第3話 図書室に眠る記録
カイに連れられて向かったのは、王都の外壁近くにある古い書庫だった。
通りから一本裏に入った場所にある、目立たない建物。看板もなく、表からは廃屋のように見える。だが、扉を開けると空気が変わった。
ほこりの匂いではなく、古い紙と革装丁の匂い。きちんと管理された書物の匂いだ。
棚が壁を埋め尽くしている。天井まで届く書架が何列も並び、その奥の机に小さなランプが灯っていた。
その光の中に、白髪交じりの小柄な人物が座っていた。
「遅かったね、カイ。連れてくるのに三日もかかるとは」
眼鏡の奥から鋭い視線が飛んでくる。
小柄だが存在感がある。背筋が伸びていて、座っていても妙な威厳を感じさせた。
「マルテ。王宮図書室の司書長だ」
カイが短く紹介した。
司書長。王宮の記録を管理する最高責任者。なぜそんな人物が、追放された私に関わろうとしているのか。
「あなたのお母上にはずいぶん世話になった」
マルテは椅子から立ち上がりもせず、眼鏡を押し上げた。
「フェルゼン伯爵夫人――いや、クラーラは優秀な管理者だった。あの領地が豊かだったのは、彼女の帳簿管理のおかげだ。王宮の経理官でも、あれほど正確な帳簿は作れない」
母を知る人だ。しかも、母の仕事を正当に評価している人。
追放されてから、母を褒めてくれる人に初めて会った。
「クラーラとは、まだ若い頃に王宮の記録整理の仕事で知り合ってね。彼女は伯爵家に嫁ぐ前、一時期、王宮の経理部門で研修を受けていた。その頃に私が帳簿管理の基礎を教えた。教えたといっても、すぐに追い越されたがね」
母がマルテに教わっていた。それは知らなかった。
母は自分の過去をあまり語らなかった。ただ、帳簿に向かうときの姿勢と技術だけを、黙って私に示してくれた。
「だが、彼女が亡くなって二年。記録に不自然な改竄の痕跡が出始めた。インクの色が途中で変わっていたり、数字の筆跡に揺らぎが出ていたり。最初は転記ミスかと思ったが、ミスにしては方向が偏りすぎている」
「方向が偏りすぎている、とは?」
「すべての誤差が、フェルゼン領への交付金が少なく見える方向にずれているということだ。偶然の転記ミスなら、多い方にも少ない方にもばらつくはず。だが、この帳簿のずれは一方向だけだ」
改竄。
その言葉で、胸の奥が冷えた。やはり、私の直感は間違っていなかった。
「私が追放される前、母の帳簿の一部が王宮に提出されました。でも、その内容が書き換えられている可能性がある。私が写しを持ち出したのは、そのためです」
鞄から数枚の紙を取り出す。手が少し震えていた。
この写しは、追放が決まる前夜に急いで書き写したものだ。時間がなくて、すべてを写すことはできなかった。けれど、最も重要な三年分の交付金の推移だけは確保してある。
マルテは紙を受け取り、ゆっくりと目を通した。指先で数字を追い、途中で何度か眼鏡を外して目を細めた。
「……なるほど。数字が合わない。元帳と突き合わせれば、どちらが正しいか判明する。あんたの写しの数字が正しければ、王宮保管の帳簿こそが改竄されたものだということになる」
「元帳は王宮図書室にありますか」
「ある。だが、閲覧できるのは許可された者だけだ。追放された人間が王宮に近づくことはできない」
わかっていた。だからこそ、一人では動けなかった。
追放令は単なる宮廷追放ではない。王宮敷地内への立ち入り禁止も含まれている。
「俺が図書室に入る名目を作る」
カイが言った。近衛騎士団は、職務上の調査であれば図書室への立ち入りが認められている。
「騎士団長のヨハンには話を通してある。公式な調査ではないが、黙認してくれる」
「ヨハン殿が?」
「あいつは不正が嫌いだ。証拠が出れば、正式に動く覚悟がある」
マルテが鼻を鳴らした。
「ヨハンか。あの男は声が大きいくせに、妙なところで慎重だからね。まあいい。記録は嘘をつかないよ。問題は、嘘をつく人間の方だ」
三人の視線が交わった。
信頼とまでは言えない。けれど、目的は同じだ。真実を知りたい。そして、真実が歪められているなら正したい。
◇
翌日から照合作業が始まった。
カイが図書室から持ち帰った帳簿の写しを、マルテの書庫で広げる。テーブルの上に二種類の数字が並ぶ。私の写しと、王宮の元帳。
数字を照合する作業は地道だった。一行ずつ、一列ずつ。年度、月次、項目ごとに突き合わせていく。
カイは計算には加わらなかったが、黙って見守り、必要なものがあれば無言で用意してくれた。ランプの油が切れかけると、いつの間にか新しい油が机に置いてある。水差しも、気づけばいつも満たされていた。
マルテは時折、自分の知識を補足してくれた。
「この年度の交付金は、本来なら前年比で一割増のはずだ。王宮の予算編成が変わったからね。だが元帳の数字は据え置きになっている」
「つまり、増額分もすべて抜かれている?」
「そういうことだ。巧妙だよ。増額の事実を知っている者が少ないから、誰も気づかない」
帳簿管理者でなければ見抜けない不正。母が生きていれば、即座に気づいただろう。だからこそ、母が亡くなった直後に改竄が始まったのだ。
三日目に、私の目が止まった。
フェルゼン領への王宮交付金の記録。母が管理していた時代には正確だった数字が、母の死後に別の数値に書き換えられていた。しかもその書き換えは、交付金が減額されたように見せかけるものだった。
「ここ。三年前の秋季交付金。私の写しでは四千二百ルカ。王宮の元帳では二千八百ルカになっている」
「千四百ルカの差額か」
マルテが呟いた。
「同じ差異が、翌年の春にもある。こちらは千ルカ。その次の秋は千六百ルカ」
数字を並べるほどに、差額の規模が大きくなっていた。
しかも、改竄の手口は年を追うごとに巧妙になっている。最初の年は数字をそのまま書き換えるだけだった。だが二年目からは、複数の項目に分散して差額を散らしている。一箇所あたりの違いを小さくして、発覚しにくくする手法だ。
「この手口……段階的に洗練されている。最初は素人の仕事ですが、二年目以降は帳簿管理の知識がある人間が関わっていますね」
マルテが眉を上げた。
「よく見抜いたね。そう、最初の年の改竄は荒い。だが二年目以降は項目間の辻褄も合わせてある。ということは――」
「途中から、指導役がついた。帳簿に詳しい人間が、改竄のやり方を指示し始めた」
母が亡くなった直後は、改竄を実行する側も手探りだった。だが時間が経つにつれ、やり方を覚えた。あるいは、より巧妙な手法を教えられた。
その「教えた人間」が誰なのか。それも追うべき糸の一本だ。
「つまり、実際には交付金は減っていないのに、帳簿上は減額されている」
私は声を抑えて言った。指先が紙の上で止まった。
「差額は誰かの懐に入っている。そしてその不正を隠すために、帳簿を管理していた母の記録ごと改竄した。合計で四千ルカ以上。これは小さな額ではありません」
「改竄の時期と、あなたが追放された時期は一致する」
マルテが眼鏡を外し、目頭を揉んだ。ランプの光が、深い皺の刻まれた顔を照らしていた。
「追放の理由は『王太子への不敬と陰謀』だったね。だが本当の理由は、あなたが母上の帳簿を引き継ぎ、不正に気づく可能性があったから――ということだ」
呼吸が詰まった。
疑ってはいた。でも、数字として突きつけられると、怒りよりも先に悔しさが込み上げてくる。
母が命をかけて守った記録。その記録ごと、私たち親子は消されようとしていたのだ。
母の死後、残された私がいなくなれば、帳簿の正確さを証明できる人間はいなくなる。それが、追放の本当の目的だった。
テーブルの上に広がった二つの帳簿を見つめた。母の筆跡と、改竄後の筆跡。母の文字は一画一画が丁寧で、数字の間隔も等しい。改竄後の文字は似せようとしているが、微妙に傾きが違う。
この違いに気づけるのは、母の帳簿を何年も見続けてきた私だからだ。
悔しさが波のように押し寄せる。けれど、悔しいだけではだめだ。この感情を、証拠を集める力に変えなければ。
「リーゼル」
カイの声が、静かに名前を呼んだ。
振り向くと、彼は無表情のまま、けれど確かにこちらを見ていた。
慰めるのでも同情するのでもない。ただ、ここにいるという視線だった。
「証拠は見つかった。次は、誰が改竄を指示したかだ」
そう。泣いている暇はない。
数字が揃った以上、次は人を辿る。
「帳簿の改竄ができるのは、記録保管庫への権限を持つ者だけ。王宮内の限られた人間です」
「心当たりは?」
カイの問いに、私はひとつの名前を飲み込んだ。
まだ言えない。証拠がない推測だけでは、また同じ過ちを繰り返す。あの玉座の間で、弁明の機会すら与えられなかった。同じ失敗は二度としない。
「……もう少し、調べさせてください」
「わかった。急がなくていい。ただし、無理はするな」
その一言が、不思議と胸に沁みた。
王宮にいた頃、誰かに「無理をするな」と言われたことが、あっただろうか。周りにいたのは、成果を求める父と、私を利用しようとする人々ばかりだった。
母だけは違った。母は私に「無理をしなくていい」ではなく、「無理をするなら、賢くやりなさい」と言っていた。無理をするなとは言わない人だった。だって母自身が、領地のために無理を重ねていたから。
カイの「無理はするな」は、母の言葉とは違う。でも、根底にあるものは同じだ。こちらの力を信じた上で、心配してくれている。
それが嬉しくて、少しだけ鼻の奥が熱くなった。
マルテが帳簿をまとめ、棚にしまう。丁寧に、一冊ずつ元の位置に戻していく。
「明日、もう一冊持ち出してくる。ヴァルトシュタイン公爵家に関わる支出の記録だ。見たいだろう?」
ヴァルトシュタイン。
ナディアの実家の名だ。追放の場で、あの微笑みを浮かべていた令嬢。
私は静かに頷いた。
書庫の扉を閉める瞬間、マルテが背中に声を投げた。
「気をつけなさい。記録を追う者は、記録に追われる。あちらも動き始めているはずだ」
冷たい風が首筋を撫でた。
振り返ると、灰色の街の向こうに王宮の尖塔がわずかに見えていた。夕日に照らされて赤く燃えるその姿は、美しくもあり、不穏でもあった。
あの場所で今、私の写しの存在に気づいた誰かが、次の手を打とうとしている。
足を止めている暇はない。
――けれど、その「誰か」が思った以上に近くにいることを、翌朝、私は知ることになる。




