63 私にとっての香りとは
「……あ、この香りが近いかもしれないです」
私は一人、ファッションビルにある香水専門店にお邪魔していた。
店員さんと向き合うという勇気、そして香水の事は全く分からないという無知の恥を堪え、ひた向きに教えを乞うていた。
……物言いが大袈裟すぎるか。
「そちらはベルガモットが強く香るシトラス系のものですね」
「……べ、べるが、シトラス?」
「あ、えっとですね」
店員さんを困らせながら話を聞いたところ、要するに柑橘系の匂いに該当するものらしい。
少しの甘さと清涼感のある香りは、確かに陽葵から香ったものだった。
「それだと、そのシトラス系の香りから選んだ方がいいんですかね?」
「その方が失敗は少ないと思います。ですが、思いきって別の香りをおススメするのもプレゼントならではでよろしいかと思います」
それって答えてるようで、中立の立場で何も答えてませんよね店員さん?
結局、自分で判断しろって事なんだろうけど……。
まぁ、下手な冒険はしないでおこう。
あくまで陽葵の好きな香りの傾向から、私好みのエッセンスを加える程度でいいんじゃないかな。
「それじゃ、これを試してみてもいいですか?」
「はい、こちらのブランドも大変人気なんですよ」
……確かに街のど真ん中でラグジュアリーな雰囲気を醸して出しているお店が、このロゴだったような気がする。
こんなお高いブランド買えるのかと一瞬ひるんでしまったけど、お値段を見るとそこまで現実離れをした値段はしていない。
勿論高いは高いんだけど、学生でも手が届く範囲の価格帯なのだ。
これは確かにプレゼントとして選びやすい。
「どうぞ」
すると店員さんが香水を吹きかけた細長い紙を手渡してくれる。
「ありがとうございます」
これは“ムエット”と呼ばれる香りを試すための紙なんだそうだ。
時間が経っても香りが持続するか、香りがどう変化していくかも手軽に確かめられるらしい。
「……」
「いかがでしょうか?」
匂いを嗅いで、思う。
「良い香りです」
語彙の乏しさも同時に感じる。
「ですよね。レモンとジャスミンの組み合わせで、さっぱりとしつつも女性らしい柔らかな香りで人気なんですよ」
……いや、私はそこまで語彙力が想起されるほどの香りは感じられていないんですが。
でも、とにかく良い香りである事は間違いない。
だけど正直、香水って全部良い香りなんだよね。
それが問題なのだ。
ここから先、どれを選べばいいかという指針が私の中に一切ないのだ。
「他にも何か試されますか?」
「あ、えっと……ちょっと鼻が馬鹿になってしまってですね……」
嗅げば嗅ぐほど、今と前の香りの差異が分からなくなっていく。
ただでさえ基準がないのに、迷路に迷い込んでしまった。
「慌てずゆっくりお確かめください。また試されたい物がありましたら、いつでも声をお掛けください」
「……あ、ありがとうございます」
ああ、全く選べる気がしない。
これは長くなるぞ、と。
先の見えない戦いが始まった気がした。
◇◇◇
「……はぁ、やっと買えた」
あれから結局何度も香りを確かめ、店員さんの話を聞き、どうにかプレゼントを選ぶ事が出来た。
達成感はあったけど、その後に残るのは疲労感と、これを陽葵が喜んでくれるのかと言う心配だけだった。
小さなショッパーの軽さと不安の重さは反比例している。
慣れない事をすると、どうしてもこういう気持ちになるのが常だった。
「喜んでくれるといいんだけど」
まぁ、プレゼントを貰って悪い気がする人はいないと思うけど。
それでもせっかくプレゼントするのだから、どうせだったら気に入って使ってくれた方が嬉しい。
そう考えると、香水ってプレゼントとして渡すにはそもそもハードル高くないか?
普段自分の身につけるもの……それも香りとなれば、結構センシティブな問題だ。
安易なようで実は難解な行為に走ってしまったのではないか……?
そんな、今更取り返せない後悔が襲ってくる。
「いや……大丈夫大丈夫、店員さんもいい香りだって言ってたし」
今思い返すと全部“素敵な香りですよねっ”って返されてた気もするけど。
……うん、気のせいだろう。
多分、コレがその中でも一番良い香りのはずだ。
絶対そうだ、そうじゃないと困る。
心配になりすぎてきたので、意識の矛先を変える。
スマホをタップしてアプリを起動した。
【陽葵の誕生日、去年と同じで私の家でいい?】
六月も下旬に差し掛かった頃。
もう陽葵の誕生日はすぐそこだ。
私はメッセージを送って、予定を決める事にした。
既読はすぐにつく。
【助かる】
ワンちゃんがグーしているスタンプ付きの返事。
【じゃあ、そういう事で】
【食べ物はどうする?】
あー……プレゼントに必死で忘れていた。
去年は確か陽葵の好きな食べ物を用意して……と考えていた所で、再びメッセージが届く。
【あたしが作ろうか?】
……ん、それは何でだ?
【陽葵の誕生日なのに、陽葵が料理を用意するのっておかしくない?】
普通は祝われる側の人は何もしないのが一般的だと思うんだけど。
【あたしの誕生日だから、あたしの好きな事をやりたい的な?】
【陽葵って、誕生日に料理作りたい人だっけ?】
【もー、皆まで言わせんな】
……やっぱり、よく分からないな。
でも、とにかく誕生日の人にもてなされる違和感は拭えない。
【私が食事も用意するよ?】
【いやー、場所も用意してもらってご飯もとかこっちが肩身狭いんだわ。あたしの事を思うなら逆に何かやらせてもらった方が気が晴れるわけ】
【気にし過ぎじゃない? 誕生日なんだから素直に祝われたらいいんだよ】
【祝われるんだから、あたしの好きにさせなよ】
話が堂々巡りだ。
でも、そこまで陽葵がやりたいと言うのなら任せるべきなんだろうか。
でも……なぁ。
【せめて何か買う方向にしない?】
【おい、あたしの手料理が食えないってか?】
……確かに、心配ではあったのだ。
陽葵の料理って食べた事ないし、あまり料理上手というイメージもないし。
謎のリスク管理の直感が働いていた。
【任せなって、あたしの誕生日にふさわしい美味しい料理を雪に振る舞ってあげるって】
頭がおかしくなりそうな文章だった。
果たしてどちらが誕生日なのかよく分からなくなってくる。
……でも、まぁ。
【そこまで言うならお願いしようかな】
【お願いされました】
結局、話の落としどころはこうするしかないようだった。
たった一年の積み重ねで、似たような日々の繰り返しなのに、陽葵との誕生日は少しずつ変わっていく。
過ぎ去る日々の中で私達の関係性も少しは変わっているのだろう。




