」
名前を聞いた瞬間、ディーターの顔から血の気が引いた。一歩後ずさる。壁に背が当たって、それ以上下がれない。
「お話があります。座っていただけますか」
声を穏やかに保った。この男を追い詰めるつもりはない。追い詰めれば、口を閉ざすか、嘘をつくかのどちらかだ。
部屋に入る。カイが扉の横に立った。威圧のためではなく、逃走防止のためだ。彼は腕を組んだまま、一言も発しなかった。
ディーターは椅子に座ったものの、視線が定まらない。指先が細かく震えている。手袋をはめた手を膝の上で握ったり開いたりしていた。
「ナディア様に何か吹き込まれて来たのか」
「いいえ。ナディアとは関係ありません。むしろ、あなたはナディアに切り捨てられかけているのでは?」
ディーターの指が止まった。
「口止め料を渡されて、国外に逃げるよう指示された。でも、あなたは逃げ切れていない。通行証がまだ届いていませんね」
沈黙。
「ナディアはあなたが国境を越えたかどうか、確認もしていないのではないですか。もう関心がない。公爵家の使用人名簿から、あなたの名前は消されています」
ディーターの目が揺れた。名簿から消されたという事実は、彼にとって衝撃だったらしい。唇が震えている。
「ディーター殿。あなたがフェルゼン領の帳簿を改竄したことは、すでに証拠があります。帳簿の筆跡、インクの違い、改竄の時期。すべて記録に残っています」
「証拠だと? そんなものは――」
「あります。そして、仮面舞踏会の運営費に紛れ込んだ架空支出も。『特別警護委託費』として計上された二千ルカ。あなたへの口止め料の出所も、帳簿に記載されていました」
ディーターの顔が歪んだ。手袋をはめた手が、膝の上で震えている。
「あなたには二つの道があります」
私は声を落ち着かせた。感情を出してはいけない。この男に必要なのは、冷静な選択肢の提示だ。怒りをぶつけたいのは山々だが、それでは何も得られない。
「一つ目。このまま逃げ続ける。けれどナディアはあなたを助けに来ません。むしろ、あなたの存在が彼女にとって最大のリスクです。証拠を持った人間が野放しになっている。いつ消されてもおかしくない」
ディーターの喉が鳴った。
「二つ目。真実を証言する。誰の指示で帳簿を改竄したか、すべてを話す。王太后の前で証言すれば、あなたの身の安全は騎士団が保障します。罪が消えるわけではありませんが、協力者として減刑の余地はあります」
カイが小さく頷いた。それだけで、言葉に重みが加わった。騎士団の副団長が保障するという意味を、ディーターは理解したはずだ。
長い沈黙が落ちた。窓の外から、路地を歩く人々のざわめきが遠く聞こえる。
ディーターは手袋をはめた手を見つめていた。いつも二重にはめるという手袋。記録を書き換える時の癖だ。インクが手につかないように、証拠を残さないように。
やがて、彼はゆっくりと手袋を外した。一枚目。そして二枚目。素手の指が震えていた。インクの染みが、爪の際に残っている。洗っても落ちなかったのだろう。
「……ナディア様は、仰った。フェルゼン家が消えれば、すべてうまくいく、と」
声は掠れていた。何日もまともに話していなかったのだろう。
「最初に指示を受けたのは、クラーラ様が亡くなった直後でした。葬儀の翌週に、ナディア様に呼ばれた。『フェルゼン領の帳簿を少し調整してほしい』と。最初は本当に少しだった。数字をほんの僅かずらすだけ。罪悪感はあった。でも、ナディア様に逆らうことの方がもっと怖かった」
ディーターは手袋のない素手を見つめながら続けた。
「帳簿の改竄は、すべてナディア様の指示です。交付金の流れを変え、その金をヴァルトシュタイン家の寄付として王宮に戻す。最初は小さな金額だった。年に数百ルカ。だが、年を追うごとに規模が大きくなった。最後の年は二千ルカを超えていた」
「そして、私の追放は?」
聞かなければならなかった。
「リーゼル嬢が母上の帳簿を引き継ぐという話が出たとき、ナディア様は焦った。クラーラ様と同じ目を持つ娘が帳簿を見れば、必ず気づく。だから先に排除するしかない、と。王太子殿下に取り入り、あなたの悪い噂を流し、追放の口実を作った。すべて、帳簿を守るためでした」
すべてが、帳簿のため。私の人生が壊されたのは、数字の辻褄を合わせるためだった。
怒りが込み上げた。けれど、ここで怒りを見せれば、ディーターが萎縮する。深呼吸した。一つ、二つ。
「あなたは、なぜ従った?」
「恐ろしかったからだ。従わなければ、切り捨てられる。あの方の微笑みは――笑顔のまま人を消す。私だけじゃない。公爵家の使用人で、ナディア様に逆らった者は全員、いなくなった。ある者は辞めさせられ、ある者は遠方に飛ばされ、ある者は――」
ディーターは言葉を切った。その先は言えないのか、言いたくないのか。
「私は忠実に従うことで生き延びてきた。手袋を二重にはめるのは、指紋を残さないためだ。だが、それでもインクの染みは取れなかった」
素手の指に残るインクの跡を見つめるディーターの目に、長い年月の疲弊が見えた。
ディーターは顔を覆った。
「だから、記録を残した。いつか、こういう日が来ると思っていた」
「記録?」
「指示を受けた日付と内容を、手帳に書き留めていた。ナディア様には内緒で」
ディーターの証言を、カイが書面に記録した。一言一言、正確に。ディーターも内容を確認し、署名した。
署名の筆跡は震えていたが、名前だけは読めた。ディーター・ヴォルフ。それが彼の本名だった。
この名前が、ナディアの不正を証明する最後の鍵になる。
部屋を出る前に、ディーターが言った。
「一つだけ。あなたの母上、クラーラ様の帳簿は……本当に見事だった。改竄するとき、あの筆跡を真似るのが一番苦しかった」
返す言葉が見つからなかった。
母の仕事を壊した人間が、母の仕事を認めている。複雑な感情が渦巻いた。けれど今は、その感情に浸っている時間はない。
これで、証拠の鎖が完成した。
◇
仮面舞踏会の前夜。マルテの書庫に全員が集まった。
カイ、マルテ、ヨハン、そして私。狭い書庫に四人は窮屈だったが、誰も文句は言わなかった。
ここまで来るのに、何日かかっただろう。灰色の街に辿り着いた日から数えれば、まだひと月も経っていない。けれど、体感ではもっと長い。
「明日が本番だ。段取りを確認する」
ヨハンが机の上に会場の配置図を広げた。大きな手が紙の上を動く。
「まず入場について。カイと騎士団は通常の警護として配置される。入り口、大広間の四隅、そして太后席の近くに。リーゼル嬢は招待客として入場する。王太后への書簡で、入場の許可はすでに得ている」
「仮面は?」
「つけた方がいい。最初はな。正体を明かすのは、証拠を提示する直前がいい。早く気づかれれば、ナディアが先手を打つ」
マルテが頷いた。
「タイミングが重要だ。婚礼の日取りが発表される直前に割り込む。発表された後では遅い。発表前に真実を示すことで、発表そのものを止める」
「証拠は?」
「四つの帳簿と照合資料、領民の署名入り証言書、ディーターの証言書。すべて写しを三部用意した。一部は提出用、一部はマルテが保管、一部は騎士団が保管する。万が一、一部が失われても、残りが証拠として機能する」
マルテが書類の束を確認しながら言った。
「提示の順番が重要だ。まず帳簿の改竄を示し、次に資金の流れ、続いて領民の証言。最後にディーターの証言で締める。数字で論理を組み、人の声で感情を動かし、実行者の告白で逃げ道を塞ぐ」
「ナディアの反撃は?」
「当然ある。彼女はおそらく、リーゼルの証拠を偽造だと主張するだろう。『追放された恨みで証拠を捏造した』という論法だ。それに備えて、帳簿の原本をマルテが持参する。司書長の証明印付きだ。三十年の実績がある司書長の印は、容易には否定できない」
準備は整った。
あとは、明日の夜を迎えるだけ。
ヨハンとマルテが帰った後、書庫にカイと二人だけが残った。
ランプの灯りが揺れている。書架の影が壁に長く伸びて、二人を囲んでいた。
「緊張しているか」
「少し」
嘘だった。少しどころではない。手が冷たかった。指先がかじかんでいる。
カイは黙って立ち上がり、私の隣に来た。そして、何も言わずに隣に座った。
肩が触れた。温かかった。彼の体温が、薄い衣服越しに伝わってくる。
「俺は入り口の近くに配置される。何かあればすぐに動ける」
「うん」
「だが、何もなくても、見ている」
その言葉の意味を、私は正確に理解していた。
守るためだけではない。見届けるためだ。
私が自分の力で立つ姿を、この人は見ていてくれる。
「カイ」
「ん」
「ありがとう。あの日、路地で声をかけてくれて」
「礼を言うのは早い。まだ終わっていない」
「そうだね」
肩が触れたまま、しばらく黙っていた。
言葉はいらなかった。沈黙が心地よいと感じる相手は、そう多くない。
ランプの炎が小さく揺れて、二つの影を壁に映していた。影は肩を寄せ合って、本物よりも近くに見えた。
明日。すべてが決まる。
――そして舞踏会の朝、王宮から一通の知らせが届いた。王太后が出席を取りやめる可能性がある、と。




