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呪い その7

男はあたしの手元に目を落とし、すっと屈むと自称弁護士の首に手を当てて脈を確認する。すぐに小さく頷くと、あれこれ調べて、傷がないと分かったからか、改めてこちらを見た。

「トラブルですか」

「そうとも言える、かな」

「痴話喧嘩ですか?」

「違うわ!」

即座に否定した。

「被害者はあたしのほうよ」

半裸の気絶した男と、衣服の乱れがない女。冷静に見ればあたしが1000%怪しい。

それなのに男は静かに頷いた。

「外に出せば良いですか」

「う、うん!」

返事をすると男は、自称弁護士を軽々と担ぎ上げた。

唖然としたあたしは声を出すこともできず、エレベーターホールへ2人のシルエットが消えゆくのをぼんやり見ていた。

やがて磨りガラスから見えるエレベーターの明かりが、下へ降りたのを見送って我に帰る。

このまま部屋の中に引っ込んで鍵をしめようか、追いかけて見届けようか、それとも……

あたしは心の中だけで右往左往して、実際は1歩も動けないまま、玄関扉に手をかけて半身を外に出した状態で、ただじっとエレベーターの方を見ていた。

「いつの間にか、真っ暗」

先ほどまで日が差していたのにと、ぼんやり考えていると、スーツの男が1人で戻ってくる。

「1階にソファがあったので、そこに寝かせてきました。ここはオートロックだったので、変な人に荷物を取られることもないでしょう」

「服は?」

「可能な限り着せてきました」

少し安堵して頷くと、男は気遣わしげに聞いてきた。

「見たところ、今日は無事のようですね」

今日は?

無事のようですねって、何?

あたしは少し怖くなって男を見た。

「あ、いえ。昨日、こちらを通りかかった時に、衣服を乱して扉の外で座っていらして……。俯いていたので、泣いているのか、何かあったのかと、ずっと気になっていました」

真摯な瞳に射抜かれたあたしは、どうしていいのかわからず呆けた顔になる。

しかし、事情を説明しないといけない気がして、なんとか口を開いた。

「入って。身の潔白を証明しなきゃ」










あたしはいつの間にか転がっていたマグカップと、溢れた液体を吹いて食器を洗う。

新しくお湯を沸かして、別のマグカップを出してお茶を入れなおす。

2人分用意して振り返ると、背筋をピンと伸ばして正座する男が目に入った。

「どうぞ、足崩して」

座布団もないし、痺れてしまうだろうと思い言った。男はそれに頷いたが、崩す様子がない。諦めて、自分の話を始めた。

そこらに散らばっている、画像の荒い写真を見せながら説明する。

白い手の事は言わず、雇い主との事、昨日の配達員の事、さっきの自称弁護士の事など、自分の分かっている範囲の事を伝えた。

手に持ったマグカップで、時々水分補給をしながら、一通り話し終えたあたしは、玄関先での会話を思い出して問う。

「昨日あたしがの前を通り過ぎて行ったのが、あなたって事ね?」

「そうだと思います。家庭内暴力かと思いましたが、奥の部屋の女性が助けていたようなので、手出し無用と判断したのですが……どうしても気になって、様子を見に来ました」

え?

それって、あたしが気になって、わざわざ来たように聞こえるんだけど。

「あなたは、ここの住人ではないの?」

「違います。仕事の関係でこちらの住人に用事があり参りました。本当はこの1つ下の階に用だったのですが、昨日はたまたま階を間違えて降りてしまったのです」

「今日も?」

「いえ、本日はあなたの様子を伺いに」

そう言うと、生真面目な顔に小さな笑みが浮かぶ。

顔はわりと好みのタイプだ。笑うとなお好きな顔だった。体格もいいし、性格もよさそう。

何よりそのオレンジの瞳が、視線を吸い寄せるようで、なんとも言えぬ魅力を放っている。

これは、何かの試練?

あたしの中の何かが、暴走するか否かの実験?

無意識にマグカップを床に置いた。

ここで何か行動に移せば、あたしはさっき懸命に説明した身の潔白を、自ら崩しかねない。そう思っているのに、ついっと男との距離を縮める。

様子を伺ってしばらくじっとしたが、動く気配はない。

あたしは手の届く距離まで近づき、その表情を見る。

何か言いたげではあるものの、じっとあたしの言葉か行動を待っているようだ。

触れたい。

頬に、髪に、唇に触れてみたい。

どんな反応するのかな?

なんだろう、少し困らせたい空気がこの人にはある。

(いやいやダメでしょ)

それに反発するような感情がふいに湧き上がってきた。

触れてはいけないと鳴る、警鐘に近い感覚。

あたし、何がしたいの?

「オートロック……今日はどうしたの?」

自分が何をしたいのかわからないまま、口をついて出た言葉だった。

「中に入る方がおられたので、ご一緒させていただきました」

そうだよね。

予想通りの答えに、あたしは黙ったまま頷いた。

男はじっとあたしの目を見たまま口を開く。

「昨日に引き続き今日も。災難でしたね。それとも、このような事が多いのでしょうか?」

眉根を寄せて言う男の顔は、不快そうでもあったし、同情しているようでもある。

あたしに原因があるのだと疑っているのだろうか。

どうしようかと考えていたあたしは、正座をしている男の足に、腕を伸ばしてそっと右手を乗せる。

拒絶はないので、そのまま手に少し体重を乗せると、男と正面に向かい合うように移動した。

眉根を寄せていたはずの顔は、無表情に戻っている。じっと目を見つめることしばし。微塵も動かない男に、首を傾げる。

足に乗せていた手を上げて、顔の前を横に流す仕草をしてみせる。

それでも男は動かない。

体も顔も何一つ動かさない。時が止まっているような錯覚さえ覚えた。

「最近、ちょっと多いかも」

そう答えると、男の瞳に一瞬、燃えるような光が宿った。

言葉を発していないし、行動もなにもない。

それなのに、ドキッとした。

じっとオレンジの瞳を見つめていると、やがてその光は消える。男はあいも変わらず、指先ひとつ動いていない。

あたしは自分の胸の鼓動を誤魔化すように口を開いた。

「昨日の人は初対面で突然だったから驚いたけど、大抵は知り合いが多いの」

あたしはそう言うと男にすり寄り、肩に両手を乗せた。少し顔を寄せて、耳元に何か囁こうと……

え?

待って!

囁きたいことなんて、何もない。

そう気がついたが、男の相貌が眼前にある。

自らの意思とは関係ない動き。

なんであたし……こんな迫るみたいな体制になってるの?

違うの、こんな事したいんじゃないわ!

「ねぇ、あなた。(のろ)いって、知ってる?」

即座に体を離さないといけないのに、あたしは誘うような声色でそう聞いていた。

思考を放棄すれば、もっと艶っぽい言葉になっていただろう。

あなただけが頼りとか、一目惚れです、とか。

こんな状況じゃなければ、口を滑らせて言ってしまいたいもの。

あたしの心の葛藤を知ってか知らずか、オレンジの瞳が戸惑いに揺らめく。

その瞳の揺らめきに、ゾクゾクとした歓喜が競り上がる。

「呪い……」

男の言葉にビクッとした。

急激に下降する感情。しかし次の言葉がない。

『それは、男を漁るための言い訳ですか?』

『非現実的な妄想で話を逸らそうとしているのですか』

最悪だったら、こんな感じの事を言われるだろう。

『大丈夫ですか?』

引き攣った笑み?

『ははは、失礼します』

逃げる?

「そうか、この気配は”呪い”なんですね」

予想外の反応にあたしは目を見開く。

男はそう言うと、あたしの両手をがっしりと包む。大きくてしっかりした手だった。

「さぞ、ご苦労なさった事でしょう」

「ど……どう……して」

オレンジの瞳に絡め取られて、目を逸らすことも出来ない。

「え……あの……」

真剣な眼差しが痛い。

「いつ、呪われたのですか?」

問われたと同時に、耐えきれなくなって、意思を総動員して顔を逸らした。

「高校生の時、です……」

「今までさぞ、不快な思いをされた事でしょう。たくさん、傷ついているかもしれないのに、こんな事しか申し上げられず不甲斐ないばかりですが」

逸らしたばかりの顔を戻してその瞳を見つめた。オレンジの真摯な瞳が真っ直ぐこちらに向かっている。

手に手を取り合って見つめ合う男女の図。少女漫画のようだが、自らの境遇とかけ離れすぎて実感がない。

「可哀想に」

その胸元にそっと抱きしめられた。

慈愛の優しい抱擁。

こんな感覚、忘れていた。

ほうっと解放される心。横浜でキスしたあの男から得られた快楽とは、別の気持ちよさ。

横浜の男を興奮の快楽としたら、今は癒しの快楽だ。真綿で包まれて、守られている気がする。

今はこのまま癒しの腕に抱かれて眠りたい。

安堵からの脱力に、意識が微睡み始める。それに抵抗せずに身を委ね、そっと瞳を閉じる。

お願い、白い手なんて忘れて、眠らせて。


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