呪い その4
後頭部から身体中の悪いものが抜けて、放射されるようなイメージがあたしを支配する。
(なにこれ……気持ち、いい)
ただのキスだ。
なのに、すべての煩わしさから解放されたような爽快感があった。
快楽とは、この事だと思えるほどだ。
その唇を離したくなくて、しがみつこうとした。
しかし、彼が体を動かすとあっさり力が抜ける。
「解呪は容易ではないが、ここに連絡してみるといい。保護や結界のプロだから」
呆けて座り込んでいるあたしの手に、遠くの光を反射させてキラリと光る、カードのような物。
「気をつけて帰れよ」
男が去っていくのを、何も言えず見ていた。
しばらくその場に止まっていたあたしは、ややして我に帰ったように辺りを見渡す。
高3の夏以来忘れていた、正常な感覚。
これがそうだったと、ふいに思い出した。
体が軽い。心も軽い。
夜なのに、朝日を全身に浴びているかのような爽快感。
いつも中心にあった得体の知れない何かの存在が、薄い膜に覆われて閉じ込められている。
2年も呪われている状態が普通だったので、前の感覚をいつの間にか忘れていたようだ。
戻りたくない。呪われた状態には、もう、戻りたくない!
手に握っていたカードを掲げる。
金色の台紙に黒い文字。
暗いところは好きだが、文字を読むには適さない。
遠くの街灯に向けて内容を確認した。
「はなちるさと……え!大阪?」
職場のオーナーをホテルに置き去りにしたあたしは、当たり前のように職を失った。
念の為、翌日は夕方出勤にしておいたのだが、タイムカードと一緒に紙が差し込まれており、それを開くと解雇通知だった。オーナーとは会えず、腫れ物を触るような仲間の視線に見送られて店を出て、その日はかえってゆっくり眠ることが出来た。
だから、時間はたっぷりあるのだが……
ワンルームの自宅で西陽を浴びながら、だるだるの上着と短パンでベッドに寝転び、掲げたカードを眺める。
呪いはすっかり元通り。
それなのに、まだ連絡できていない。
「どうしよう」
きらりと陽の光を反射させて、表に裏に斜めにして文字を探す。
ちょっと豪華な金のカード。
そこには店舗名に営業時間、担当らしき人物の名前しか載っていない。
一昨日見えた住所らしき文字は、表にも裏にもなかった。
大阪と書いてあったように思えたが、暗かったし自信はない。
「担当はじゃくげつ?これって苗字かな」
はなちるさと
19:00〜23:00
担当:若月
先日から何度もタブレットで検索している。
しかし色々出てきてどれが正解か分からない。
歴史文化館、飲食店、写真館、なんだか怪しい占いサイトや、個人の書き込み等、多岐にわたる場所で”はなちるさと”と若月の名前がある。しかしこれらが一緒に表示されることはなく、個別に散見されるだけだ。
だからどれも正解ではないような気がして、メッセージを送ることも、電話で問い合わせることもできなかった。
一番それっぽいのが占いのサイトだったが、これは口コミのような書き込みで、信憑性が薄い上に連絡手段がない。
「う〜ん、どうしようかな」
ゴロンと右に半回転して疲れた腕を休める。
再びカードに目を向け見つめた。
カードに記載された営業時間は19時から23時。
名前でヒットした店舗のサイトをいくつか覗いたが、営業時間が一致しない。
いくつか絞って行ってみようかとも考えたが、場所がバラバラだし、遠いし行ったこともない土地ばかりだ。行っても店舗がないとか、変な店で怖い人が出てきて酷い目にあったらどうしようとか、色々考えてしまう。
「はぁ」
あれこれ悩んでいるうちに、陽は落ちて青い薄闇が部屋に広がっていた。
♪〜
オートロックのメロディが流れ、あたしはガバッと体を起こす。カードを短パンのポケットに入れると、応答ボタンを押した。
「はい」
応答すると、お荷物ですと男性の声が答える。
「どうぞ」
実家からに違いない。
先日、職を失った事は伏せて母に電話した。地元の食材が恋しいと言って泣きついたら、色々送ってくれると言うのでありがたく頂戴することにしたのだ。
少しワクワクしながら玄関で待機していると、足音が聞こえてきたので先に扉を開いた。
荷台を押していた若い配達員は、あまりにも勢いよく開いたドアにビクリとなったが、すぐに愛想笑いを貼り付けて言った。
「危菜さんですか?ここにサインお願いします」
「はーい」
差し出されたボールペンと伝票を受け取り、ドアを利用してサインする。
「お荷物どうしましょう?かなり重たいですけど」
言われて荷台を見ると、確かに大きくて重たそうだ。きっと米や調味料も入っているだろうから、持ち上げて運ぶのは大変そうだ。
「玄関まで入れてもらえる?」
あたしがそう言うと、配達員は頷いて返答しながら荷物に手を掛ける。
「かしこまりました。よっと……げ、玄関、までで……いい、ですか」
うわ、かなり重そうだな。
もう少し部屋の中までお願いしようと思ったが、ワンルームだから廊下なんてないし、すぐそこはもうキッチンだ。
ま、いいかと思い口を開く。
「あ、もうその辺で大丈夫です。ありがとう」
配達員の背中を追うような形で部屋に入り進む。男を追い越したタイミングで、パタンと小さな音がして玄関ドアが閉まった。
一瞬、部屋の中に静寂が落ちた。
ぎょっとして玄関を振り返ったが、何も異変は見つからない。
「くっ……ふぅ……」
うめき声と共にゆっくり荷物が下ろされ、配達員の背中が大きく沈む。
「助かりました」
ちょっと申し訳なく思い、脱力している背中に声をかけた。
しかし配達員からの返事はない。
大丈夫だろうかと近寄り、少しかがんで声をかける。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃ、ない」
あたしに向けられた顔は、目がとろりとしていた。頬は上気していたし、息が荒くてしんどそうだ。
「なんだ、これ」
配達員は息苦しそうにうずくまり、あたしを仰ぎ見る。
「なんか、変、だ……?」
何かの発作?
眉根を寄せて配達員を見ていると、突然その両腕があたしの肩をがつっと持った。
「え?」
顔見知りではないこの男が、あたしを襲うなんて事あるだろうか。
ぼんやりそんな事を考えていたが、上着を強く引かれ、首回りがミチッと音を立て伸びる。
肩がむき出しになって我に返り、慌てて両手で男を押し返そうとした瞬間、白い手が現れた。
6本から始まったそれは、今や数えきれない程になっている。
完全な初対面で現れたのは初めてだった。しかも、いつもよりウネリやハネが大きい。
まずい、と本能的に悟る。
男はすでに気を失っているようだ。
それを蹴飛ばして、白い手を引き千切ると、慌てて自分の部屋から飛び出す。伸び切ったシャツの襟をかき集めて、肌蹴た肩を隠しながら玄関ドアに背を預けてその場に座り込んだ。
千切れなかった白い手が、徐々に背中に戻っていくような感覚。
どうしよう、どうしよう。
ぐったりしてた。
生きているかどうか、確認しないまま出てきてしまった。
もし死んでたら、あたし殺人犯?
ど、どうしたらいいの?
あれこれ考えていたらパニックに陥りそうだった。
「どうしたの?大丈夫?」
突然、頭上から聞こえる声。
びっくりして弾かれるように顔を上げる。時々見かける同じフロアの女性だ。今帰ってきたのか鞄を片手に下げて、立ち止まるようにしてがあたしを見下ろしていた。
「何かあったの?DVとか……警察呼ぼうか」
この場を通りかかったのが女性であることに感謝しつつ、見知らぬ配達員の処遇をしばし考える。
しかしこの常軌を逸した出来事を説明する事が、あたしにはできない気がした。




