64 私が贈るもの
迎えた7月1日、大学の講堂にて。
「よし、帰るかっ」
今日必要な単位分の講義を終えると、陽葵はは勢いよく立ち上がる。
お昼時に帰る事が出来るのは高校時代とは違う不思議な感覚に陥るけど、嬉しい事である事にも違いない。
「今日は動き早いんだね」
この前の、ずっと机に突っ伏してやる気がない時と比べると別人だった。
「あったり前でしょ、なんであたしの誕生日だってのにいつまでも学校にいる必要あんのよ。帰る帰る」
今度は私がゆっくり扱いで、置いて行かれる前に陽葵の隣に並ぶ。
「誕生日、他の人からの誘いとかなかったの?」
気になって、聞いてみる。
「大学に入ってからほとんど雪としか絡んでないのに誰に誘われんの。さすがに皆も空気読むでしょ」
呆れ顔でこっちを見てくるけど、私の心配は大学の人だけではない。
「ほら、高校時代の友達とか……」
「ああ、ないない。連絡は取り合ってるけど、皆もうそれぞれの新しい付き合いあるんだから、そんなもんでしょ」
そっか、そういうものか……。
でもきっと、本来の陽葵だったら北川さんとか、他にも新しい友達と祝ったりしてたんだろうな。
そこに全くの罪悪感がないかと言えば嘘になる。
「ごめん、私だけで」
陽葵は私に合わせてくれるから、私とだけ一緒にいてくれるわけで。
本来の彼女はもっと多くの人達と関わっていたはずなのだ。
交友関係を私にだけ狭めて、選択肢を奪ってしまっている自覚はあった。
「いや、誕生日を祝ってくれる人に謝ってもらうのは意味分かんないから」
「……いや、まぁ、そうかもしれないけどさ」
そんな事を陽葵が知る筈もない。
きょとんとした表情を浮かべているのだけど、その無知さを利用してしまった思いはどことなく残るものだ。
それでも後悔はしない……と言うより、したくないが正確かな。
「いいから、ほら行くよ」
「ああ、うん」
キャンパスから外を出ると、抜けるような青い空と白い雲が浮かんでいる。
照り出す太陽はひたすらに暑くて、絵のような空模様に目を細める。
むせ返るような生ぬるい空気が肺を満たした。
「あづ……雪って夏バテとかになんないの?」
「いや、もうこれが夏バテなのか何か分からないくらいにはバテてはいるけど」
いつもダルイし、体が重いという意味では常に夏バテ状態だ。
「あー、だよねー。分かるわー」
いつものハンディファンを煽ぐ陽葵を横目で見ながら、私はいつもと違う感覚も抱いていた。
「でも今日だけは、この天気を許してあげてるよ」
うだるような暑さは増していく一方だけど、まぁ、今日くらいは許してあげよう、
せっかくの陽葵の誕生日が雨降りでどんよりとしているよりは、ずっといい。
◇◇◇
「あー、階段もだるいー」
マンションに着き、二階へと上がる最中に陽葵は悪態をつく。
見上げると陽葵は手すりを支えにしながら、気だるそうに上がっていた。
「もうちょっとだよ」
「分かってるー」
階段を上がり、部屋の鍵を回して扉を開けると、陽葵が先に入っていく。
「ただいまー」
「陽葵の家じゃないよ」
「もう半分はあたしの家みたいなもんでしょっ……と、んん」
よく分からない事を言いながら靴を脱ごうとする陽葵は、踵が脱げないようだった。
もちゃもちゃと、足首を動かしている。
「ああ、もう、急ぐと逆に時間掛かるよねー」
「分かる」
普段出来ている事が急ぐと出来なくて、出来ないから余計に雑になって出来なくなると言う悪循環。
結局、陽葵は座ってから靴を脱いでいた。
私もその後に続いてリビングに入ると、エアコンを点ける。
部屋が涼しくなるにはもう少し時間が必要だけど、家に着くと不思議と肩の力が抜ける。
「えっと……今日は陽葵がご飯を作ってくれるって言うから、本当に何も用意はしてないよ?」
誕生日の本人からもてなされるという謎の状況だけど、本人のご所望なのだから仕方ない。
「おー、任せなって。その為に用意してきたんだから」
陽葵はエアコンの下に座り、風に当たっている。
その脇にはトートバッグがあり、その中身は今日の為に用意した食材なんだそうだ。
そうなると、私のやる事は本格的にない。
ちょっと早い気もするけど、プレゼントを渡してしまおうか。
私はクローゼットに向かい、仕舞っておいたショッパーを手に取る。
「はい、陽葵」
陽葵はクーラーを向いて背を向けて座っているので、その隣にショッパーを置いた。
「んー……って、おおっ、いきなり、プレゼントッ!?」
「うん、誕生日おめでとう」
「はやっ」
「……タイミング分かんないから」
私がご飯を用意してたら、その後のタイミングとかで渡したかもしれないけど。
食べさせてもらってから渡すのもなー……とかも思ったり。
こんな一息ついてるタイミングでもなかったか、とも思ったり。
でも、もう渡しちゃったから、仕方ない。
「開けていい?」
「もちろん」
と言うか、多分、早く見て欲しかったんだな。
これが気に入ってくれるかどうかのジャッジが気になり過ぎて、後伸ばしに出来なかったんだ。
梱包を解いていく陽葵の動きを見ているだけで、心臓が騒ぎ出すのはその不安の証明だろう。
「おおー……香水だ」
白い箱の中から、透明なガラス瓶に収められた香水が陽葵の手の中に収まる。
色々悩んだのだけど、陽葵が気に入ってくれなければ意味がない。
「どう?」
「ちょっと、試してみる」
そう言って陽葵の手首に香水を吹きかける。
そのまま鼻を近づけて、香りを確かめていた。
レモンとジャスミンの合わさったシトラスの清涼感のある香りがこちらにも漂ってくる。
不思議なもので、陽葵がつけるとそこに甘さが濃くなっているような気がした。
「どう?」
「聞きすぎだって」
つい同じ質問を繰り返した私に対して陽葵は笑っていた。
「いい香り、うん、好きだよ」
「……本当? 気を遣ってくれるなら大丈夫だよ、嫌なら使わなくていいから」
「ほんとだって、ちょうど香水変えたい気分だったし、明日から使わせてもらおうかな」
「そ、そっか」
どうやら、本当に気に入ってはくれているみたいだ。
一安心すると胸のつっかえが取れたような気がした。
「へえ、でもすごいね雪。あたしの好みに合わせてくれたの?」
「あ、まぁ……一応ね」
「雪は香水つけてないのに、そういうのは分かるんだ?」
……ああ、あまりそこは根掘り葉掘り聞いて欲しくはなかったんだけど。
プレゼントした手前、ちゃんと自身で考えて渡しているのはアピールはしておきたい。
「陽葵の香水っぽい匂いを予想して、店員さんに色々聞きながら良さそうなの選んだ」
「へぇ……あたしの匂いも分かるんだ?」
なぜかニヤニヤ顔で私の表情を覗いてくる。
なんでそんな顔をする。
私は変な事は言っていないぞ。
「これだけ近くにいたら分かるでしょ」
「そして雪が選んだ香りを、あたしに身に纏って欲しいわけね?」
「そういう表現はしなくていいと思うんだけど」
「でも合ってるでしょ?」
間違ってはいない。
いないけれど、思ってもない所を粒立てられると、それは別の意味にも感じられるからやめて欲しい。
陽葵も分かっていてやっているのだから意地が悪い。
「当たらずも遠からず」
「あはは、素直じゃないねー」
陽葵が私に悪戯をするからだ。
「でも、本当にありがとう、嬉しいよ」
「……それなら、良かったけど」
まぁ、うん、結果として重要なのはそこなのだから。
他の事は目をつぶろう。
何せ今日は陽葵の誕生日で彼女が主役だ。
少しくらい踊らされても、文句は言えない。
「うんうん、あたしは気分がいいよ。さっそく料理しよっかなー」
そうして陽葵は勢いよく立ち上がってキッチンへと向かう、やる気が沸いたらしい。
私もようやく一安心したので、力が抜けて座椅子に座る。
ポジションが逆転した。
「今日は何作ってくれるの?」
「それは出来てからのお楽しみ―。雪は大人しく待ってくれたらいいからねー」
そうか。
それなら大人しく待つ事にしよう。
誕生日の主役の言う通りにするのが、私の仕事だ。
――ガンッ
と、重々しい音が響く。
なんだ、なんだ。
勢いに任せてフライパンでも落としたのかと思って、もう一度キッチンを見る。
「ちょっと陽葵、何落とし……て」
そこに陽葵の返事もなければ立ち姿もなかった。
一瞬何が起きたか分からず視線を彷徨わせると、陽葵が床に倒れていた。




