第6話 仮面舞踏会の罠
王都に戻った翌日、宿に一通の書簡が届いた。
蝋封の紋章を見て、息が止まった。
王家の紋章。しかも、王太后の個人印が押されている。太陽と三日月を組み合わせた意匠。王族の中でも、王太后だけが使うことを許された印だ。
「王太后オルテンシア殿下が、非公式にあなたをお呼びだ」
書簡を届けに来た侍女は、それだけ言って去った。振り返りもしなかった。慣れた足取りだ。この手の密使を何度も務めているのだろう。
カイに見せると、彼は眉をひそめた。
「罠の可能性は?」
「ゼロとは言えない。でも、王太后が直接動くなら、もっと別のやり方があるはず。追放された令嬢を始末するために、わざわざ自分の印を使った書簡を出すとは思えない」
「それもそうだ」
「それに、王太后が私を呼ぶということは、少なくとも興味を持っているということ。門前払いよりはましです」
マルテに相談すると、老司書長は長い溜息をついた。
「あの方が動いたか。良い兆候か悪い兆候か、会ってみなければわからない。ただひとつ言えるのは、王太后は嘘が通じない相手だということだ。取り繕った言葉は、あの方の前では無意味だよ」
「どういう方なのですか」
「先代の王が亡くなったとき、宮廷は権力争いで荒れた。あの方は一言も発さずに、ただ座っていた。そして争いが収まった後、負けた側に茶を出した。それだけで、全員が従った」
沈黙で人を動かす人。
味方にできれば心強い。敵に回せば、恐ろしい。
夕刻。指定された場所は、王宮の離宮にある小さな茶室だった。
私は追放された身だ。本来、王宮の敷地に足を踏み入れることは許されない。だが、王太后の招きであれば別だ。衛兵は書簡を確認すると、黙って道を開けた。
通用門から入り、人目につかない回廊を通る。かつて毎日歩いた道の、すぐ裏側だった。
茶室の扉を開ける。
香の匂いがした。白檀に似た、けれどもっと深い匂い。薄暗い室内に、一人の老婦人が座っていた。
銀の髪を高く結い上げ、深い紫の瞳。背筋がまっすぐに伸びた姿勢。老いてなお凛としているという表現が、これほど似合う人を私は知らない。
肌に刻まれた皺さえも、この人の場合は威厳の一部だった。
「座りなさい」
静かな声だった。命令ではあるが、威圧ではない。茶を共にする相手に対する、主人の礼儀だった。
向かい合って座る。畳んだ手の甲が冷たい。緊張している。
王太后は茶器に手を伸ばし、ゆっくりと茶を注いだ。琥珀色の液体が、白い茶碗に静かに満ちていく。
「あなたが、クラーラの娘」
「はい」
「母に似ているね。目が」
二人目だ。母の目に似ていると言ってくれた人が。ブリギッテと、王太后。身分はまるで違うのに、同じことを言う。
王太后は茶を一口含み、長い沈黙が落ちた。
一分か、二分か。時間の感覚が曖昧になる。
私は黙って待った。この方のペースに合わせるべきだと、直感が告げていた。焦って口を開けば、軽い人間だと思われる。
「リーゼル。あなたの追放について、私は異を唱えなかった」
知っていた。それは当時、王宮中の誰もが知っていたことだ。王太后が沈黙したことで、追放は事実上の承認を得た。
「あの時は証拠がなかった。状況証拠だけで王太子の決定を覆せば、王家の権威が揺らぐ。息子の息子の決断を、祖母が理由もなく否定することは、制度を壊すことになる。私は、沈黙を選んだ」
「お恨みしていません」
「嘘をつかなくていい」
鋭い目が、まっすぐに私を射た。紫の瞳に、ランプの灯りが揺れている。
「恨んでいるだろう。当然だ。私の沈黙は、あなたを見捨てたことと同じだ。制度を守るために、一人の若い女を犠牲にした。それは事実だ」
喉が詰まった。
恨んでいないと言えば嘘になる。けれど、恨みだけで今ここに座っているわけでもない。
「……恨みはあります。でも、今の私が求めているのは、恨みを晴らすことではありません」
「何を求めている」
「真実が正しく記録されることです。母が守った領地の民が、不正な税に苦しまないこと。そして、偽りの罪で追放された事実が訂正されること」
声が震えなかった。それが自分でも不思議だった。怖いはずなのに。
けれど、フェルゼン領で聞いた領民の声が、背中を押してくれていた。
王太后は茶碗を置いた。音を立てずに。
「証拠はあるのかね」
「あります。帳簿の改竄記録、資金の流れの照合結果、そして領民の証言。仮面舞踏会の前に、すべてを揃えます」
「仮面舞踏会。ナディア嬢が婚礼の日取りを発表する場だね」
「はい。あの場で真実を提示したい。公の場で、大勢の証人がいる中で。密室ではなく、公開の場で事実を示すことに意味があると考えています」
「なぜ公開の場にこだわる」
「密室で訴えれば、握りつぶされます。公の場であれば、目撃者が多すぎて隠蔽ができない。それに、噂で失った名誉は、公の場でしか取り戻せません。密室で名誉が回復されても、噂は消えませんから」
自分でも意外なほど、すらすらと言葉が出た。
この数週間で、何度もこの論理を頭の中で組み立てていたからだ。帳簿の照合と同じだ。準備が十分であれば、提示するとき迷わない。
王太后の目が、僅かに細くなった。興味を引いた、のかもしれない。
「私に何を望む」
「裁定です。王太后殿下がご列席の場で真実が示された時、正当な裁定を下していただきたい。王太后殿下の裁定であれば、公爵家であっても覆すことはできません」
「証拠が十分であればな」
それだけ言って、王太后は再び茶を口に運んだ。
約束とは言えない。けれど、拒否でもなかった。
この方は、事実だけで判断する。ならば、事実を揃えるのは私の仕事だ。
「もう一つ、聞いてもよいか」
王太后が茶碗越しに目を向けた。
「なぜ逃げなかった。追放された後、別の国で新しい人生を始めることもできたはずだ。若いのだから、やり直しはいくらでもきく」
その問いに、すぐには答えられなかった。
なぜだろう。何度も考えたことだ。逃げた方が楽だったはずだ。王都を離れ、名前を変え、どこか遠い土地で静かに暮らす。それも一つの選択だった。
「母が守ったものを、このまま奪われたくなかったからです」
最初に浮かんだのは、その言葉だった。
「母は、領地の帳簿を三十年守り続けました。一ルカの狂いもなく、毎年正確に。それは母の誇りでした。その記録が書き換えられて、母の仕事がなかったことにされるのは、母の人生を否定されるのと同じです」
王太后は黙って聞いていた。
「それと――」
言葉を選ぶ。
「逃げたら、噂が真実になります。『悪役令嬢は追放されて逃げた』。それが、私の最後の記録になる。それだけは、嫌でした。私は悪役令嬢ではない。その事実を、記録として残したい」
王太后は何も言わなかった。けれど、紫の瞳に何かが灯った気がした。
しばらく沈黙が続いた後、王太后は茶碗を置いて立ち上がった。
「クラーラの娘は、クラーラと同じだね。頑固で、正直で、数字に愛されている」
それが褒め言葉なのかどうか、わからなかった。けれど、嫌な気持ちはしなかった。
◇
茶室を出ると、夜気が肌を刺した。
王宮の離宮は、本殿と渡り廊下で繋がっている。渡り廊下には灯りが少なく、石の壁が冷たく光っていた。
歩きながら、王太后との会話を反芻した。
あの方は、最後まで「味方になる」とは言わなかった。「証拠が十分であれば」という条件付きの言葉だけ。
だが、それでいい。無条件の味方など、信用できない。条件を示してくれる方が、ずっと誠実だ。
王太后は制度の人だ。感情ではなく、事実と制度に基づいて判断する。
ならば私がやるべきことは、感情に訴えることではなく、事実を積み上げること。帳簿の数字を、一つひとつ、揺るぎない証拠として提示すること。
母がやっていたことと、同じだ。数字で人を守る。
渡り廊下の先に、庭の暗がりに人影があった。
金の髪。碧の瞳。完璧な微笑み。白い衣装が月明かりに浮かんでいる。
ナディアだった。
「あら、リーゼル。こんなところで会うなんて奇遇ね」
心臓が冷えた。偶然ではない。王太后との面会を知っていて、待ち構えていたのだ。
侍女の中にも、ナディアに情報を流す者がいるのだろう。
「追放されたはずなのに、王宮に出入りしているの? 困った方ね」
周囲に人の気配はない。ナディアは微笑みを崩さないまま、一歩近づいた。
甘い香水の匂いがした。王宮にいた頃、この匂いをよく嗅いだ。あの頃は気にならなかったが、今は息が詰まる。
「忠告してあげる。仮面舞踏会に来ない方がいいわ。あなたのためよ」
声は優しかった。本当に心配しているように聞こえる。それがナディアの恐ろしさだ。善意と脅迫の区別がつかない。
「忠告をいただくほど、私に興味がおありなのですか」
声が震えなかったのは、自分でも驚きだった。
ナディアの目が一瞬だけ鋭くなった。ほんの一瞬。瞳の奥に、冷たい光が走った。だが、私はそれを見逃さなかった。
「あなたが何を企んでいるか知らないけれど、無駄なことよ。この国の仕組みが、誰の味方かくらい、わかるでしょう?」
「仕組みは知っています。だからこそ、仕組みの中で動きます」
予定になかった言葉が口から出た。けれど、嘘ではなかった。
ナディアの目が、一瞬だけ揺れた。私の答えが予想外だったのだろう。「仕組みを壊す」と言えば、反乱者として潰せる。だが「仕組みの中で動く」と言われれば、正面から否定できない。
「忠告はありがたく受け取ります。ただ、行くかどうかは私が決めます」
ナディアは微笑みに戻り、何も言わずに踵を返した。
白い衣装の裾が、暗がりに消えていく。
足音が遠ざかる。
私は柱に手をついた。膝が震えていた。虚勢だった。怖かった。でも、引くわけにはいかなかった。
ナディアの香水の匂いが、まだ微かに残っている。あの甘い匂い。王宮にいた頃は、この匂いを嗅ぐたびに、華やかな世界にいるのだと感じた。
今は、この匂いが恐怖の匂いだ。
だが同時に、わかったこともある。ナディアは自分で動いた。普段なら人を使って間接的に動くあの人が、直接私の前に現れた。
それは焦りの証拠だ。余裕がある人間は、自ら姿を見せない。
「リーゼル」
反対側の暗がりから、カイが現れた。離宮の警護として中に入っていたのだ。
「全部聞いていたか」
カイは頷いた。
「あいつの目が揺れた。焦っている証拠だ。余裕がある人間は、わざわざ直接脅しに来ない」
ナディアが焦っている。それは、こちらの動きが効いているということだ。
「仮面舞踏会まであと十日。証拠を完成させよう」
カイの横を歩く。半歩後ろではなく、いつの間にか、隣を歩いていた。
夜風が頬に触れる。
怖い。でも、一人じゃない。
――けれど翌日、マルテから緊急の知らせが届いた。ディーターが王都から姿を消した、と。




