53 私の隣で
長い講義が終わって、ようやく建物の外に出てもキャンパス内にはそれなりの人が行き交っている。
まだ太陽は照り付けていて、むわっとする空気と人の多さに息が詰まりそうになるけれど、今は我慢するしかない。
「痴話喧嘩なんてよくある話なんだから、気にしなくて大丈夫だって」
そう言って、陽葵は夏川さんとの出来事を雑にまとめた。
けれど、この出来事をそのまま放っておいてはいけないようにも感じていた。
「痴話喧嘩に巻き込まれるのは良くないと思うけど」
「向こうが勝手に寄って来るんだから、あたしにはどーしようもないじゃん」
陽葵に色んな人が寄って来るのは、特定のそれらしい人がいないからだ。
もし仮に、仮にだけど。
夏川さんが言ったような展開が起きたらどうだろう。
誰かと仲良くなったりサークルに参加などは……やっぱりそれはない。
なら私と陽葵がより親密な関係になるというパターンはどうだろう。
少なくとも、色恋沙汰で陽葵に話しかける人はかなり減るように思う。
そうなると、かなり特殊な大学生活が待っているような気もするけど……それでも陽葵がたくさんの人に声を掛けられる生活よりはずっといいはずだ。
何より私の精神的安定がもたらされる。
そこで問題になるのは当然、私と陽葵の気持ちになるのだけど。
「陽葵がフリーでいるのが良くないんだよ」
「そんなの分かってるけどさー。それとも雪はあたしに誰かとくっついて欲しいわけ?」
口ではそうは言っても陽葵は誰とも結ばれる事はない。
それは今までも、これからも。
それなのに陽葵は私と一緒にここまで来てくれた。
それが意味するものを、もっと考えないといけない。
「いいわけないよね」
「そうだよねぇ。それだと雪が一人ぼっちになるもんねぇ」
煽るような口調で陽葵は私を挑発するけど、言っている事は間違ってはいない。
陽葵がいなければ私は一人だ。
それを後悔したあの日から、ここまで来た。
「あ、陽葵ちゃん。今から帰り? 暇なの?」
そうして話し込んでいるのが悪かったのか、いかにも軽薄そうな男性が声を掛けてくる。
陽葵の人気っぷりには相変わらず驚嘆するけど、そろそろ落ち着いてきてもいい頃のになとも思ってしまう。
いつまでも勝手に陽葵をそういう目で見ないで欲しい。
陽葵がここにいるのは、私があっての事でもあるのだから。
「あ、えっとーすいませーん、これからあたしは用事があってー」
陽葵は余所行きの笑顔と猫なで声で、当たり障りなく断りを入れ始める。
こういう光景も何度も見てきた。
このやり取りも不毛だ。
誰にも注目なんかされずに、ただ私の隣にいればいい。
そんな未来を陽葵に求めてしまう。
「あの、私たちは用事がありますので」
だから、その間に割って入る。
男の人はじろりとこちらを見るけれど、陽葵がいるせいもあってか露骨に嫌な表情を見せたりはしない。
望まれていない雰囲気はさすがに感じ取れるけども。
「そうなの? それじゃ君も――」
「結構です。私は貴方に興味ないですし、陽葵も私に用があるので」
そんなついでのように誘われて行くわけもない、ついでじゃなくても行かないけど。
そうして陽葵の手を取り、脇目も振らず歩き出す。
返事を聞いたりはしない。
「え、ちょっ、雪?」
背中から陽葵の声も届くけど、それすらも無視をする。
いつも掴まれている方の手を私から握るのはあまり慣れていなくて、その戸惑いを隠すように足はどんどん加速していく。
早くここから陽葵を連れ出したい、そんな意識だけが働いていた。
「おーい、雪、いつまでこのスピードなのかなー?」
気付けば大学を出て住宅街の中を歩いていた。
さすがにここまで追いかけるような気概はなかったらしく、人気のない道を私はひたすら早足で陽葵を引き連れていた。
足を止めてみると、Tシャツは背中に張り付いていて、口は酸素を求めて浅い呼吸を繰り返していた。
「お、おおっと、急に止まるじゃん」
対する陽葵はよろけながらも、涼しい顔をしている。
同じ運動量なはずなのに、なぜ?
「変な人から逃げないといけなかったからね」
「逃げ過ぎだって。とっくに向こうは諦めてたよ?」
「気付いてるなら言ってよ」
こっちは怖くて逃げるのに必死だったのだ。
「一生懸命な雪に見惚れちゃった」
「……表現おかしくない?」
「何でそんなに頑張るのかなって思ってさ」
何で?
そんなの今さらな疑問だ。
「陽葵を変な人から遠ざけるため」
「ほら、可愛い理由」
「……可愛い、とは?」
「あたしを取られたくないんでしょ?」
陽葵は後ろで手を組んで、下から覗き込んでくる。
それを認めてしまうと陽葵の手の平の上で転がされるような雰囲気がある。
かと言って否定してしまって陽葵を遠ざけるのも、今の私の考えには反する。
だから、掴んでいた手首をさらに強く握って引き寄せた。
「私と一緒に来てくれたんだから放す気はないよ。それくらいの覚悟はあるから選んでくれたんだよね?」
お返しに私も瞳を覗き込んで、その意志を確かめる。
高校の時と違いがあるとすれば、私と陽葵は今、お互いの意志でここにいる。
だから少なくとも、私と一緒にいる事を望むくらいは許されるはずだ。
それを肯定するのも否定するのも陽葵の自由ではあるけれど、一度飲み込んでくれた要求を改めて確認するのはきっとおかしな事ではないと思う。
「……え、あ、うん」
こくこくと陽葵は大人しく頷く。
思った以上に淡泊な反応で、それはそれでこちらが不安になる。
「なにそれ、ちゃんと聞いてる?」
「聞いてる聞いてる。……なんていうか、けっこー雪って束縛激しいタイプ?」
「束縛? いきなり何の話」
突然話題を変えられる。
私がいつどこで陽葵を束縛したというのだろう。
「あー、無意識でそれなんだからガチなんだね」
「陽葵が嫌がる事を避けてあげてるんだよ」
陽葵が喜んで参加したいなら、それを無理に止めたりしない。
お互いの要求が重なっているから、私は陽葵をこうして連れて来ただけだ。
「だから陽葵は隣にいてくれればいいんだよ」
陽葵が手を振りほどかない限り、私はその手を離さない。
彼女を誰の手にも届かない所へと連れて行く為に。




