79 これからの日々を
そして、陽葵は無事に退院の日を迎える。
本人の話ではまだわずかながらに痺れが残っているみたいだけど、日常生活にはほとんど支障はないようだ。
病気が悪化する事もなく順調に寛解した姿を見るに、もう陽葵が命を散らす事はないだろう。
ようやく、あの恐怖から解放されたのだと心から安堵していた。
陽葵が退院してくるのを、私は外で待っていた。
玄関前からガラスの向こう側を覗くと、たくさんの人に見送られ、陽葵はお辞儀をしながらこちらに向かってくる。
やはりどこにいても陽葵は陽葵らしく、大勢の人に愛されるらしい。
愛嬌あるもんなぁ……。
もし私が逆の立場なら静かに退院して行くのだろう……それでいいんだけど、目の前の光景が賑やかで何となく後ろめたい気持ちになるのは何でだろう。
持ちえない物が輝かしく見えてしまうのは人間の性だろう、きっと。
そうして挨拶回りを終えて、陽葵が病院の玄関扉を抜けた。
「……雪っ!」
勢いよく陽葵が飛び出して、こちらに駆けてくる。
本当にすっかり良くなったんだな、と思う反面、いくら何でもボストンバッグを背負ったまま走って来るのは心配になる。
「陽葵……ああっ!?」
「えいっ!」
私の心配をよそに、陽葵は勢いを弱めるどころかむしろ拍車をかけて飛び込んできた。
胸いっぱいに広がるシトラスの香りと共に。
何とか堪えて、反射的に陽葵を受け止める。
「ほう、あたしを受け止めるとは雪もいつの間にか頼もしくなったね」
「馬鹿力ってやつだよ……退院明けにいきなり怪我させるとか笑えないから」
それに、陽葵は少しだけ軽くなっていた。
もう過度な心配はしていないけれど、彼女がここで戦ってきた日々を感じるには十分な変化だった。
「そこはもっとオシャレな返事して欲しいよねぇ。ほら、“君の事ならいつでも受け止められるよ”的な」
「不意打ちじゃなきゃね……私は準備しないと受け止められないから」
「なら、今後に期待かな」
なんだそれ。
嬉しいような発言ではあるが、求められているものが難しい。
私にウェイトトレーニングをしとろでも言うのか。
絶対無理だ。
「あ、安心して? あたしはいつでも雪の事を受け止められるから」
「……いや、別に私はいきなり飛び込んだりしないから」
ていうか、こんな二人で抱き合って一体何の話をしているのだろう。
付き合うとはこういう事を言うのだろうか。
何か違う気もするけど、大きく間違っている気もしない。
恋愛って難しい。
「うーん、そっかあ。まだあたしじゃ頼りないか、雪に支えてもらってばっかりだったから仕方ない」
そう言って陽葵は表情に影を落とす。
だけど、そんな負い目を感じて欲しいわけではなかった。
「私は何も出来なかったよ、結局は陽葵が頑張った結果なんだから」
支えたい、そう思っていても私が出来る事なんて限られていた。
陽葵が努力してそれが実って、今がある。
「さすがにそれは謙遜しすぎ。雪はずっと来てくれたし、愛想尽かさないでいてくれた。誰よりも早くあたしの異変に気付いてくれたのも雪だし、雪がいなかったら手遅れになってたかもしれないんだよ、恩しかないよ」
「……それは」
それは、私の中にずっと残るであろう後悔だった。
「もうすんごい形相で雪が病院行こうって言ってきた時は、“さすがに気絶だけで病院は大袈裟じゃねー?”って思って甘く見てたけど、まさかだったもんね。ほんと、未来でも見えてたのかなって感じ」
その“未来”という言葉が引き金になる。
最後に告白してもいいだろうか。
もう全て終わったのだから。
「もしさ、知ってたとしたらさ、どうする?」
「はい?」
きょとんと首を傾げる陽葵。
まぁ、そうだよね、そうなる。
いいんだ、これは私の自己満足で、話した所で何も解決する事はない。
「陽葵が消えてしまう世界、その時間を巻き戻した私がここにいるとしたら」
「……ほー?」
「その世界の私は陽葵と絶交したまま一人ぼっちで、気付いた時には陽葵がいなくなってたの。そんな私が後悔して過去を遡って来た……っていう話」
「不思議な話だけど、でも仮にそうだとしても結局、あたしは雪に感謝しかないんじゃない?」
陽葵は空想として考えているから、結局は私が助けてくれたと思ってくれるんだろうけど。
そうじゃない、彼女は大事な事を見逃している。
「……そんな都合のいい話じゃないと思うんだ」
「雪?」
だって、そうでしょ。
忘れたらいけない、私の最大の過ちがそこにあったんだ。
「だって、初めから私がそばにいたら、変な意地張って陽葵と絶交なんてしなければ、その時に陽葵を支えてあげる事は出来たはずなんだよ。陽葵は最後に私に会いたいって言ってくれてたのに、何も知らずに終わっちゃった……私は最低な人間なんだよ」
あの世界線がどうなっているのかは全然分からない。
分からないけど、かつての私が陽葵を見殺しにしてしまった事実は変わらない。
それは私の中で消える事のない罪だった。
「うーん、それでもあたしは雪に感謝すると思うけどなぁ?」
「……なんで?」
空想の話だと思われていたとしても、どうして感謝に行き着くのだろう。
私から始まったこの歪はどうあっても肯定されるものではないはずだ。
「だって、その後悔があるから雪はあたしの所に来てくれたんでしょ? それって超好きじゃん、もう絶対離れられないね」
「……いや、今の陽葵からするとそうかもしれないけど、苦しんだ陽葵の事を考えてないでしょ」
そう、かつての陽葵はきっと苦しんだ。
苦しんだまま報われる事もなかったはずだ。
「それでも、答えは同じだよ」
なのにどうして言い切るのだろう。
陽葵がここで過ごしてきた苦悩の日々を、私は忘れられない。
だから、それ以上の苦悩を強いた私を、私が許せない。
「その時のあたしがそれだけ頑張ったから、こうして雪が来てくれたんでしょ? だから無駄じゃないよ」
「……」
「だから、そのあたし自身に言ってあげたいね。“頑張ってくれてありがとう、おかげで雪が助けに来てくれたよ”って」
そう、なんだろうか。
過去の苦しみがあって、それを乗り越えて今がある……なんて、そんな都合の良すぎる物語があっていいのだろうか。
「あたしと雪との話なんだから、あたしがいいって言えばいいんだよ」
「そんな……」
「頑張ったね雪、ありがとう」
そう言って、頭を撫でられる。
あたたかい手がするすると髪を滑っていく。
「もういいんだよ」
私の罪は赦されてしまっていいのだろうか。
その答えが出る事はなく、断罪される事もない。
ただ一つ確かなのは、こうして目の前には陽葵がいる。
「雪が言ってくれたんじゃん、これで新しいあたし達だねって。だから過去もいいけど、未来を見ようよ。時間は待ってくれないんだからもったいないって」
それは陽葵らしいポジティブさで、止まりそうになる私をお構いなしで引っ張っていく。
「……うん」
だけど、それが心地よい。
これからの私達の物語がようやく始まった気がした。




