70 私は待ち望んでいたから
陽葵の手術が終わって、三日が経った。
病院から面会の許可が下りて、ようやく陽葵に会う事が出来る。
当然、私は学校に行くはずもなく、病院の受付開始時間に合わせて向かう。
ようやく、この長い不安から解放されたのだと白い廊下を歩きながら、心が跳ねる。
久しぶりに会う緊張と、負の運命から解放された事に高揚していた。
やっと私は彼女と対等に向き合える時が来たのだ。
「……ふぅ」
病室の前に着いて、一呼吸。
心臓が鼓動を早めていた。
けれど、それを収まる時間を待つ事すら惜しい。
息が整うよりも前に、私は部屋の扉をノックする。
――コンコン
「どうぞー」
扉の向こうから陽葵の声が返ってくる。
やっと聞けたその声を合図に、私は扉を開く。
「ひ、久しぶり……」
「そんな時間経ってないはずなのに、なぜか久々な感じするねー」
抜けるような青い空を背に、ベッドに座る陽葵がこちらを見ていた。
微笑みを浮かべるその姿を見て、胸の奥から込み上げてくるものがあった。
「元気? 手術は無事に終わったんだもんね? ご飯とか食べれてる? ちゃんと寝て――あがっ」
聞きたい事がたくさんあって意識が疎かになっていたのか、部屋に置いてある車椅子に脛をぶつけてしまう。
いきなり悶絶するほどの痛みに襲われていた。
「慌てなくていいから、質問も多いし、動きも早すぎだから。雪、落ち着いて」
「ご、ごめん……」
足を擦りながら、自分がいかに冷静さを失っているのかを感じる。
お見舞いに来ているのに逆に心配をかけてしまうなんて、私は何をしているんだ。
「ほら、そこの椅子に座りな」
「あ、うん……」
部屋の隅に置かれている丸椅子を陽葵が指差して、私は言う通りに椅子を寄せて座る。
「元気は元気だよ、ご飯はあんまり美味しくないし、睡眠は浅いけど」
「そ、そうだよね。でもちゃんと顔見てみないと分からなかったから」
実際に会って確かめないと、この目で見るまでは不安だった。
「入院しといて心配するなって方が無理なのは分かってるけど、雪は心配しすぎだぞ」
「ご、ごめん……」
「いや、謝んなくていいんだけど。気持ちは嬉しいからさ」
こうして見ると、陽葵はどこか全身的にほっそりとしたように思う。
環境の変化にストレスは感じているに決まっているのだから、こうして笑ってくれているだけでも良しとすべきなのだろう。
元の生活に戻ればすぐに回復していくはずなのだから。
「そう言えば、退院日は決まってるの?」
「んー、それがあたしも先生に聞いたいんだけどまだ未定でね。もうちょっと時間掛かるみたい」
「……そっか」
こればっかりは先生の指示に従うしかない。
手術が終わればすぐに元の生活に戻れると思っていたから、少し残念ではあったけど。
「あららぁ? あたしがいない大学生活にそろそろ限界が来てる感じかなー?」
すると、何を読み取ったのか陽葵が口元に手を当ててニヤニヤとした笑みを浮かべる。
このモードの陽葵には嫌な予感しかしない。
「限界ではないけど、陽葵がいるに越した事はないでしょ」
「そうかなー。日に日に雪の返事早くなってる気がするんだけど。講義中のはずなのにすぐ既読つくし」
「……それは」
分が悪い。
陽葵は基本的に病室で安静にしている時間がほとんどらしいから、大学にいる私より時間に余裕があるのは当たり前だ。
だから、その辺りの事を指摘されると私が彼女をひたすら待っている事が浮き彫りになってしまう。
「いいんだよ素直になって、あたしがいない大学生活が灰色なんだよね?」
「……自信過剰でしょ、さすがに」
「否定はしない所に本音が漏れてたり?」
「私の行動を読み解きすぎっ」
こちらはガードをしようと思っているのに、その挙動に合わせて陽葵がするすると嫌らしく痛い所を突いてくる。
私はもがき続けるか、降参するかの二択に迫られ、どちらにしても苦しすぎる。
「私の事はいいんだよ。とにかく陽葵の手術が無事に終わったんだから、それが一番で後の事はどうでもいいのっ」
だから、何かムキになって立ち上がってしまう。
でも、そうなんだ、私の事なんてどうでもいい。
陽葵を労う事が大事で、後の事はどうでもいい。
「……あ、ありがと」
そんな私の剣幕に驚いたのか、陽葵が目を丸くする。
「陽葵が健やかに過ごせるなら、私はそれでいい」
「あー……あはは、熱烈なラブコールだなぁ。モテる女はつらいぜ」
なんて、陽葵は顔を塞ぎながら茶化すのだ。
それも陽葵らしいけれど、この思いだけはちゃんと伝わって欲しいと思っていた。
だから私は陽葵の両手を取って、手を重ね合わせた。
「だから、待ってるからね陽葵。陽葵が元気になって帰って来るのを待ってるから」
そうして初めて、私は陽葵への贖罪を終えて、本当の意味で向き合える気がしていた。
この胸の中に溢れている感情も、いつか言葉になるのかもしれない。
そんな期待があったのだ。
「……うん、そうだね」
陽葵は小さく頷く。
顔を伏せたまま、かすかに揺れるように。
「……陽葵?」
違和感を感じた。
「頑張るよ、早く雪と大学に行きたいからね」
陽葵の言葉に嘘はないはずなのに、響きがどこか空虚だった。
顔を上げずに、俯き続ける陽葵。
重ねた両手は妙に冷たい、いつも陽葵の手は温かったはずなのに。
特に、右手だ。痺れていたと言っていた手がとにかく冷たい。
こんなに暑い季節なのに。
――ボトン
と、陽葵の右手がベッドのシーツに落ちた。
私が違和感に気を取られて、手の力が抜けてしまったからだ。
……いや、それはおかしい。
私が手を離しても、陽葵の左手はゆっくりとシーツに置かれた。
右手だけが落下していくように、虚脱していたのだ。
嫌な予感がした。
「あのね、雪」
そうだ、そもそも部屋に入って最初にぶつかった車椅子は何?
以前来た時には、なかったはずだ。
病院という空間によって気付かなかったけど、陽葵に車椅子は必要ないはずなのに。
「手術は確かに終わったんだけど……」
俯いたまま陽葵は言葉を吐き続ける。
「右の手と足がね、動かなく……なっちゃったんだよね」
色が変わった。
「……だからね、だから退院はもうちょっと先になるみたい。ごめんね、待たせちゃうね、雪」
ついさっきまで、抜けるような青空に解放感を感じていたのに。
今ではその広大な景色が、残酷に突き刺さる。
悠々と広がっていく世界に、陽葵だけが取り残されているようだった。




