第二話 ナメクジ、ビンタをかます
腹一杯食べた子供のようなぽっこりしたお腹には、真一文字の切り傷がついていた。
あんなに流れ出ていた血も今は止まっている。
哀れなゴブリンの呼吸は、今にも消えそうなほど浅くなっていた。
今の自分の体は、一般的なナメクジから手のひらサイズのナメクジに変わっている。
『論理』君が言うところでは、今の自分はブラッド・ケイブ・スラッグ Level 58らしい。
血を吸収しすぎて体は真っ赤に変わっている。
元が単なるナメクジなもので、秒針が回るようにレベルはスルスルと上がる。
だが、こいつを助けられそうなスキルは進化しても得られなかった。
今はこの刺身包丁でスッといったような見事な切り傷に、体をペタリと貼り付けて止血作業をしている。
『吸血』で溢れる血を舐めとって、『輸血』でそのままお返ししているのだが、根本的な解決にはなっていない。
ただマッチポンプでレベルとスキルはどんどん上がっていった。
こんなの救護のフリをした寄生虫じゃないか。
差し込む月明かりが角度を変えていく。
何時間経ったんだろう。
ゴブリンの口元に当てた触覚耳には、もうほとんど風を感じない。
焦りながらチューチューやっているとレベルが100になったようだ。
ここで何かスキルを引かないと、自分はただのナメクジ野郎だ。
なんか出ろ!
――ブラッド・ケイブ・スラッグ Level100。
――進化先を選択してください。
→ベビー・アシッドスラッグ 危険度D
アシッドスラッグの幼体。天井に気をつけろ。
獲得スキル『強酸溶解液』『体組織変化(酸)』
→サングイン・スラッグ(ユニーク)危険度D
血のみを啜って成長した悍ましいナメクジ。黒魔術の触媒。
獲得スキル『出血属性付与』『体組織変化(肉)』
ナメクジは、なで肩を落として小さな口からため息を吐いた。
自分が進化すると、ゴブリン君は酸で焼け死ぬか、出血多量で死ぬかもしれない。
『論理』に聞いても進化キャンセルはできない。
そもそももう時間がない。
アシッドスラッグは論外だ。
こんなの一択じゃないか。
サングイン・スラッグを選ぶと、体の中心あたりがミチミチと波打つような感触がした。
波紋が広がってどんどん体積が大きくなる。
ベビーからブラッドへ進化した時と同じ感じだ。
手の平ほどだった体は中型犬のサイズになって、瀕死のゴブリン君にのしかかった。
ナメクジはすぐさまグルリと身を回して、ゴブリンから降りた。
『出血属性付与』が危ない。
触覚を伸ばして、そっと緑色の腕に触れる。
一秒、二秒、三秒。
どうやら血は出ていない。
任意で発動できるスキルらしい。
あるいは、もう出る血が残っていないのだろうか。
とりあえずやれることはやる。
伸ばした触覚に意識を向けて、『体組織変化(肉)』を発動してみる。
てらてらと紅い角の中に、細かな気泡が湧く。
スパークリングワインみたいだな――とボケっと思った瞬間、伸ばした触覚はそのまま真っ白な肉塊に変わった。
うわあああ!
半狂乱で肉の触覚を振り回すと、遠心力で根本からちぎれて、向こうの方に飛んでいった。
転がった先の地面で、瑞々しいお肉がうにうに動いている。
悪夢よ、早く醒めてくれ。
ちぎれた分、少し小さくなったルビー色のナメクジが、恐怖でプルプルと震えていた。
※
ちぎれ飛んだ自分の身から出たお肉に、蝙蝠たちが群がって齧り付いている。
悪夢は醒めないから悪夢なのだ。
今、ナメクジはゴブリンの傍らに擦り寄り、肉触覚を傷口に当てている。
テレビで培養肉やら万能細胞のニュースを見たことがある。
これがこいつの血肉になるかもしれない。
倫理的には知らないが、死ぬよりはいいんじゃないのか。
ナメクジなりにやれることをやってやろう。
伸ばした触覚をパックリ開いた傷口に差し込んでいく。
思ったより深い。
内臓らしきものに触れている感覚にゾッとした。
ナメクジが少しずつ肉触覚を形成すると、傷口を塞ぐように癒着し始めた。
肉触覚とゴブリンの境目の色が、じんわり緑色に変わっていく。
どうやら、うまくいっている気がする。
ポンプで水を送るように、ドクドクと傷口に肉化した体を送り込んでいく。
並行してたっぷりもらった血液も『輸血』でお返しする。
もうこれが自分の精一杯だ。
あとは神のみぞ知るってか。
ナメクジは触覚から伸ばした口で、ヤケクソに叫んだ。
「化け物の神様、見てるー!?
ゴブリンの命を助けるために、わたくしナメクジが頑張ってます!」
ひたすら治療の真似事を続けていると、うっすら鼓動が戻ってくるのを感じた。
呼吸も安定している。
持ち直したかもしれない。
歓喜に震えたナメクジは眼球付きの触覚を伸ばした。
元の目はよく見えないのだ。
血の気が戻ったゴブリンの、カエルのような目蓋がゆっくりと開く。
瞳はぼんやりと掠れているが、生気はある。
「おい、しっかりしろ!」
元の口に声帯はない。
伸ばした口触覚で必死に呼びかけた。
ふと、ゴブリンの目の焦点が合った。
はっきりこちらを見ている。
自分はやった、助けることができたんだ。
ゴブリン君は乾き切った口元を開いて呻いた。
「――悪夢だ」
ナメクジは怒りのままに触覚を振り回し、緑色の頬をパンパンした。
夢なら起こしてやるよコノヤロウ!
気がつけば洞窟にスポットライトのような朝日が差し込んでいる。
プニプニの触覚ビンタは、事の経緯を知ったゴブリンが頭を下げるまで続いた。
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