故郷へ
短編作品です。
その男は置き手紙もせずに、妻子を置いて家を出た。その男は特にこれと言った長所(コーヒーを淹れるのが、彼の所属する営業課で最も上手いことを除いて)もなく、短所もなく、ポマードを塗りたくった、光沢のある七三分けの髪型をビル風に揺らしているのが常の平凡な男であった。彼は自身の暮らしに不平不満を持ったこともなく、毎月会社の給料の内1割ほどを銀行に預け、残ったほとんどを家族のために使い、あとの僅かばかりのお金が彼の小遣いであった。彼はそのお金も使い果たすことはなく、タンスの奥にドバイの大金持ちがフェラーリをご自慢の車庫に入れるが如く、大切に保管していた。
そうした暮らしを何十年も続けていた男が、ある日家を出たっきり、連絡もつかなくなった。妻は大変に心配した。何せ、男がまるで息を吹き掛けられたタバコの灰のようにどこかへと消えてしまったのだから。男の子どもももちろん心配した。会社の同僚や部下も皆心配した。警察にも行方不明届けが出された。しかし、男は見つからなかった。
男は川を泳いでいた。何処の川かは知らぬ。しかし川をひたすらに泳いでいた。男は元々泳ぎが上手かったわけではない。むしろ下手くそであった。男の叔父は戦時中に海軍へ所属していたが、彼も泳ぎが下手くそだったために、彼の乗っていた艦が米軍の潜水艦に沈められたときは危うく死にかけた。
男は何故か、その時はまるで鮭が川を上るような力強さで前へ前へ進んでいた。気付いたときには海へ出ていた。「何処の海だろう?」男は思った。もうずいぶん遠くまで来たはずだ。それなのに、彼は家へ帰る気は起こらなかった。彼には行くべき場所があるように思われた。彼は再び泳いだ。
泳いでいたら大きな陸地が見えてきた。その陸地はずっと左右にも続いていて、終わりがないように思えた。おそらく日本ではないだろう。男は直感的にそう分かった。彼は家を出てから数ヶ月は経っていた。その間、コードに繋がれたスーパーコンピュータが何も疲れを漏らすこともなく、ただただ演算をするように、彼も泳いでいる間は疲れを感じなかった。
彼は陸地まで泳いで、上陸した。真冬の空気に長時間晒された唇のように乾燥した地面だった。日本では見たこともない木が立っていた。ライオンやシマウマもいた。そうだ、ここはアフリカなのだ。男はようやく自分のいる場所が分かった。
男がアフリカに着いたとき、彼の妻子がいる家のテレビではニュースがが流れていた。「サケの川上りシーズンです。サケは自分の産まれた場所をはっきりと覚えており、そこを目指して長い距離を泳ぎ続けます......。」




