第10話 私の名前を呼ぶ声
裁定の間は、王宮の東棟にあった。
石造りの円形の部屋。高い天井にステンドグラスの光が差し込み、赤と青と金の光が床に模様を描いている。中央の裁定席には王太后オルテンシアが座っていた。銀の髪を高く結い上げ、深い紫の瞳が真っ直ぐ前を見つめている。
私は証人席に立った。隣にはマルテ。後方にはヨハンとカイ。広間の傍聴席には、昨夜の舞踏会に列席していた主要な貴族たちが並んでいる。昨夜の騒動を聞きつけた者も加わり、席はほぼ埋まっていた。
ナディアは反対側の席に座っていた。昨夜の動揺は消え、再び完璧な表情を取り繕っている。背筋を伸ばし、碧い目は冷静さを装っていた。隣に控えるのは、ヴァルトシュタイン公爵家の顧問弁士。白髪の老人で、法と制度に通じた人物だと聞いている。
エルヴィン王太子は傍聴席の最前列にいた。王太后の指示で、この場では裁く側ではなく、見届ける側に置かれていた。彼の手は、膝の上で固く握られていた。
「始めなさい」
王太后の一言で、裁定が始まった。
私は用意した証拠を順番に提示した。帳簿の改竄記録、資金の流れ、領民の証言書、舞踏会の架空支出、そしてディーターの証言。
一つひとつを読み上げるたびに、傍聴席がざわめいた。数字を示すときは、具体的な金額と年度を明記した。曖昧な表現は一切使わなかった。
母に教わった通りだ。数字は正確に、順序立てて。感情ではなく、事実で語る。
資金の流れを説明するとき、傍聴席から声が漏れた。
「四千ルカ以上の差額……」
誰かが呟いた。その金額の大きさに、広間の空気が変わったのがわかった。
四千ルカは、小さな領地が一年間運営できる金額だ。それだけの金が、帳簿の操作だけで消えていた。
領民の証言書を読み上げたときには、傍聴席の何人かが目を伏せた。税が上がり、店を畳み、土地を手放した人々の声。数字だけでは伝わらないものが、そこにはあった。
けれど私は、ただ数字を読み上げていたわけではない。ざわめきに飲まれないよう、呼吸を整えながら進めた。吸って、吐いて。一つの証拠を示すたびに、ひと呼吸置く。
すべての提示が終わると、ナディアの弁士が立ち上がった。
「これらの証拠は、追放された元令嬢が私怨で捏造した可能性がございます。ディーターなる者の証言も、強要されたものである疑いが――」
「証拠の原本は王宮図書室に保管されております」
マルテが静かに遮った。
老司書長は立ち上がり、手にした帳簿を高く掲げた。
「司書長として申し上げます。帳簿の原本に改竄の痕跡があることは、私自身がこの目で確認しました。筆跡の変化、インクの色の違い、日付と内容の矛盾。これは捏造ではなく、物として存在する事実です」
「司書長が追放令嬢と結託している可能性も――」
「記録は嘘をつきません」
マルテの声は穏やかだったが、揺るぎなかった。書庫で見せた皮肉な笑みはなく、三十年の矜持がその言葉にこもっていた。
「私は三十年間、王宮の記録を守ってきました。先代の王の時代から、一頁たりとも改竄を許したことはない。その三十年のすべてを賭けて申し上げます。この帳簿は改竄されています。そしてその改竄は、フェルゼン領の交付金を不正に流用するためのものです」
弁士が押し黙った。三十年という歳月の重さは、法の論理とは別の説得力を持っている。
王太后が口を開いた。
「ナディア・ヴァルトシュタイン。何か申し開きはあるか」
ナディアは立ち上がった。一瞬の沈黙の後、微笑みを浮かべた。最後の武器を使おうとしている。
「すべてはフェルゼン家と王家のために行ったことです。フェルゼン領の管理が不十分であったため、私の家が補助する形で――」
「質問に答えなさい。帳簿の改竄を指示したのか、していないのか」
王太后の声に、温度はなかった。茶室で私に向けたのと同じ、事実だけを求める声だ。
ナディアの微笑みが、僅かに震えた。
広間中が、彼女の答えを待った。
「……していません」
「ディーター」
王太后がディーターに視線を向けた。
ディーターは立ち上がった。手袋はつけていなかった。素手の指を見つめながら、掠れた声で言った。
「改竄はすべて、ナディア・ヴァルトシュタイン様のご指示で行いました。指示は口頭で受けましたが、私は毎回の日付と内容を手帳に記録しておりました」
懐から、小さな手帳を取り出した。使い込まれた革の手帳。開くと、几帳面な文字で日付と指示内容が列記されている。
「用済みになる日が来ると、わかっていましたので」
ナディアの顔が歪んだ。
あの完璧な微笑みが、ついに完全に崩れた。碧い瞳が見開かれ、唇が震えている。
怒りではなく、恐怖だった。自分が築き上げたものが崩れていく恐怖。
広間が静まり返った。
王太后が数秒間、沈黙した。そして口を開いた。
「エルヴィン」
王太子が、びくりと肩を震わせた。
「この件について、何か述べることはあるか」
エルヴィンは立ち上がった。視線が泳ぎ、唇が動いたが、言葉にならなかった。
やがて、彼は小さく頭を下げた。
「……私は、真実を見ようとしなかった。それは、私の過ちです」
それだけだった。けれど、この男がこれまでの人生で一度も口にしなかった言葉かもしれない。自分の判断が間違っていたと認めること。それが、この男の最大の恐怖だったのだから。
私はエルヴィンを見つめた。怒りはあった。この人のせいで私は追放された。弁明の機会も与えられなかった。
けれど、今のこの一言は、嘘ではなかった。窓の外に目を逸らさず、こちらを見て言った。それだけで、私の中の何かが少しだけ軽くなった。
赦すか赦さないかは、今決めなくていい。
ただ、この人も、自分なりに苦しんでいたのかもしれないとは思った。
◇
王太后が裁定を下した。
ナディア・ヴァルトシュタインは王宮への出入りを禁じられ、ヴァルトシュタイン公爵家には不正に得た利益の全額返還と、王宮における発言権の一時停止が命じられた。領地の一部も没収された。
エルヴィンとナディアの婚約は破棄された。
ディーターに対しては、証言への協力を考慮し、刑の減免が約束された。
そして。
「リーゼル・フェルゼン。あなたへの追放令を取り消す。フェルゼン伯爵家の名誉を回復し、領地の管理権を返還する」
王太后の声が、裁定の間に響いた。
取り消す。
その言葉が、胸の中で反響した。
泣きそうになった。けれど、ここではまだ泣かない。この場は制度の場だ。感情を見せるべき場ではない。
「ありがとうございます」
頭を下げた。深く。母のブローチが、服の上から胸に当たった。
顔を上げたとき、王太后と目が合った。
紫の瞳が、ほんの一瞬だけ、柔らかくなった気がした。
「あなたの母上も、きっと喜んでいる」
その一言で、堪えていたものが溢れかけた。唇を噛んで、なんとか耐えた。目の奥が熱い。
裁定の間を出ると、マルテが廊下で待っていた。壁に背を預け、眼鏡を磨いている。
「お疲れ様。見事だったよ、クラーラの娘」
「マルテのおかげです」
「私は記録を守っただけだ。戦ったのは、あんただ。クラーラも同じだったよ。自分の手柄を人に譲る。似た者親子だね」
ヨハンが大きな声で笑った。
「いい裁定だった! さて、今夜は祝杯だな! マルテ、酒は飲めるか?」
「声が大きい。廊下だぞ」
マルテが呆れ顔で言うが、口元が少し緩んでいた。
「フェルゼン領にも知らせを送らないとね。ブリギッテは待っているだろう」
「ああ、あの女将にも祝杯の分を届けないと。スープのお返しだ」
ヨハンとマルテがやりとりするのを聞きながら、ふと思った。
この人たちがいなければ、今日はなかった。一人では、絶対にここまで来られなかった。
母が私に残したのは、帳簿の技術だけではない。人と繋がる力だ。数字を通して信頼を築き、信頼を通して仲間を得る。母はそうやって領地を守った。私も同じことをしたのだ。
その喧騒の少し離れたところに、カイが立っていた。
壁に背を預けて、静かにこちらを見ている。いつもの場所。いつもの姿勢。
けれど、その目だけが、いつもと違った。
私は皆に「少し失礼します」と言って、カイの元に歩いた。
「終わったよ」
「ああ」
「泣いてもいい?」
「好きにしろ」
その言葉が可笑しくて、少しだけ笑った。笑ったら涙が出た。止まらなかった。
カイは何も言わなかった。ただ、自分の外套を私の肩にかけた。
あの日と同じように。あの灰色の街の宿で、初めてそうしてくれたときと同じように。
けれど今度は、外套の温もりだけではなかった。
彼の手が、私の肩にそっと触れた。そしてそのまま、離れなかった。
「よく頑張った」
低い声。不器用で、短くて、それだけだった。
それだけで、十分だった。
涙を拭いて、顔を上げた。
「カイ。これからもフェルゼン領のために戦わなきゃいけないことが、たくさんあると思う。領地の立て直し、民の暮らしの回復、新しい帳簿の整備。母が遺してくれたものを、今度は私が守らなきゃいけない」
「ああ」
「一人じゃ心細い」
「だろうな」
「……隣にいてくれますか」
カイは少し間を置いた。視線を逸らさず、けれど言葉を探しているようだった。
「もういる」
短い言葉。けれど、それが彼のすべてだった。
「好きだ」とは言わない。「守る」とも言わない。ただ、「もういる」。それだけ。
この人は、最初からそうだった。言葉ではなく、行動で。外套をかけることで。隣を歩くことで。見届けることで。
並んで歩き出した。王宮の白い回廊を、今度は追い出されるのではなく、自分の足で。
窓の外に、午後の日差しが差し込んでいた。
影が二つ、並んで伸びている。
あの朝、門を出たとき、私の影に重なっていた見知らぬ影。
それがこの人だったのだと、今ならわかる。
回廊の先に、光が見えた。
柔らかく、温かく、確かな光。
母の手帳の最後の言葉を思い出す。
『数字は正直だけれど、人は嘘をつく。だから数字で人を守りなさい』
守れた、と思う。
母が守ったものを、私も守れた。そしてこれからは、私が守り続ける。
隣を歩く人の顔を見上げた。
目元だけが、やはり少しだけ柔らかかった。
回廊の途中で、ふと立ち止まった。窓の外に、王宮の庭が見える。秋の花が咲いていた。母が好きだった花と同じ種類の、白い小さな花だ。
「きれいだね」
「ああ」
カイは花には興味がなさそうだった。でも、私が立ち止まったから、一緒に止まってくれた。それだけで十分だった。
この先、楽な道ではないだろう。領地の立て直しには時間がかかる。壊れた信頼を回復し、歪められた記録を正し、失われた暮らしを取り戻す。母が何十年もかけて築いたものを、私はもう一度、一から積み上げなければならない。
でも、一人ではない。
マルテがいる。ヨハンがいる。ブリギッテがいる。領民たちがいる。
そして、この人がいる。
――これが、私の名前を取り戻した物語。
そして、私の名前で始まる、新しい物語の最初の一頁だった。
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