第5話 領地に届く影
フェルゼン領への道は、馬車で丸一日かかった。
カイが手配してくれた地味な荷馬車に揺られながら、窓の外を眺める。なだらかな丘陵が広がり、畑の緑がまぶしい。秋の入り口で、麦の穂が金色に輝いている。
この景色を、母はいつも愛していた。領地を巡回するたびに、馬車の窓を開けて風を受けていた姿を覚えている。
馬車の中で、カイと向かい合って座っている。彼は腕を組んで目を閉じていたが、眠っているわけではなさそうだ。馬車が大きく揺れるたびに、反射的に目が開く。
「カイ。ひとつ聞いていいですか」
「ああ」
「あの追放の場に、あなたもいたんですか」
少しの間があった。
「いた。警護として、壁際に立っていた」
「そのとき、何を思いましたか」
カイは窓の外に目を向けた。
「不自然だと思った。手続きが速すぎた。通常、婚約破棄と追放は別々の裁定で行う。それを同時に、しかも弁明の機会も与えずに執行した。誰かが、急いでいた」
急いでいた。その言葉が胸に落ちた。
あの場の異様な速さは、やはり意図的なものだったのだ。
「俺は騎士だ。命令には従う。だが、あの日の命令は手続きに則っていなかった。正式な審議を経ていない追放令。それは命令ではなく、私刑だ」
「なぜ、その場で異を唱えなかったのですか」
責めるつもりで聞いたのではない。純粋な疑問だった。
「証拠がなかった。感覚だけで異を唱えれば、俺も同じ目に遭う。そうなれば、調べる人間がいなくなる」
冷静だ。この人は、あの瞬間から先のことを考えていたのだ。
目の前の不正に怒るだけでなく、それを正す方法を探していた。
馬車が揺れ、窓の外の景色が変わった。麦畑が広がり始めている。
領地の入り口にある小さな町に着いたのは、日が傾きかけた頃だった。
町は記憶より少し寂しくなっていた。空き家が目につく。通りを歩く人の表情にも、どことなく疲れが見える。
宿屋の看板を見つけ、中に入る。薄暗い店内に、カウンターの向こうにがっしりした体格の女性が立っていた。赤い頬。大きな手。こちらを値踏みするような目。
背は高くないが、存在感がある。この宿の主だとすぐにわかった。
「お泊まりかい」
「はい。二部屋お願いします」
女性は帳面に何か書きつけながら、ちらりと私を見た。そしてその目が、止まった。
帳面を持つ手が止まり、こちらをじっと見つめる。
「……あんた、もしかして」
心臓が跳ねた。
「クラーラの娘かい」
母の名前だった。思わず息を止める。
「あんたの母さんと同じ目だ。灰青の目で、こっちの腹の底まで見透かすような。間違いないね」
女性はカウンターから身を乗り出した。大きな手で帳面をばんと置いた。
「私はブリギッテ。この宿の女将だよ。クラーラにはずいぶん世話になった。あの人がいなけりゃ、この領地はとっくに干上がってた」
母の名を、こんなにまっすぐに呼んでくれる人がいる。
それだけで、来てよかったと思った。胸の奥が熱くなる。
「あんたが追放されたって話は聞いてたよ。王宮で何か悪さをしたって噂だけど、信じちゃいなかった。クラーラの娘がそんなことするもんか」
噂。
やはり、ここにも届いていたのだ。私の追放は「悪役令嬢の末路」として語られている。
けれど、ブリギッテは信じなかった。母への信頼が、そのまま私への信頼に繋がっている。
「あんた、痩せたねぇ。ちゃんと食べてるかい」
ブリギッテは私の腕を掴んで、あきれたように首を振った。
「まずは食べな。話はその後だ」
有無を言わさぬ迫力だった。カイすら口を挟めなかったようで、黙って席についている。
「今の領地は大変なことになっててね」
ブリギッテは温かいスープを二人分出しながら言った。
スープは素朴な味だった。豆と根菜の優しい甘さ。こういう味を、母も好んでいた。
「クラーラが亡くなって、新しい管理者が来たんだが、これがとんでもない奴でね。帳簿は見せない、説明はしない、税はどんどん上がるし、交付金は減ったと言い張るし。おかげで店をたたむ者が増えている」
「交付金が減った、と」
「ああ。王宮からの交付金が削減されたから仕方ないんだと、その管理者は言うんだけどね。あたしは数字に明るくないが、なんだかおかしいとは思ってたよ。クラーラの時代は同じ額でちゃんとやれてたんだから」
やはりそうだ。
帳簿の改竄は、領地の民の生活にも直接影響していた。交付金は減っていない。減ったことにして、差額を抜いているのだ。その皺寄せが、税の増額という形で領民に跳ね返っている。
「ブリギッテさん。その管理者は、誰の指示で来たかご存知ですか」
「ヴァルトシュタイン公爵家の推薦だって聞いたよ。母さんが亡くなった直後に、公爵家が自分のところの人間を送り込んできたんだ。手回しが早すぎるって、当時からみんな怪しんでた」
カイと目が合った。彼は小さく頷いた。すべてが繋がる。
◇
翌日から、領地の人々に話を聞いて回った。
最初は警戒されると思っていた。追放された令嬢が戻ってきたところで、何ができるのかと。
けれど予想に反して、領民たちの反応は違った。
「あなたがリーゼルさん? クラーラ様の娘さんの?」
「ああ、覚えてるよ。小さい頃、帳面持って母親の後ろをくっついて歩いてた子だろう」
「よく来てくれた。困ってたんだ。管理者に何を言っても聞いてもらえなくてさ」
中には泣きそうな顔をしている人もいた。若い女性が、赤子を抱いたまま私の前に立った。
「あたしの旦那は、税が払えなくて日雇いに出てるの。前はこの町で仕事があったのに。クラーラ様がいた頃は、こんなことなかったのに」
赤子が小さな手を伸ばした。私の指に触れる。温かかった。
この子が育つ領地を、私は守りたい。守らなければならない。
母が残してくれたもの。それは帳簿の技術だけではなかった。信頼だ。
母が誠実に領地を管理していたから、その娘である私にも、人々は心を開いてくれた。
領民の証言を一つひとつ記録していった。交付金の減額がいつから始まったか。管理者がどんな名目で税を上げたか。それによって誰の店が潰れ、誰が土地を手放したか。
声を聞くたびに、怒りが静かに積もっていく。これは数字の問題ではない。人の暮らしの問題だ。
パン職人の女性は、小麦の仕入れ値が上がって店を縮小せざるを得なかったと言った。靴職人の老人は、税が上がったせいで弟子を雇えなくなり、一人で仕事をしていると語った。
どれも、ひとつひとつは小さな話だ。けれどそれらが積み重なると、一つの領地が静かに枯れていく姿が見えてくる。
母が生きていた頃は、こんなことはなかった。母は帳簿の数字を管理するだけでなく、数字の向こうにいる人間を見ていた。税収の変化から季節の不作を読み取り、交付金の使い道を領民と相談して決めていた。
あの管理者は、そのどれもしていない。数字を書き換えることだけが仕事だったからだ。
三日目の朝、農夫の老人が重要な証言をした。
「管理者の下に時折、王都から痩せた男が訪ねてくるんだ。影の薄い男でね、いつも手袋をはめてる。あの男が来ると、管理者は必ず帳面を書き替える」
痩せた男。影の薄い風貌。手袋。
ディーターだ。
「書き替えるところを見たのですか」
「窓越しにな。管理者の部屋の窓が、畑から見えるんだ。あの男が来た日は、いつも遅くまで灯りがついてる」
ディーターはただの実行犯ではない。ナディアの指示で、定期的に領地に足を運び、帳簿の辻褄を合わせている。
つまり、不正は現在進行形で続いている。過去の改竄だけでなく、今もなお。
証言を書き留め終え、老人に礼を言った。
宿に戻ると、カイが入り口に立っていた。いつもの無表情だったが、何か緊張を含んでいる。肩が僅かに強張っていた。
「王都から伝令が来た。仮面舞踏会の日程が早まった」
「早まった?」
「二週間後だ。元の予定より一月も前倒しになっている」
背筋が冷えた。
日程が早まったということは、ナディアが何かを察知したのだ。こちらの動きを知って、婚礼発表を急いでいる。副司書長経由で漏れた情報が、ナディアを急がせた。
「間に合うかな」
つい、弱気な言葉が漏れた。自分でも驚くほど、か細い声だった。
カイは何も言わず、自分の外套を脱いで私の肩にかけた。
驚いて見上げると、彼は窓の外を見ていた。夕日が彼の横顔を照らしている。
「間に合わせる。そのために来た」
外套は温かかった。
彼の体温が少しだけ残っていて、それが不思議と、揺れていた心を落ち着かせた。
こんなふうに、何も聞かず、何も求めず、ただ温もりをくれる人がいることが、ありがたかった。
翌朝。ブリギッテが宿の前で待っていた。腕を組んで、どっしりと立っている。その背後に、十数人の領民が立っていた。
「あんたが戦うってんなら、この領地の連中も黙っちゃいないよ」
老人も若者もいる。昨日話を聞いた農夫の姿もあった。皆、まっすぐな目をしていた。
「証言なら何度でもするし、署名もする。クラーラの娘のためじゃない。この土地のために、だ」
涙が出そうになった。けれど、こらえた。泣くのは、すべてが終わってからだ。
一人ひとり、証言書に署名をもらった。名前を書く手が震えている人もいた。権力者に逆らうことの怖さを知っている人たちだ。それでも、署名してくれた。
「ありがとうございます。必ず、正しい形で決着をつけます」
頭を下げた私の肩に、ブリギッテの大きな手が置かれた。温かくて、分厚い手だった。
「行っておいで。あんたの背中は、ちゃんと押してやるから」
荷馬車に乗り込む。
振り返ると、領民たちが手を振っていた。その姿が小さくなるまで、私も手を振り返した。
手の中には、領民たちの署名と証言をまとめた書類。
これで証拠は三つ揃った。帳簿の改竄記録、資金の流れ、そして領民の証言。
あとは、仮面舞踏会の場で、これをどう突きつけるか。
そして、最後の一枚――ディーター本人の証言をどう引き出すか。
王都への帰路、カイが静かに言った。
「舞踏会には、俺も出る。騎士団の警護として」
「危険では?」
「それはお互い様だ」
少しだけ笑った、ように見えた。目元だけが、ほんの一瞬柔らかくなる。
気のせいかもしれない。けれど、私の心拍は少しだけ速くなった。
馬車の車輪が石を踏む音が、一定のリズムを刻む。
その規則正しさが、私に思い出させた。
焦らなくていい。一歩ずつ、確実に。
――けれど、王都に戻った私を待っていたのは、予想もしない人物からの呼び出しだった。




