58 あたしにだけ見せる顔
紅茶の香りがほんのりと漂う中で、クッキーの甘さが口の中に広がる。
こんなまったりとした時間も悪くないなと思いながら、こうして雪が穏やかなひとときを過ごせるようになった事に、勝手ながら変化の兆しを感じていた。
「……」
そんなあたしの関心をよそに当の本人は、ベッドを背もたれに座り、かくんかくんと頭を垂れていた。
「え、寝るの?」
寝る数秒前みたいな動きだった。
「あ、いや……ちょっと眠いだけ」
あたしの問いかけに顔を上げる雪だったが、その瞳は虚ろなまま。
瞼は今にも落ちそうになっていた。
「それなら、寝た方がいいんじゃないの?」
「いや、陽葵が来てるのに、それはないでしょ」
気持ちは分かるけど、そんな眠気に襲われているのを無理に我慢させるのも忍びない。
「いいよ別に、あたしまだいるし」
「それなら……仮眠……するかな……」
よっぽど眠気が強いのだろう、すんなりとあたしの意見を聞き入れた。
もぞもぞと、ベッドへと身体を滑らせる。
壁の方を向いて、横向きになっていた。
「横向きで寝る派なの?」
これから寝ようとしている人に質問するなんて寝かせる気ないだろと思われかねないけど、何か気になったのだ。
その体のぎこちなさというか、リラックスしきれていない感じが。
「……仰向け派」
あたしの直感は当たっていた。
どうして普段の寝方と違う姿勢をとっているんだろう。
「じゃあいつも通りで寝たらいいんじゃないの?」
「……落ち着かないよね」
「ん?」
雪は学校でも寝たりするような素振りを見せた事はない。
そんな彼女が眠気を訴えるのは結構珍しい場面だったりする。
きっと自分の部屋という空間で、あたしくらいしかいないから眠気が襲ってきたんだと思うけど。
それなのに“落ち着かない”というのはどういう事だろう。
「寝顔見られるのって、落ち着かない」
「……なるほど」
あたしに寝顔を見られるのが恥ずかしいらしい。
きっと照れ屋の雪だから、無防備な自分の表情を晒す事に抵抗があるんだろう。
気持ちは分からなくはないけど、気にしすぎだなとも思う。
「じゃあ、あたしが隣で寝てあげよっか?」
「……じゃあ、の意味が分からないんだけど」
「隣に寝てる人がいたらもう見られる心配ないでしょ?」
邪な考えなんてないよ。
顔を見られたら恥ずかしいと言うから、一緒にあたしが寝る事で顔を見られる心配を解消してあげるための提案だ。
とっても健全。
「隣に寝られるのも落ち着かないんだけど」
「……そっか」
まだ一緒に寝るまでは許されないらしい。
こうして関係性を深めていくと、雪の心の開き切ってない部分を感じる事がある。
そういう所まで気を許してくれたら本物だよねと思ったりもする。
「じゃあ、寝られるよう頑張って」
“寝る”と“頑張る”は相反しているようにも思えるけど。
今の雪にはそう言うしかなかった。
「……そうする」
それでも素直にベッドへ向かうあたり、よほど眠気が強かったのだろう。
しばらく無言の間が空くと、次第にすーすーと規則的な寝息が聞こえてきた。
あっけなく眠ってしまったようだ。
「さーて、暇になったなぁ」
視界には必要最低限の家具だけが取り揃えられた部屋が広がっている。
そこで考えるのは白凪雪のこと。
雪の両親は彼女が幼い頃に離婚しており、母親に育ててもらったそうだ。
以前は母親と一緒に暮らしていたみたいだけど、高校時代を境に雪は一人暮らしを始める。
その経緯は聞けていないけど、彼女の口から母親の話が出ないあたり、あまり良好な関係ではなかったのだろう。
――ごろん。
「ん?」
シーツが擦れる小さな音が聞こえたと思ったら、雪が寝返りを打って仰向けになっていた。
あれだけ抵抗していたのに、眠った瞬間に寝顔を見せる事になった彼女の仕草に吹き出しそうになる。
睡眠の前では本音は誤魔化せないらしい。
「どれどれ」
本人は嫌がっているのは分かっているけど、こればっかりは許して欲しい。
雪の寝顔というレアな表情を見過ごすわけにはいかないのだから。
そーっと顔を覗いてみる。
「……美人じゃん」
てっきり本人が嫌がってるからイビキをかくなり、大きく口を開けるなりするのかと思っていたのに。
蓋を開けてみれば静かな呼吸音で、人形のように眠っていた。
もうちょっと不細工になってくれても逆に可愛いげがあるんだけど、これはこれで雪らしいのか。
こうして一人で過ごしてきた雪が、今は当たり前のようにあたしを家に招き入れるようになり、寝顔まで見せるようになった。
この変化はあたしにだけ向けられたものだ。
雪は変わらず他人に対して遠く距離をとる事を厭わない。
人を寄せ付けないその態度は、同時にあたしに対する特別扱いを感じさせる。
それに喜んでしまうあたしも大概だと思うけど、そう感じてしまうのだから仕方ない。
「君がそんな無防備になっていくから悪いんだよ」
目に掛かっている前髪を払って、むき出しになったおでこも指先で撫でる。
無防備な寝顔を見つめながら、ふと未来に想いを馳せた。
「その変化はどこまで続くのかな……?」
笑って話はしたけれど、この先に就職してからも雪と一緒にいる未来は有り得るのだろか。
そんなの誰にも分からない事だけど、雪がどれだけ考えているかは気になる所だ。
どこで働いて、何をするのも各々の自由だけど、その隣にいるのはあたしと雪のままなのか。
その約束はこれから交わされるのか、自然とそうなっていくのか。
答えはもう少し待つ事にしよう。
「まぁ、今日のところは雪に淹れてもらったアールグレイと寝顔で良しとしますか」
大豊作と言ってもいいかもしれない。
あたしはマグカップに口をつけて――カチャンと、テーブルの上にマグカップを落としてしまった。
「あ、ありゃりゃ……」
もう中身も残り少なかったから、零れたお茶はテーブルの上に留まる程度で済んでいた。
急いでティッシュで拭きつつ、普段あまりないないミスに首を傾げる。
「あれ、指の感覚……?」
思ったよりも力が入らず、クッと指を握っても感触が鈍い。
「疲れてる……だけかな?」
自分でも気づいていなかったけど、新しい生活に疲労しているのかもしれない。
振り返ると、雪はまだ寝息を立てていた。
「よかった、あんまりドジばっかりな姿は見せたくないからね」
どういうわけか雪はあたしを過大評価してくれている節があるので、その評価はあまり下げたくはない。
他の人なら大いに下げたい所なのだけど、雪に限っては例外だ。
雪にだけはもうちょっと綺麗でカッコイイあたしでいたい。
そうしていれば、きっと隣に並んでいるあたしにずっと興味を持ってくれるだろうから。
「ってわけで、証拠隠滅っと」
理想の姿でいる為には、時に汚い所を隠す努力も必要なんだな。多分。




