第2話 灰色の街と黒い騎士
追放されて三日。私が辿り着いたのは、王都の外れにある灰色の宿場街だった。
石畳は罅割れ、建物の壁は煤けている。王宮の白い回廊とは何もかもが違う。けれど不思議と、息がしやすかった。
あの場所では、いつも誰かに見られていた。評価され、値踏みされ、陰口を叩かれる日々。ここには、そのどれもない。
宿の受付で名を聞かれて、少しだけ迷った。リーゼル・フェルゼン。その名前は、今の私には重すぎる。
「リーゼルです。姓は――ありません」
受付の老婆は眉ひとつ動かさなかった。この街では、名前を捨てた人間など珍しくないのだろう。
鍵を渡され、狭い階段を上がる。手すりに触れると、木が乾いてざらついていた。王宮の大理石とは違う。だが、冷たくはなかった。
部屋は狭かった。寝台と小さな机。窓の外に見えるのは、路地を行き交う人々の足元だけ。
荷物は、追放の際に持ち出せた最低限しかない。着替えが二着、母の形見の小さな手帳、それと――王宮図書室から密かに書き写した数枚の写し。
寝台に腰を下ろすと、木枠がきしんだ。王宮の絹張りの寝台とは比べものにならない。けれど、自分で選んだ場所だ。それだけで違った。
あの王宮では、何もかもが与えられたものだった。部屋も、衣装も、婚約すらも。自分で選んだものは何一つなかった。
窓を開けると、通りの喧騒が流れ込んできた。物売りの声。馬車の車輪の音。子どもの笑い声。生活の音だ。王宮にはなかった音。
母が私に残してくれたもの。フェルゼン領の徴税記録に関わる数字の控えだ。
あの追放が仕組まれたものだと証明するための、たったひとつの手がかり。
母――クラーラは、フェルゼン伯爵領の帳簿管理を一手に担っていた人だ。貴族の令嬢でありながら、商人顔負けの計算能力を持ち、領地の税収と支出を完璧に管理していた。
二年前に病で亡くなったとき、領民たちが泣いたのは伯爵夫人としてではなく、彼女たちの暮らしを守ってくれた人としてだった。
母の死後、帳簿の管理は王宮が推薦した人物に移った。そこから何かが変わり始めたのだと、私は感じていた。
だがそれを調べる前に、追放された。
写しを手帳に挟み込み、枕の下に滑り込ませる。
まずは、生きなければ。証拠があっても、死んでは意味がない。
手帳を握りしめると、母の温もりが残っているような気がした。もちろん気のせいだ。母が亡くなって二年になる。けれど、この手帳に触れるたび、母の声が聞こえる気がする。
『数字は正直よ、リーゼル。人は嘘をつくけれど、帳簿は嘘をつけない。だから帳簿を守りなさい』
母はいつも笑いながらそう言った。帳簿を前にしたときだけ、母の目は真剣になった。それが、幼い私には少し怖くて、でもかっこよく見えた。
母のようになりたいと思っていた。帳簿を守る人になりたかった。
なのに今、その帳簿が書き換えられて、私は追放されている。
皮肉だ。でも、母が私に残したものがあるから、まだ戦える。
◇
翌朝、宿を出て街を歩いた。まず必要なのは、生きる手段だ。
手持ちの金はわずか。伯爵令嬢だった私にできることなど、限られている。
刺繍は得意だったが、それで日銭を稼ぐには時間がかかりすぎる。裁縫の腕も悪くないが、道具がない。
けれど、ひとつだけ自信があるものがあった。数字を読む力だ。母に仕込まれた帳簿管理の技術。華やかではないけれど、確実に役に立つ。
市場の一角で、困り顔の商人を見かけた。荷の前で帳面を睨み、首を傾げている。髭を蓄えた中年の男で、額に汗を浮かべていた。
秋の交易期に入ったばかりだ。帳簿の処理が追いつかないのだろう。
声をかけるかどうか、一瞬迷った。伯爵令嬢だった私が、路上で商人に声をかける。王宮にいた頃なら考えられないことだ。
けれど、今の私はただの「姓のない女」だ。見栄も体裁も、もう関係ない。
「あの」
声をかけると、商人は警戒の目を向けた。当然だ。見知らぬ若い女が突然話しかけてくるのだから。
服装を見れば、金持ちではないことは一目でわかるだろう。追放の際に持ち出した服は、仕立ては良いが飾り気がない。
「帳簿の計算、お困りではありませんか。少しお手伝いできると思うのですが」
「手伝うって、あんた何者だ」
「計算が得意な旅の者です。腕を見ていただければ」
商人は疑わしそうに帳面を差し出した。
数字を追う。列を確かめる。三つ目の項目で、繰り越しの間違いを見つけた。さらに読み進めると、仕入れ値の合算にも端数の転記ミスがある。
「ここです。前月の繰り越しが百ルカ多いので、合計が合わなくなっています。それと、七行目の仕入れ額ですが、端数が五ルカずれています」
商人の目が変わった。驚きと、少しの当惑。
「……あんた、どこで計算を習った?」
「母に教わりました」
それだけ答えると、商人は黙って銀貨を二枚置いた。
「うちの帳簿、明日も見てくれるか。秋の決算期でな、まともに計算できる奴がいなくて困ってたんだ」
嬉しかった。王宮にいた頃には感じなかった、手のひらの中に確かな重みがある喜び。
自分の力で得た、最初の対価だった。
その日の午後にはもう一人、果物商の女性から帳簿の相談を受けた。こちらは計算ミスではなく、記帳の仕組みそのものが混乱していた。
科目を整理し、日付順に並べ直す方法を教えると、女性は目を丸くした。
「あんた先生みたいだね。明日からうちに来ておくれよ」
先生。そう呼ばれたのは初めてだった。くすぐったい。
夕方には、三人目の依頼が来た。仕立屋の主人が、布の仕入れ帳を持ってきた。
こちらは帳簿というより備忘録に近い乱雑な記録だったが、数字を拾い出して整理するのは嫌いではない。むしろ、数字と向き合っている間は余計なことを考えずに済む。
王宮を追い出されたこと。婚約を破棄されたこと。「悪役令嬢」と呼ばれたこと。
数字を追っている間だけは、それらが遠くなる。
「あんた、明日も市場に来るかい?」
仕立屋の主人が帰り際に聞いた。
「はい。しばらくこの街にいる予定ですから」
「ならうちの商売仲間にも声をかけとくよ。帳面を見てくれる人を探してる連中は多い」
ありがたかった。この街での居場所が、少しずつできていく。
母がくれたのは、数字を読む力だけではない。数字を通して人と繋がる力だ。
宿に戻る途中、角を曲がったところで足が止まった。
暗い路地の壁に背を預けて、長身の男が立っていた。黒い髪。濃い灰色の瞳。近衛騎士団の紋章が、外套の留め金に小さく光っている。
心臓が跳ねた。近衛騎士団。それは王宮の直轄部隊。追放された私を連れ戻しに来たのか。それとも――もっと悪いことのために。
逃げようとした。足が動かなかった。背を向けてはいけないと、本能が告げている。
けれど、男の方が先に口を開いた。
「落ち着いてくれ。追手じゃない」
低い声。抑揚が少ない。けれど、その目は嘘をついていなかった。
少なくとも、私にはそう見えた。
「リーゼル・フェルゼンだな」
「……その名前を知っているなら、私がどういう立場か知っているでしょう」
「知っている。だから来た」
男は壁から背を離し、一歩だけ近づいた。それ以上は近づかなかった。
威圧する気がないということを、距離で示しているように見えた。
「俺はカイ。近衛騎士団の副団長だ。あんたの追放の件で、不自然な点がある。それを確かめたい」
不自然な点。
私だけが知っていると思っていたことを、この男も感じていたのだ。
「どういう不自然な点ですか」
「追放の裁定が、通常の手続きを踏んでいない。本来、追放には三人以上の裁定官の合議が必要だが、あの件はエルヴィン王太子の独断だった。裁定記録も不完全で、弁明の機会が与えられた記録がない」
やはり。手続き上の不備があったのだ。
私自身も感じていたが、制度に詳しいわけではないから確信が持てなかった。騎士団の人間がそれを指摘してくれるなら、話は変わる。
「なぜ、わざわざ追放された人間のところに?」
「騎士の仕事だ。不正の疑いがあるなら、調べるのが務めだろう」
そう言って、彼は視線を逸らさなかった。
嘘や打算の色は見えない。ただ、まっすぐに私を見ていた。
信じていいのかは、まだわからない。
けれど私は、一人で戦い続ける限界も感じ始めていた。三日間、誰にも名前を呼ばれず、誰にも本当のことを話せない日々だった。
「……話を聞いてもらえますか」
「ああ。だがここじゃまずい。場所を変えよう」
カイは歩き出し、私もその後に続いた。
半歩後ろ。彼の歩幅は大きかったけれど、私を置いていくほどではなかった。時折、さりげなく速度を緩めているのが分かった。
灰色の街に、少しだけ別の色が混じった気がした。
それが何色かは、まだわからない。
カイは路地を抜け、街外れの古い建物の前で足を止めた。
「ここだ。信頼できる人間がいる。あんたの話を聞いてくれるはずだ」
「どういう方ですか」
「王宮図書室の司書長。記録の専門家だ」
記録の専門家。帳簿の改竄を証明するなら、これ以上の味方はいない。
「なぜそこまでしてくれるのですか。あなたは近衛騎士団の副団長で、王宮側の人間でしょう」
カイは少しだけ間を置いた。
「騎士は王に仕える。だが、王に仕えることと、不正を見過ごすことは違う」
短い言葉だった。けれど、そこに嘘はなかった。
この男の言葉には飾りがない。だからこそ、信じられる。
「追放の裁定が下されたとき、騎士団内でも疑問の声は上がりました?」
「表立っては上がらない。騎士団は王太子の命令系統の下にある。公に異を唱えることは、上官への反逆と見なされかねない」
「では、あなたが今こうして私の前にいること自体が、規律違反では」
「だから非番の日に、私服で来ている」
言われて初めて気づいた。カイは近衛騎士団の正装ではなく、地味な外套を羽織っているだけだった。紋章も、先ほど角度によって光った留め金の小さなものだけ。
目立たないように、けれど身分を隠しきらないように。その加減が、この男の誠実さを物語っていた。
「……ありがとうございます」
「礼はまだいい。話はこれからだ」
建物の扉に手をかけるカイの背中を見ながら、私は思った。
一人ではなくなった。それだけで、呼吸がずいぶん楽になる。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
私の手の中にある数字の写し。
そしてこの男が持っているかもしれない、王宮側からの証拠。
ふたつが揃えば、何かが動く。
――けれどこのとき、王宮ではすでに、私の持ち出した写しの存在に気づいた者がいた。




