海と夢の恋人
夏が好きだ。一人ではないから。
今日も、波打ち際を誰かが歩いていて、岩場にも人がいる。陽射しが強くて、海は煌めいて眩しい。
空気が焼けるほど暑い。しかし私は、海の生物だからか、汗をかかない。
誰かが呼んでいるような気がして、ふと視線をあげる。
可愛らしくも凛々しい、素敵な男の人が砂浜にいた。
白いシャツを着ていて、対比でさらに濃く見える日に焼けた肌が印象的。
小さな男の子たちに囲まれて楽しそう。とても無邪気な笑顔に惹かれる。
(……気づいて欲しい)
私は手を振ってみた。届くか分からないけれど。
彼は男の子たちに視線を向けてばかりで、こちらを見てくれなかった。
「ねぇ!」
波の音だけが、静かに返ってくる。一人で遊ぶことには、もう飽きたというのに。
意を決して、彼のそばに行こうとしたけれど、足が重たくて動けない。
海の中では素早く泳げるのに、陸では役に立たない尾が憎たらしい。砂浜に上がることも難しい。
たくさん手を振って、何度も呼んだら、嬉しいことに彼と目が合った。
さらには、近寄ってくる。胸が高鳴りドキドキが止まらない。
「辰兄ちゃん!」
男の子の小さな声が届いた瞬間、彼はバランスを崩して海に落ちた。水しぶきがあがる。彼の姿が一瞬見えなくなった。
私は慌てて海の中へ潜り、彼に手を伸ばした。
(人魚姫……)
これはまるで『人魚姫』のワンシーンのよう。
彼はどう見ても『王子様』ではないし、私も『姫』ではないけれど。
御伽話とは異なり、彼は意識不明ではなく、目を開いている。また目が合って、ドキリと胸が跳ねた。
驚いたようで、怖がらせてしまったようだ。彼が慌てた様子で海面へ向かっていく。
激しい海流で流されないように掴んだ彼の足首から、私の手が離れた。
(……また会いたいな)
彼の泳ぎで生まれた白い泡で視界が悪くなっていく。だから彼が無事に海上に出たのか、見届けることはできなかった。
様子を見ながら浮上すると、彼はもう海の中にはいなくて、岩場の上にいた。男の子たちと何やら笑い合っている。
「ねぇ!」
声が小さいのか、波の音がうるさいのか、反応はない。
私の手には、海の中では感じることが出来ない温かさだけが残った。
——仄暗い海底で、私は光を待っている。
◆◆◆◆◆◆◆
海と夢の恋人
◆◆◆◆◆◆◆
真夏の日差しが、波に反射して眩しい。砂浜がキュッキュッと音を立てる。
「こんなところ、あったんだな」
俺は甥っ子たちと歩いた。小学五年と三年の二人は、今にも走り出しそうな様子で海を見つめている。
「辰兄ちゃん、もう入っていい?」
「準備運動をしてから。あと、大人が追いついてからな」
「え〜!」
「辰兄ちゃんも大人じゃん!」
「十七歳は未成年ですー」
ぶーぶー文句を言いながらも、足首を回しはじめる甥っ子たちを見て、俺は笑った。
やがて両親と兄夫婦が追いつき、浜辺でバーベキューの準備が始まった。祖父の姿はない。今年は、「男孫三人なんて疲れるから」とゴルフへ逃げた。
泳いで、食べて、また泳ぐ。バタフライを披露したら、甥っ子たちの尊敬の的。女子が見ていないのが残念だ。今の俺は、けっこう格好いいのに。
例えば、黒髪ロングに白いシュシュをつけた、日焼けをしている可愛い彼女。
小麦色の彼女もいいけど、透き通るように白くて可憐な女子でも大歓迎だ。
さあ、俺の手は空いているぞ!
「何、ぼんやりしてるの? 辰兄ちゃん!」
「カニを探しに行きたい!」
現実は無常で、俺の手を取ったのは男子たち。妄想が泡と消える。カニ、カニ、うるさいな。
夕暮れが迫る頃、甥っ子たちと岩場へ向かった。
『辰郎、盆時期の海や川に一人で近づくなよ。人が多くても、日が落ちる前に戻って来い』
ふと、祖父が昔してくれた話が蘇る。
墓で転んだら、腕を追いていかないとならない。だからはしゃぐな。
夜に口笛を吹くな。大きな蛇がきて食われる。米粒を残すな。目が潰れるから。
無駄な殺生はせず、可能な範囲で他人に親切にしろ。あらゆる行いは自らに返ってくる。
祖父は孫にそんなことを言う、古い時代の人間だ。なにせひ孫がいるくらい年をとっている。
酒が入ると説教じみて鬱陶しい時もあるけど、お茶目だし、俺はかなり好き。
カニを探すはずが、甥たちはいつのまにかフナムシに夢中になっている。
「これ、気持ち悪っ!」
「気持ち悪いけどおもしろー!」
諸君、カニはどうした。フナムシに、俺の方へ行けなんて言うな!
不意に誰かに呼ばれた気がした。夕焼けの向こう、海の上に黒い影が浮かんでいる。輪郭はぼやけているが女子だ。
ぷかぷか浮いて見える。逆光なので見えづらく、目を細めて観察した。やはり髪の長い女子だ。
浮いているというより、片手を上げて必死に助けを呼んでいるような……。
溺れてるのか!
思わず岩場から海へ飛び込んだ。
「辰兄ちゃん!」
背中に甥の叫びがぶつかる。
飛び込んだ夕方の海の中は、昼間とは違い冷たくてならない。まるでサウナ後の水風呂の中だ。
あまりの寒さに動揺して、海水が鼻に入り、痛みが走る。
視界が悪いが、あの女子らしき影を見つけ、手を伸ばしたまさにその時——
ゴフッ! ゴボボボ……
右足首に痛みが走って海水を軽く飲んでしまった。苦しくてならない。何かに掴まれている。グンッと体が引っ張られた。
俺が暴れたからか、それとも波が荒いのか、一面、白い泡だらけ。まるで雪景色のよう。
その純白の世界で、長い髪がきらめきながら揺れている。魚の尾らしきものが視界を横切る。
(人魚……?)
息が続かない。俺も溺れてしまう。人命救助をするはずが……には、なりたくない。無我夢中で、必死で手足を動かして、海面を目指した。
ぷはっ!と息をすると咳き込んだ。
あの女子はどうなった⁈
慌てて周囲を見渡したが、誰もいない。水面は水中と異なり、とても穏やかだ。
右足が異様に冷えてジンジン痛む。ふと見たら、海の中で何かゆらめいた。
まだ白い泡だらけの海の中に何かがいる。
魚の尾のように見えたものは海藻で、それが巻きついた影のようなものに、鈍くて赤い光が二つ。
もしやと思った時には、叫びながら岩場に向かって泳ぎ出していた。
岩場に手をかけ、必死に登った。海から岩場までは大した高さはないのに、力が上手く入らなくて、なかなかあがれず。
俺の名前を叫ぶ甥たちが手を引いてくれた。
「はあ……はあ……」
「ねぇ、この足……どうしたの?」
「うわっ! おばけだ! 絶対おばけだって!」
見ると、左足首には青い痣が浮いていた。指の形をした人の手の痣に、血の気が引いていく。
痣はすっと肌の中へ消えた。まるで、何事もなかったというように。
俺の右足は冷たいままで、ジンジン痛み続けた。
◆
その後、祖父の家へ帰る車の中で、甥っ子たちが大人たちに青痣の話をした。
俺も何があったか話そうとしたけど、喋ろうとすると、喉を何かで塞がれたように声が出なくなる。
他の話題の時は喋れるのに、「幽霊に連れていかれるところだった」みたいな話が全くできない。おまけに——
「違うよ。女の子が溺れているように見えて海に入って、海藻が足に絡まって大変だったんだ」
そんな、事実ではないことが口から飛び出した。
祖父の家に着くと、甥っ子たちは庭にいた祖父に「おばけがでた!」とまくしたてた。
「辰兄ちゃんは海藻だって言うけど、あの痣は人の手みたいだった!」
「骸骨みたいな黒いものがいたんだよ! じいちゃん! 辰兄ちゃんが呪われた!」
祖父は神妙な顔で話を聞き、俺に「何があった」と問いかけた。
「女の子が溺れているように見えて海に入って、海藻が足に絡まって大変だった」
違うのに、またこの台詞。思わず「助けて!」と叫んだが、それはつもりで、声は出なかった。
「太一、信二、そうらしい。人助けはいいことだけど勘違いのこともある。溺れ死んだら大変だ。海や川では過信しないように」
「かしんって何?」
「家来のことだ。だれだれの家臣ってドラマで聞いたことがある」
「へぇ。でも、海や川は家来にできないよな?」
「確かに」
「二人とももっと勉強しなさい。漢字が違う。あとで漢字を、遥真君に教わりなさい」
「今、知りたい。教えて! じいちゃんが教えてくれたら、お父さんに聞く必要はなくなるからさぁ、教えてー」
「俺はあとでいいや。アイス食べたい」
祖父は太一と信二の頭を撫でると、「風呂に入ってこい」と背中を押した。
「えー。暑いのやだ」
「まだ入りたくない!」
「泡風呂にしていいぞ。美里ちゃんに渡してある。アイスも、美里ちゃんがいいって言ったら、風呂の後なら食べていいぞ」
甥っ子たちは、「アイス!」と歓声を上げて美里——彼らの母親のところへ去った。
「呪われた、ねぇ……。辰郎、じい様に昔、聞いたことがあるから来なさい。そこに座ってろ」
そこと示されたのは、古いビール瓶ケースだった。庭でバーベキューをしたり、花火をする時によく座る。
頷いて座り、右足が冷えるとさすっていたら、祖父が戻ってきた。
祖父は一升瓶を手にしていて、何かと思ったら頭の上から酒をかけられた。
「ゲホゲホッ! うえっ! 臭っ!」
いきなりなんだと思ったけど、ふっと体が軽くなった。軽くなって初めて、重かったと気づく。
さらに、右足の冷たさが嘘のように消えた。
「ああ、お酒って魔除け? じいちゃん! 俺、幽霊に殺されるところだった!」
枷をつけられたように話せなかったのに、何があったか喋れるようになった。堰を切ったようように話す。
「一応、してみるもんだな」
「じいちゃんのじいちゃんに教わったの?」
「ああ。幽霊に触られたら、酒をかけておけって言われたことがある。太一と信二と風呂に入ってこい」
「ありがとう、じいちゃん」
家に上がったら親に「酒臭い」と顔をしかめられた。ここでも、幽霊と遭遇したかもしれない話をできた。ついさっきまで、制限されているように喋れなかったというのに。
風呂は別々と思っていたのに、一緒に入ることになったので、泡風呂で大はしゃぎの太一と信二の相手は疲れた。
◆
その晩、やけにリアリティのある夢を見た。
透き通った水の中で、俺好みの顔をした女子と手を握って泳ぐ夢。
足はなくて尾だから、俺は人魚になったようだ。彼女も同じで、エメラルドグリーンの尾はとても綺麗だ。
彼女は嬉しそうに笑っている。鼻歌まじりでとんでもなく可愛い。
海で見たあの子は化物のような見た目だったけど、この子と同一生物な気がする。
この夢から逃げないと、俺は取り憑かれ、殺されるだろう。そんな確信があるのに、彼女から手を離したくない。
「ねえ、一緒にいたい。ずっと一人で寂しいの。こっちへ来て」
こっちとしか言われなかったのに、俺には『こっち』が違う世界のことだと分かった。
「そっちには行けないよ」
「どうして? 私のこと、好きでしょう?」
「だって俺は——」
「痛い!」と目を覚ましたら、太一の足が腹の上に乗っていた。
そこに、信二の腕も強襲。避ける前に頭にぶつかった。甥っ子たちと川の字で寝るといつもこうなる。
「……俺は生きている。生きているから……死者の世界には行けない……」
満杯のコップから水が溢れるように、スルッと言葉が出てきた。
(海で死んだら、人魚になるのか……?)
ずっと一人で寂しい。その台詞は俺の胸を焦がし、震わせた。
◆
それから俺は、たびたび、似たような夢を見た。
可愛い人魚と美しい水中をデートする夢は楽しく、「帰る」と言った時の、彼女の悲しげな表情には胸が痛む。
「また会えるよね?」
「うん、また」
俺たちは、何度も何度も美しい海中をデートをして、喋り、笑い合い、最後に「また今度」と約束して別れる。
週に何度かそんな夢を見る生活が続き、二年が経った。
◆
祖父が家を売り、一人暮らしをやめて、俺たちのすぐ近くの施設に入る。だから最後に、家族で沢山通ったあの海へ行くことになった。
祖父はあんなに元気だったのに、骨折後から足が弱ってしまった。そんな祖父を支えながら砂浜へ向かう。
家族恒例のバーベキューをしていたら、海の上で、不自然にバシャバシャと跳ねる水が見えた。
若い女性が片手に浮き輪を手にして何かを叫びながら、海へ向かって走っていく。
誰かが溺れている?
子供?
そう思ったら、俺も走り出していた。
同年代に見える女子が、浮き輪を掴む子供を連れて海から上がろうとした。
浮き輪の紐を引っ張りながら、浮き輪の中にいる男の子に、「勝手に海に入らないの!」と怒っている。
二人は大きな波に飲まれた。すぐ目の前にいた俺も。
あの日のことが鮮やかに蘇る。視界を遮る白くて細かい、雪のような泡。そこにチラつく黒い影。
そして、何かが右足首を掴んだ感覚。一気にその部分の体温が奪われていく。
——また会えたね
夢の中と同じ声。俺の胸をくすぐる甘い、甘い……。
——今日は泳げないの?
意識が遠ざかる中、「そうだ」と心の中で返事をした。もう息が続かない。
——具合が悪いなら今日はやめよう。また会おうね。
ふと、唇に柔らかな感触がした。霞む視界の向こうに、優しげに微笑む彼女が見えた。
夢の中と違って、上半身は骸骨で、目のところには血のように赤い小さな点、下半身はヘドロのような塊。それでも俺は「あの子だ」と、彼女に手を伸ばした。
白以外が見えなくなった世界で、グンッと手を引っ張られ、あっと思ったら咳き込んでいた。波打ち際で四つん這い。
「ゲホゲホッ! ゲホッ!」
咳がおさまってきて視界がハッキリすると、俺の真下に可愛い女子がいると分かった。
横を向いて、口元を両手で隠しながら、咳を沢山している。
「……けて、助けてく……げほっ……れて、ありがとう……」
次々と人が集まる中、俺の下にいる、髪の短い彼女は小声で、咳き込みながらそう言った。
助けてくれて——
そうだろうか。
そう、静かに呟く。
あの時、俺は消えそうになる意識の中で確かに見た。
いつも夢で海中デートをしているあの子が、俺たちを海の上へ連れて行ってくれる姿を。
この日、俺は酒を自分にかける気分にならなくて、何もしなかった。
あれから、左手の指先が氷に触れたみたいにじわりと痛む。
その冷えと痛みは年々、心臓へと近づいていった。
◆
海で死なないと人魚になれない。教わっていないけど、調べてもそんな話はないけれど、確信がある。
生きている間は夢の中で会えるけど、陸で死んでしまったら二度と会えない。
ついに、凍てつく何かが心臓に触れたと感じた時、俺は海に沈むことにした。
あの海のある駅へ向かい、バスに乗って海へ行き、真冬の海岸に立った。
不思議と、恐怖はない。あの子と会える、何度もデートをしているのに、名前をまだ知らないから聞かないと。
コートを脱いで、そっと海へ近づき、波に押し返されながらも、一生懸命前に進んだ。
早く会いたい。会いたい、会いたい、会いた——
——会いたかった
——俺も
——今日は泳げないの?
ハッと気づいたら、また波打ち際にいた。むせながら立ち上がり、もう一度海へ向かう。
「何をしているんだ!」
誰かに止められて、俺は「人魚になるんだ」と何度か叫んだ。何かに引っ張られるように意識が暗闇に沈む。
ぼんやりとした意識になり、ここは警察署だと理解した。迎えにきた親に泣かれ、家に連れ戻されて夢を見た。いつもの美しい世界に彼女と一緒にいる夢を。
「今日は泳げるのね」
「うん。ごめん。せっかく会いに行ったのに」
「ううん」
彼女は「会えて嬉しい」と、頬を桃色に染めた。まるで陽に透けた花のように眩しくて綺麗だ。
近寄ってきて、そっと俺に寄り添った彼女から、ひだまりのような温かさを感じる。
「……最近、音が小さいから心配」
「多分、もうすぐ死ぬんだ。だから海で死んで、君と同じ人魚になる」
「もうすぐ? こんなに若いのに? 私はもっと、沢山生きたかった」
「君はどうして亡くなったの?」
「海の中で突然、胸が痛くなって。あれからずっと一人だったけど、最近はずっと寂しくない。だから——」
唇を氷につけたような感覚がして、全身が震え、吐き気で目を覚まし、嘔吐した。
俺はげぇげぇ吐き続け、異変に気づいた父が部屋に飛び込んできて、電気をつけた。
チカチカする視界の向こう、床の上に血と白い物体が散乱している。
——デートはしばらくおあずけ
しばらく?
それはいつまで……。
せめて名前を……。
名前は聞けたけど、とにかく気持ち悪くて夢を見るどころではない。
父曰く、俺は血と骨を吐き続け、最後は苔のようなものを吐き、気絶したそうだ。
そして、吐いたものは全て消滅。
救急隊が来た時にはただの吐瀉物になっていたらしい。
夜間に病院へ搬送された俺につけられた診断は「心筋梗塞」だった。
◆
その日から、俺はあの子とデートする夢を見なくなった。
願っても、祈っても、あの夢を見ることはできず。海へ行こうとすると電車は止まり、タクシーはパンクする。
自転車もパンクしたし、竜巻注意報も出るし、目の前で人が倒れることも。
そして、もう死ぬから海へ行かないとという衝動もどんどん小さくなっていった。
あの子と同じ名前の彼女ができた。しつこくてうんざりしたし、同じ名前だからあの子の代わりだ。
不誠実は嫌だから、説明したけどそれでもいいと言うので付き合い、周りから固められて結婚。
いつまで経っても夢を見られないのに、結婚したのに、子供も生まれたのに、俺の気持ちは変わらない。
左手の冷たさと痺れと、何度も重ねた逢瀬の甘ったるさと幸福が、俺と彼女を繋ぎ続けている。
◆
さらに数十年後——
私の祖父は変わり者だった。
夢の中に恋人がいる、昔、助けてくれたとよく言っていたからだ。
祖父が祖母と結婚した理由は、熱烈で諦めの悪い祖母に祖父が根負けしたかららしい。
祖母はかつて、祖父に命を救われて一目惚れして、まとわりついて、押しまくって結婚したそうだ。
だからなのか、祖母はよく、自分は代わりとか、この恋は叶わないと言っていた。
その祖母よりも先に祖父が亡くなり、生前、祖父はどうしてもと言って準備もしていたので、私たち家族は今日、海で散骨を行う。
祖父は余命宣告をされる前から海洋散骨について調べていた。
これまでは祖母と夫婦だったので、死んだ後は夢の中の恋人と夫婦になる。だから海に散骨して欲しい。妻は同じ埋葬方法をしないでもらいたい。祖父は私たち家族にそう言った。
母親思いの父は「妄想なのに」と納得せず、祖父と何度か喧嘩をしたけど、しばらくしたら仲直りしていた。
『悪霊ではなさそうだし、無理矢理結婚に持ち込んだのは母さんだから、仕方ないのかなぁ……』
父はお酒を飲みながら、私や兄にそうポツリと話したことがある。
祖父の夢の中の恋人は、ある日海で出会って、夢で交流するようになり、溺れそうな祖父母を助けてくれた。
私は、祖父からその話を何度も聞いている。その時に祖父が見せるのは、とても幸せそうな眼差しで、そのたびに祖母が可哀想になった。
でも、あの屈託のない笑顔は、きっと一生忘れられない。
「さようなら、おじいちゃん」
「さようなら、辰君……。はぁ……最後まで、振り向いてくれなかった……」
私の隣で、祖母が微笑みながら涙を流した。日に照らされて、きらきらと光る。
粉々の骨になった祖父は、空に霧散して海へ消えていった。
◆
——待たせてごめん。ここ、こんなに暗かったんだ
——そうなの。でもあなたが来るとね、うんと明るくて嬉しかった
——もう同じ世界の住人だから……なのに暗いな。行こう、もっと明るいところへ
——私はあまり遠くへ行けないの
——俺が連れて行くよ
——まるで光の中を泳いでるみたい……嬉しい、嬉しい!
——待たせた分、沢山楽しませるよ。行こう、どこまでも
その時、海藻のようなものに絡め取られていた白骨が、ほろほろと崩れ始めた。
——俺さ、現世で根負けして結婚しちゃったんだ。今日からは君だけだから、許してくれる?
——許してなかったら、もっと早く会えていたわよ
——なんで許してくれたの?
——だってあの子、半分くらい、私だったもの。あなたといいことをする時の意識は全部、完全にわ、た、し
——えっ?
——今死ぬのと、体を半分貸すのと、どっちが良いって聞いたら、生きたいって言うから
取り憑いたの、てへっと彼女は悪戯っぽく笑った。
彼女を縛りつけていたものはもう何もない。
短命だった嘆きも、恋をすることすらできなかったことも、キスしてみたかったことも、結婚も、子供も、未練はもうなにもかも消えている。
数多の死霊の手が彼女を捉えて再び仲間にしようとしても、無駄な足掻きだった。
ようやく足を手に入れた彼女は、大好きな彼と階段を登り続け、明るい花畑に感嘆の声を上げ、彼の手を強く強く握りしめた。