第4話 偽りの聖女と消えた帳簿
その朝、マルテの書庫に向かうと、扉が半開きになっていた。
足が止まった。嫌な予感がした。マルテは几帳面な人だ。書庫の扉を開けたまま離れることはない。鍵は常に二重にかけ、窓も閉めてから帰る。それが毎日の習慣だと、この数日で知っていた。
呼吸を整えて、中に入った。
棚の一部が荒らされていた。床に本が散乱している。ただし、すべての棚ではない。特定の区画だけが崩されている。手当たり次第に荒らしたのではなく、明確な目的を持って探したのだ。
「マルテ!」
奥の机の影に、マルテがしゃがみ込んでいた。怪我はない。けれど、顔色が悪かった。唇が白い。
「大丈夫。驚いただけだ。夜のうちに誰かが入った。鍵が壊されている」
「何を探しに?」
「ヴァルトシュタイン家の支出記録だよ。昨日、俺がカイに渡すと言った、あの帳簿だ」
やはり。
マルテは立ち上がり、眼鏡を直した。手が僅かに震えている。けれど声は落ち着いていた。三十年間、記録を守ってきた人間の胆力だ。
「だが、取られてはいない。本当に重要な記録は、この書庫には置かない」
そう言って、机の引き出しの二重底から薄い冊子を取り出した。見た目は古びた綴じ本に過ぎないが、中には精密な数字が並んでいる。
「記録保管の基本だ。本物は別の場所に隠す。見える棚に並べるのは、囮と普通の参考書だけだ」
胸を撫で下ろしかけたが、すぐに別の不安が頭をもたげた。
「マルテ。誰かがこの書庫の存在と、あなたが動いていることを知っているということですね」
「そうだ。しかも、ヴァルトシュタイン家に関わる記録を狙った。つまり、こちらの調査の方向まで把握されている」
背筋が冷えた。
情報が漏れている。カイ、マルテ、私。この三人以外に知っているのは、騎士団長のヨハンだけだ。
ヨハンが裏切った? いや、それは考えにくい。カイが信頼している人物だ。しかも騎士団長の立場で裏切るなら、こんな書庫荒らしのような荒っぽい手は使わない。
では別の経路で漏れた。
思考を巡らせる。図書室でカイが帳簿を閲覧した記録が、誰かの目に止まった可能性がある。閲覧者の名前、日時、対象の帳簿名。それらは記録として残るはずだ。
王宮図書室の閲覧管理は厳格だと母から聞いていた。誰が、いつ、何を見たか。すべて記録される。それは記録を守るための仕組みだが、同時に、記録を見た人間を追跡する手段にもなる。
つまり、カイが何を調べているかを知りたければ、閲覧記録を見ればいい。
「図書室の閲覧記録は、誰が確認できますか」
「司書長の権限を持つ者。つまり私と、副司書長のふたりだ」
「副司書長は信頼できる方ですか」
マルテは沈黙した。眼鏡の奥の目が、ゆっくりと細くなった。それが答えだった。
「あの男は悪い人間ではない。だが、圧力に弱い。公爵家の名前を出されれば、黙って従うだろう」
つまり、副司書長がヴァルトシュタイン家側に閲覧記録を流した。カイの動きが筒抜けだったわけだ。
散らばった本を拾いながら、私は考えた。情報が漏れるルートが判明したのは、むしろ収穫だ。逆にこのルートを利用して、偽の情報を流すこともできる。
だが今はそれよりも、帳簿の中身を確認することが先だ。
◇
夕刻、カイが合流した。書庫の荒らされた様子を見て、表情が硬くなる。唇を結び、部屋の中を一巡して窓や壁を確認した。騎士の習性なのだろう。安全確認を終えてから、私の隣に座った。
「マルテが持ち出した帳簿を追っている者がいる。副司書長が閲覧記録を外部に流した可能性が高い」
私はヴァルトシュタイン家の支出記録を広げながら言った。
「外部とは」
「ヴァルトシュタイン公爵家の執事。ディーターという名の男です」
カイの目が鋭くなった。
「母の記録が改竄された時期に、王宮内で頻繁に出入りしていた人物がいると、以前マルテから聞いていました。公爵家の用事で図書室に来ることがあったと。痩せ型で影の薄い風貌の男だそうです」
「覚えがある。受付で見かけたことがある」
カイが顎を引いた。記憶力がいい。
帳簿に目を落とす。数字を追う指先に力が入る。
ヴァルトシュタイン家から王宮への寄付金の項目を、年度ごとに拾い出していく。
金額を書き出し、横にフェルゼン領から消えた交付金の差額を並べた。
数字が揃う。ほぼ一致していた。誤差は百ルカ未満。これは偶然ではない。
「フェルゼン領の交付金を横流しし、それをヴァルトシュタイン家からの寄付金として王宮に戻す。帳簿上はヴァルトシュタイン家が王宮に多額の寄付をしたことになり、公爵家の発言力が増す」
「そしてその見返りが、王太子との婚約か」
カイの声は低かった。
つまり、ナディアの婚約は実力でも運でもなく、不正な資金の流れの上に成り立っている。
ヴァルトシュタイン家は、フェルゼン領から抜き取った金を自家の手柄として王宮に差し出し、それによって娘を王太子の婚約者に押し上げた。
そして、その不正に気づきかねない私とフェルゼン家を、先に潰した。
母が生きていれば、帳簿のずれに必ず気づいたはずだ。だから母の死後、記録を書き換え、残された私を追放した。
計画的だ。何年もかけて仕組まれた罠。
「これで動機と資金の流れは見えた。だが、まだ足りない」
マルテが言った。散らばった本を棚に戻し終え、机に戻ってきたところだった。
「帳簿の数字は状況証拠だ。改竄を実行した人間の証言か、直接の物証がなければ、王宮の裁定は動かせない。公爵家は『帳簿の転記ミスだ』と主張するだろう。ミスと改竄を区別するには、実行者の証言が不可欠だ」
正しい。
王宮の制度は、身分の高い者に有利にできている。伯爵家の令嬢だった私ですら退けられたのだ。数字だけでは、公爵家の壁は崩せない。
「ディーターを探す必要がある」
「危険だ」
カイが即座に言った。声に力がこもっている。
「ディーターはナディアの手足だ。近づけば、向こうもこちらの動きを確認できる」
「でも、他に方法がありません。帳簿の改竄を実行したのがディーターなら、彼の行動を追えば物証に辿り着ける」
カイは何も言わなかった。ただ、少しだけ眉を寄せた。
反対しているのではない。危険だとわかっていて、それでも止める根拠がないことに苛立っている。その苛立ちの正体が心配だということも、なんとなくわかった。
「……わかった。ただし、一人では動くな」
「もちろんです」
そう答えたとき、書庫の扉が控えめに叩かれた。
三人の視線が扉に集中する。カイが腰の剣に手をかけた。身体が瞬時に戦闘態勢に入るのが見えた。さすがに副団長だ。
「私だよ。ヨハンだ」
聞き覚えのある大きな声。扉を開けると、赤みがかった茶髪の大柄な男が立っていた。近衛騎士団の団長。大きな体を屈めて入ってくる姿は、この狭い書庫には似つかわしくない。
「カイ、おまえの報告を受けて調べた。面白いことがわかったぞ」
ヨハンは部屋に入ると、懐から一通の書簡を取り出した。
「来月、王宮で仮面舞踏会が開かれる。ナディア嬢の提案でな。表向きは秋の社交行事、王太子の治世を祝う催しだそうだ。だが、本当の目的は別にあるらしい」
「別の目的?」
「ヴァルトシュタイン公爵家が、新たな寄付を王宮に行い、その席で王太子との正式な婚礼の日取りを発表する。つまり、既成事実を作ろうとしている」
婚礼の日取り発表。
それが行われれば、もう後戻りはできない。ナディアの地位は確定し、不正を暴いても「すでに決まったこと」として処理される。王宮の制度は前例を重んじる。発表された婚礼を覆すのは、発表前に止めるよりもはるかに難しい。
ヨハンが書簡を机に置いた。
「それだけじゃない。婚礼が成立すれば、ナディアは王太子妃だ。王太子妃に対する告発は、一般の令嬢に対するそれとは格が違う。証拠のハードルが格段に上がる」
「つまり、舞踏会の前に決着をつけなければ、手遅れになる」
カイが端的にまとめた。
「そういうことだ」
ヨハンは腕を組み、私を見た。大柄な体に似合わず、目が真剣だった。
「リーゼル嬢。おまえの覚悟を聞いておきたい。これは危険な賭けだ。失敗すれば、追放どころではすまない」
「覚悟はできています」
「即答か。カイに似てきたな」
ヨハンは一瞬だけ笑い、すぐに真顔に戻った。
「間に合わせなければ」
私は自分の声が固くなるのを感じた。
「仮面舞踏会までに、証拠を揃える。そしてあの場で――」
「待て」
マルテが遮った。
「焦るな。敵は賢い。こちらが仮面舞踏会を狙うことも、想定しているかもしれない。ナディアという女は、聞く限り用意周到だ。罠を仕掛けてくる可能性は高い」
正しい。ナディアは慎重な人間だ。あの微笑みの裏で、常に何手も先を読んでいる。
「だからこそ、まず足元を固める。ディーターの足取りを追い、物証を押さえる。それと同時に、もう一枚、別のカードが必要だ」
「別のカード?」
「フェルゼン領の民だ。あんたの母上を知っている人間がいるなら、その声も力になる。数字の証拠だけでなく、人の声が加われば、裁定の場での説得力が格段に変わる」
フェルゼン領。母が守った土地。
追放されてから、一度も足を向けていなかった。怖かったのだ。母を失い、私まで追い出された領地の民が、今の私をどう見るか。恨んでいるかもしれない。見捨てた娘だと思っているかもしれない。
けれど、逃げていては何も変わらない。
母が守った場所に、私が行かなくて、誰が行くのだ。
「……領地に、行きます」
カイが静かに頷いた。
「俺も行く」
短い一言だった。けれど、それだけで十分だった。
書庫を出る間際、ヨハンが声をかけてきた。
「リーゼル嬢。ひとつ忠告だ」
彼は豪快な顔を急に引き締めた。笑い皺が消え、騎士団長の顔になる。
「仮面舞踏会には、王太后オルテンシア殿下もご列席なさる。あの方の目は、何も見逃さないと思っておけ」
王太后。王宮の最深部に座し、表向きは政治に関わらない人物。
けれどその沈黙は、無関心とは違う――そう聞いたことがある。
味方になるか、敵になるか。
それすらもわからないまま、私は次の一手を打たなければならなかった。




