76 私
何度も来たはずの病院も、今日はいつもより足取りが重い。
もう来なくていいと言われた陽葵の元へ自分から行くのには、それだけの勇気が必要だった。
それでも彼女に会いに行く。
「……すぅー」
と息巻いてはみたけど、体は正直なんだと思う。
病室の扉の前に立つと、自然と深呼吸を始めていた。
心臓がバクバクと鼓動を打ち始め、自分がいつもの状態ではない事を体が示してくる。
出来る限り気持ちを静めて、私は扉をノックする。
――コンコン
「はい」
陽葵の余所行きの声が返ってくる。
私が来るとは思っていないのだろう。
ここで私を見た陽葵はどんな表情をするだろう、憎々しく顔を歪めるのだろうか。
それは嫌だな……なんて止まらない負の妄想に見切りをつけて、私は扉を開ける。
「お、おはよ……陽葵」
「雪」
私の声は先細りして、弱々しくその名を呼んだ。
来るとは想像もしていなかったのだろう、陽葵は目を丸くしていた。
「……昨日の話、ちゃんとしたよね?」
低い声のトーンから分かるのは意識的に感情を抑えなければならない程、陽葵の心にも波が起きている事。
「聞いてたし、分かってるよ。それでも会いに来ただけ」
「もう来なくていいって言ったよね、迷惑」
また面と向かってそんな辛辣な言葉を吐かれると、胸が痛む。
痛むけれど、そんなの陽葵が負っている痛みに比べればかすり傷だ。
これ以上、我が身可愛さに自分を守ろうとするのは終わりにしよう。
「でもさ、逃げてたって何も変わらないよ」
かつての私がそうだったから。
逃げて、逃げて、逃げ続けた先には何もない。
どこか違う場所になら自分にとっての楽園があるのかもしれないと夢見ても、逃げた先にはちゃんと虚無が広がっている。
立ち止まる時はあってもいいけれど、俯いてしまった者には幸運は訪れない。
「……そんなの雪に言われたくない、あたしの気持ちなんて分かるわけないのに。偉そう事言わないでよっ」
分かっている。
陽葵の心の傷を理解する事なんて私には出来ない。
もし可能なのなら、私もその傷を理解してあげたいけれど。
でも出来ないからと言って、陽葵から逃げる理由にはならない。
「嫌だ、私は陽葵から離れたりしない」
「はぁ……? 何勝手な事言ってんの」
勝手かもしれない、それでも、まだ信じている。
今の私のままじゃ陽葵の力になれないのなら、私も変わり続けていくから。
「そんなの知らない」
だから、私も立ち止まらない。
「え、何……!?」
私はベッドの上に乗り込み、陽葵の上に跨った。
眼下にはベッドに横たわる陽葵の姿。
病衣が少しはだけて胸元を覗かせていた。
「降りてよ、意味分かんないんだけど……!」
その病衣に手を掛ける。
胸元を広げると白い素肌と、その奥にあるキャミソールがずれて深い谷間が露わになる。
「ふざけんな……いいからどけって……!」
声を荒げて退けようとする陽葵の左手を掴む。
悲しいけれど、今の陽葵なら私でも力づくで抑える事が出来た。
「昔さ、こうやって何も抵抗出来ない私に色々してきた事あったよね」
「はぁ……? いきなり何の話」
「分からないなら、思い出させてあげる」
私は陽葵の胸元に唇を寄せた。
息を吸うと、むせ返りそうなほど陽葵の香りに満たされる。
そのまま陽葵の肌に歯を立て、沈み込んでいく感覚に溺れる。
「痛っ……!?」
陽葵に睨まれる。
その瞳から反らす事もせず、私も見つめ続けていた。
「あの時の仕返し……アレはやっぱり、やりすぎだったと思うから」
陽葵を噛んでみてもあまり気持ちのいいものではない。
彼女が望んでいる事でもなければ、あの頃の気持ちが晴れるわけでもない。
それでも私は仕返しをした。
「あの時とは状況が違うし、こんな体のあたしにそんな事する? マジで最低じゃんっ」
分かっている、私は最低だ。
かつての私は陽葵を無視し、そして彼女の悲しい結末も知らずにのうのうと生きてきた。
そのくせ、勝手に後悔だけを募らせて感傷に浸っていた。
だから、陽葵に嫌われて当然の人間なんだ。
「そうだよね、最低だよね」
「うざ……何なのその上から偉そうに……こんな体じゃなきゃ今すぐ殴ってやるのに……」
陽葵の表情に憎悪が滲み、下唇を強く噛んでいる。
全ては私のせいだ、だから――。
「いいよ、殴りなよ」
「自分が何言ってんのか分かってんの? それが出来たらとっくにやってんだけどっ」
鋭い瞳に怖気づく。
でも、そんな感情の荒立ちでもいいから、私の事を遠ざけてもいいから。
「だからっ、悔しいんでしょ? 私相手にも何も出来ない自分が嫌なんでしょ? それなら、早く体を治しなよ、動けるようになってよっ。その時にはさ、私いくらでも殴られるから……! 私の事が嫌いならもう会わなくてもいいから……! だから諦める事だけはしないでよぉっ……!!」
分からない。
自分が正しい事をしている自信はない。
でも、隣に寄り添う事を許してくれないのなら、それなら別の場所を探すだけだ。
憎悪を向ける対象としての私なら、彼女が動き出すきっかけになれるかもしれない。
何でもいい、私の事なんてどうでもいいから。
ただ、どうか陽葵は自分自身を見捨てないで欲しい。
「……な、なにそれ……何でそこまですんの……?」
荒げた私の言葉に、陽葵は困惑しているようだった。
「私はどうなってもいいから、陽葵が動き出してくれるのならそれでいい」
「……そんなの友達でも何でもない」
私が陽葵の事を想うのはそんなにおかしい事なのだろうか。
私は“友達”という言葉でこの関係性を定義し続けて来たけど、そこにもっと早く疑問を持つべきだったんだ。
私が陽葵に抱く想いは、陽葵にしか感じないものだったから。
他人に興味を抱けない私には、この感情の差が何であるかを理解出来なかった。
でも、今なら分かる。
陽葵を想い続けながら、ずっと彼女の幸せを願っている。
この想いを友情と呼ばないのなら、そうなのだろう。
気付いた時には、もう形を変えてしまっていたのだから。
「私は陽葵の為なら嫌われてもいい、だって陽葵の事が好きだから」
曖昧だった感情を言葉で縁取り、矛盾はそのままに。
私はただ羽澄陽葵に恋をしていた。




