第7話 崩れ始めた嘘
ディーターの消息が途絶えた。
マルテが王宮内の記録を洗ったところ、ディーターは三日前にヴァルトシュタイン公爵家の屋敷を出たきり、戻っていないという。公爵家の使用人名簿からも、彼の名前が消されていた。
「逃がしたか」
カイが書庫の机を拳で叩いた。珍しく感情を見せた。抑えた怒りが、こもった音になって響いた。
マルテが首を振った。
「いや、違うね。逃げたのではなく、逃がされたんだ。用済みになったか、あるいは口封じの前触れか」
背筋が寒くなった。
「使用人名簿から名前を消すということは、公爵家として『そんな人間は知らない』という態度をとる準備だ。ディーターの存在ごと抹消しようとしている」
ナディアは証拠を消しにかかっている。帳簿の改竄を実行した人間を隠すことで、物証と証言の鎖を断ち切ろうとしているのだ。
「ディーターがいなければ、改竄の直接証拠が弱くなる」
「だが、ゼロにはならない」
マルテが帳簿を広げた。指先で頁を繰りながら、落ち着いた声で続ける。
「帳簿そのものに改竄の痕跡が残っている。筆跡の違い、インクの変色、日付の矛盾。これは物として存在する証拠だ。ディーターの証言がなくても、記録の専門家が見れば改竄は明らかだ」
「問題は、それを誰が認定するかだ」
カイが言った。腕を組み、壁に寄りかかっている。
「王宮の裁定機関は、貴族の影響を受ける。公爵家が圧力をかければ、専門家の意見も握りつぶされかねない。司書長の証言があっても、公爵家は『司書長が追放令嬢と結託している』と主張するだろう」
正しい。制度は強者に味方する。それがこの国の現実だ。
沈黙が落ちた。ランプの炎が揺れ、三人の影が壁の上で伸び縮みしている。
私は帳簿のページをめくりながら、頭を回転させた。
これまでの証拠を整理する。帳簿の改竄記録、資金の流れの照合結果、領民の証言。三つの証拠がある。だがマルテの言う通り、これらはすべて状況証拠だ。
「帳簿にミスがあった」「資金の動きは偶然の一致」「領民の証言は主観的」。ナディア側がそう反論すれば、裁定を覆すのは難しい。
だから、改竄を実行した人間の証言が必要なのだ。ディーターの口から「指示を受けて書き換えた」と言わせることができれば、状況証拠が直接証拠に変わる。
ディーターの証言が得られないなら、別の角度から攻めるしかない。
改竄を命じた人間、つまりナディア自身を追い詰めることはできないか。
「ナディアは慎重な人です。直接手を汚すことはしない。すべてディーターを通している」
「だから本人には何も残っていない、と?」
「いいえ。残っているはずです。ナディアは完璧主義者だから。完璧であることが、あの人の自尊心の核です。自分が管理していないものは存在しないのと同じ。ディーターへの指示も、何らかの形で管理しているはず。でなければ、ナディアは安心できない」
マルテが鼻を鳴らした。
「なるほど。あんた、あの令嬢のことをよく理解しているね」
「理解しているというか……同じ空間にいれば、嫌でも見えてくるものがあります」
王宮にいた頃、ナディアを間近で観察する機会は何度もあった。彼女が書類を整理するとき、必ず三回確認する癖があること。会話の中で相手の弱点を見つけると、それを記憶して後で使うこと。すべてを管理下に置かなければ気が済まない性格。
その性格が、今度は私の味方になる。
「公爵家の内部に、その痕跡がある」
「公爵家に潜り込む気か。無謀だ」
カイの目が厳しくなった。声にも力がこもる。
「公爵家には潜り込みません。仮面舞踏会を使います」
三人の視線が集まった。
「仮面舞踏会は王宮で開かれる公式行事です。ナディアは主催者として準備に追われる。公式行事である以上、運営費用は王宮の管理部門に提出しなければならない。そしてナディアは几帳面な人だ。支出を管理しないはずがない」
「つまり、舞踏会の運営費用の中に、ディーターへの支払いが紛れ込んでいる可能性がある」
マルテが目を光らせた。
「なるほど。ディーターに口止め料を渡して逃がすには、金がいる。その金をどこから出したか。自分の私費から出せば記録が残らないが、ナディアは用心深い。私費を使えば、万が一の際に自分の資産が追及される。だから公式の枠組みの中に紛れ込ませる」
「それは司書長の権限で閲覧できますか」
「公式行事の支出記録は王宮図書室の管轄だ。当然、見られる。いや、見る義務がある。公金の監査は司書長の職務の一つだからな」
暗い部屋に、小さな光が差した気がした。
「ただし」
マルテが人差し指を立てた。
「舞踏会の支出記録を引き出すには、それなりの理由が必要だ。ナディアの周辺にも目がある。不自然な動きをすれば、また情報が漏れる」
「定例の監査として処理できませんか」
「秋の公式行事は例年、監査の対象になる。不自然ではない。だが、タイミングが合うかどうか」
「合わせましょう。仮面舞踏会まであと九日。通常の監査であれば、開催一週間前に行うのが慣例ではありませんか」
マルテは眼鏡を押し上げ、にやりと笑った。
「よく知ってるね。クラーラに教わったか」
「母の手帳に書いてありました。『監査は行事の一週間前。これが最後の確認機会』と」
母の言葉が、今の私を助けている。
◇
仮面舞踏会まで一週間。マルテが定例監査の名目で入手した運営費用の帳簿を、書庫で精査した。
朝から晩まで、三人で机に向かった。マルテが帳簿を開き、私が数字を読み、カイが記録を取る。いつの間にか、この三人の作業には役割分担ができていた。
日付、項目、金額を一つひとつ追う。装飾費、食事代、楽団の手配、招待状の印刷、会場の設営費。どれも妥当な支出に見える。金額も相場の範囲内だ。
マルテが過去の舞踏会の記録も持ち出してくれたので、比較ができた。今年の支出項目は例年とほぼ同じ。金額も大きな差はない。
二日目の夜、目が疲れて数字が霞み始めた頃、カイが黙って水を差し出してくれた。「無理をするな」とは言わなかった。ただ、水を置いた。それが彼の気遣いの形だった。
三日目に違和感を見つけた。
「この項目。『特別警護委託費』として計上されていますが、金額が高すぎる」
「いくらだ」
「通常の警護費の五倍。二千ルカ。しかも、委託先が記載されていない。通常、外部委託であれば委託先の名前と契約番号が必要です」
さらに細かく見ると、この項目だけ記帳の日付が他と異なっていた。他の支出はすべて月初にまとめて記帳されているのに、この項目だけは月の半ばに追記されている。
「後から付け足した可能性が高い。最初の帳簿にはなかった支出を、後日追加した」
「つまり、急遽必要になった支出か」
「ディーターに逃亡資金を渡す必要が生じた時期と一致する」
カイが帳簿を覗き込んだ。彼の肩が近かった。髪から、鉄と風の匂いがした。
一瞬、意識がそちらに引かれたが、すぐに帳簿に集中し直す。
「騎士団に特別警護の依頼は来ていない。俺もヨハンも聞いていない。騎士団を経由しない特別警護など、本来ありえない」
「つまり、架空の支出です。この金がどこに流れたかを追えば――」
「ディーターへの口止め料か、あるいは逃亡資金」
証拠がまたひとつ、繋がった。
ナディアの几帳面さが、皮肉にも彼女自身の足跡を残していた。支出を正式な帳簿に紛れ込ませたことで、改竄可能な私的記録ではなく、公式記録に証拠が刻まれた。
私費を使えば追及されると恐れた結果、かえって公的な記録に痕跡を残してしまった。用心深さが、裏目に出たのだ。
母が手帳に書いていた言葉を思い出す。
『帳簿の美しさは、正確さの証明であると同時に、嘘の証明でもある。きれいすぎる帳簿は、かえって怪しい』
ナディアの帳簿はきれいだった。整然として、項目も金額も揃っている。だからこそ、一つだけ異質な項目が目立った。木を隠すなら森の中、と言うが、完璧な森に一本だけ違う木が混じっていれば、それは目立つのだ。
「これで、帳簿の改竄、資金の流れ、領民の証言、そして舞踏会の架空支出。四つの証拠が揃った」
マルテが満足げに頷いた。
「あとは、これをどう提示するかだ」
「仮面舞踏会の場で。大勢の貴族と、王太后の前で」
「ナディアの反撃に備えなければならない。彼女はきっと、あなたの証拠を否定するための布石を打っている。リーゼルの人格を攻撃するか、証拠の信頼性を疑問視するか」
「わかっています。だから、最後のカードが必要なんです」
「最後のカード?」
私はカイを見た。
「ディーターを見つけてほしい。逃がされたのなら、まだ国内にいるはず。国境を越えるには通行証が必要で、公爵家が手配したなら時間がかかる。彼は用済みにされかかっている。ナディアに切り捨てられることへの恐怖は、彼の最大の弱点です」
「ディーターがどこに逃げるか、見当はあるか」
「王都から出るなら、南門か東門でしょう。北は山岳地帯で逃走に向かない。西は王都の正面で人目につく。南門は日雇い労働者の街に近く、身を隠しやすい。東門は農村地帯で、荷馬車に紛れ込める」
マルテが感心したように目を細めた。
「地理にも詳しいな」
「母の巡回に同行していたので。帳簿を確認するために、領地内の交通路はすべて歩きました」
母との巡回の記憶が、思いがけない形で役に立つ。帳簿の知識だけではない。母が教えてくれたことすべてが、今の私を助けている。
カイは少し考え、頷いた。
「ヨハンに騎士団の情報網を使ってもらう。各地の詰め所に人相を回す。南門と東門を重点的に当たる」
「無理は――」
「言っただろう。それはお互い様だ」
また、目元だけが柔らかくなった。今度は気のせいではなかった。はっきりと、その変化を見た。
私の手が、無意識にカイの外套の袖に触れていた。
気づいて引っ込めようとしたが、彼は何も言わなかった。言わない代わりに、ほんの少しだけ、腕をこちらに寄せた。
言葉にはしない。けれど、伝わるものがある。
この人の隣にいると、私は少しだけ強くなれる。それは甘えではなく、支えだ。
ふと気づくと、外套の袖から、彼の手のひらが見えていた。剣だこのある、大きな手だ。この手が剣を振るうのを、私はまだ見たことがない。けれど、この手が外套をかけてくれる瞬間を、もう何度か知っている。
どちらの手が、この人の本当の姿なのだろう。
きっと、どちらも本当だ。
書庫の窓から、月明かりが差し込んでいた。白い光が帳簿の上に落ち、数字を照らしている。
あと一週間。すべてが、あの舞踏会の夜に決まる。
――そしてその五日後、カイからの報せが届いた。ディーターを見つけた、と。




