呪い その1
「ねぇ、あなた。呪いって、知ってる?」
あたしは目の前に立つ、がたいの良い男を見上げる。
「呪い……」
知っているとも、知らぬとも受け取れるような呟きだった。
こんな事を人に話すなんて、どうかしている。そう思ったのだが、この誠実そうな瞳に促されて、口を開いた結果が先ほどの言葉だ。もう、すでに後悔し始めている。
『それは、男を漁るための言い訳ですか?』
『非現実的な妄想で話を逸らそうとしているのですか』
最悪だったら、こんな感じの事を言われるだろう。
『大丈夫ですか?』
引き攣った笑み?
『ははは、失礼します』
逃げる?
ま、どうせそのような感じだろうし、別にいいんだけどね。自分の状況を伝える事を、全くしてこなかった訳じゃない。本当に信じてくれた人なんて皆無だし。期待などしていないから、男の言葉を待つ間、せめて目を楽しませておこう。
全体的に短めのツーブロック、既成服ではどうしても張りがでてしまう胸元に、少しオレンジがかって見える瞳。
筋トレか、何かスポーツをしているのか。
うわぁ、よく見たらわりと逞しいんだ。腕もがっしりしてそう。
こんな感じの腕に抱き締められたら、自分はどうなってしまうのだろうか。
ときめきで苦しくなるのか、興奮で天に登ってしまうのか、それとも、あいつが出てくる?
「そうか、この気配は”呪い”なんですね」
え?
今、なんて……?
「さぞ、ご苦労なさった事でしょう」
男は同情の眼差しを向けて、あたしの両手をがっしり握る。小さくないあたしの手が、すっぽり収まるような、大きくてゴツゴツした手だ。
「ど……どう……して」
動揺して何も考えられないあたしを、オレンジの瞳が心配そうに見つめている。
「……あの……」
真剣な眼差しが痛い。
「いつ、呪われたのですか?」
問われたと同時に、耐えきれなくなって、ついと顔を逸らした。
「高校生の時、です……」
ぐっと包まれている両手に力が入り少しだけ痛かったが、あまりにも真剣な態度に何も言い出せない。
どうしてこんな事に……。
あたしは目だけをぐるりと回して、この状況を引き起こした、過去の出来事に思いを馳せた。
横浜のランドマークとも言える建物の上層階。
中心地の夜景が一望できるホテルの1室で、背後にシャワーの音を聞きながら、あたしは1人下界を眺めていた。ふと目を逸らし、開こうとする白いガウンの胸元を直す。
「夜景はゾッとするの」
隣に誰もいない事を確認すると、ぽつりと呟く。
夜景は嫌いだ。
あの1点1点に人の存在があり、日々の営みが行われている。
闇を照らそうと躍起になり、隠れた物を全て暴こうとしているようで嫌いだ。
見えないのは怖いかもしれない。だが、隠れたいモノは、闇夜がなくては息苦しくて堪らない。
こんなにも多くの人間が、ひしめきあって蠢いている。地上を蹂躙し尽くし、自慢げに輝きを放つのだ。
「未桜」
優しげな声が背後から聞こえ、ガウン姿の男が濡れた髪のまま、シャンパングラスを2つ持って隣に移動してきた。
少しだけ波打つ髪は耳を覆うほど伸びており、それが少しセクシーだと感じる。
男はうっとりとした表情でこちらを見つめてくる。次に夜景をチラリと見て口を開く。
「綺麗だね。奮発してよかったよ」
そう言いながら、グラスを1つ渡してきた。
「君の20歳に」
男はあたしに持たせたグラスに、自分が持っているものを押し付けようとした。
「あ、音は立てないで」
「どうして?」
グラスを打ち付ける音は大丈夫。残響もないだろうし、あれじゃない。
分かっていても、硝子が鳴ることに警戒して言った。
「……割れそうで怖いの」
「ふふ、繊細なんだね。大丈夫だよ」
男の手にあるグラスが、カチリと音を立てて微弱な振動をあたしの手に伝えた。
大丈夫、大丈夫だ。
自分にそう言い聞かせて、中身を1口飲んだ。
「どうだい?初めてのお酒の味は」
「甘いのね」
アルコールの匂いと、ジュースの匂いが混じった刺激物だ。
これが、大人の味なのか。
「未桜って可愛い名前だけど、今日で卒業って事でいいんだよね」
男の手が右頬に添えられ、左の頬に唇が寄せられる。
「どういう意味?」
これからやりたい事は分かったが、言っている意味はよく分からない。しかし大人ぶってすかした感じで聞き返した。
「未桜って、桜の蕾みたいな名前だからさ。開花させてあげるよ、僕がね」
ああ、そういう意味か。あたしの名前にかけて、ムードを盛り上げようとしているのだ。
少々面倒に思いながらも、再びシャンパンを口に含む。
母の出産予定が早まって、桜の開花に間に合わなかったから未桜だ。処女性を想起させたくて付けられた名前ではない。
ごくり、と口に溜めていた液体を飲み下した。
「ああ、未桜」
女慣れした腕に、そっと抱き寄せられた。
男は自らもシャンパンを煽り、あたしの顎を掴みながら口付けて液体を流し込む。
慣れない刺激に少し咽せたせいで、口の端からシャンパンが溢れる。
それを見て満足げに笑った男。あたしを抱き抱えてベッドへ向かった。
ぎゅっと目を閉じて、おとなしく運ばれる。
大丈夫。まだ、ときめいていない。
なれない状況に、緊張しているだけ。
心臓が早鐘を打たないように気をつけて、正常心のままベッドに降ろされるのを感じて目を開けた。
天井と男が視界に広がる。
「シャンパンの味、気に入った?」
顔の横に手をついた男は、あたしを覗き込みながら、焦らすように聞いてきた。
「え?ええ。まだよく分からないわ。でも嫌いじゃないかも」
そう答えると、ベッドサイドには3つ目のグラスが用意されており、男は置いてあったボトルを手に取る。片手でグラスに注いだが、それをあたしに渡すことはなく自ら煽った。また口から飲ませようとしているのだろうか。
ちょっと嫌だな。お酒の味、変わりそう。
徐々に大きくなる男の顔に合わせ瞳を閉じた。
男の唇が重なる。
流れ込んでくるシャンパンは細く、長く続きそうなキスは……唐突な男の脱力により終わりを告げた。
「はぁ……やっぱり」
薄く開けた瞳の先には白い世界。
男を覆い隠すほどの白い『手』が、目の前でうねっていた。
あたしのすぐ上で、天井を背景に上下に揺れ、しばらくすると左右に揺れる。
宙に浮いているように見えるが、実際は下から支えられているだけだ。
「はあぁ」
大きなため息が溢れる。
「よいしょっと」
体を横に捻ってベッドから離れると、ぶちぶちっと不快な音が鳴る。消えゆく白と正常な視界、そして背中の痛み。
念のため男に近寄り、首に指を当てて脈を確認した。
白目を剥いて倒れているが、死んではいないようだ。
ひとまず安心して再び離れる。
シャンパンのボトルをとると窓際に移動し、サイドテーブルに置かれたままだった自分のグラスに注ぐ。
「ハッピーバースデー、あたし」
眼下に広がる夜景を見ながら、まだ慣れないお酒を煽る。
「このまま酔い潰れたら……」
あの男の隣で眠ったら、どうなるのだろう。
自分に意識がなく、男が起きてきたら?
「あたしを抱こうとして、これ以上進んだら、どうなるの?」
自分に意識さえなければ、あるいは……
「いえ、ダメね。危険すぎるわ」
力が暴走して殺してしまったらと思うと、恐ろしい。
「帰ろ」
好きでも嫌いでもない男だが、死なれると夢見が悪いに決まってる。
自分に酔っているようなところはあったが、突然襲ってくるような事はなかったし、まぁ、このまま帰ったほうが彼のためだろう。
さっと着替えて部屋を後にした。




