皇帝は最愛の妃の祈りの歌を聞きたい
「引っ越しは滞りなくすんだようだな。何か足りないものとか、困ったことはないか?」
「陛下の御厚情のおかげで何不自由なく過ごさせていただいています。此度頂いた御部屋も日当たりが良くて、朝夕の御祈りにも力が入りますわ」
「ここからなら俺のいる正殿まで祈りの歌声が聞こえるのではないかな」
他の妃には一切見せない温かな笑みを浮かべた暁明は腕を伸ばして蓮花を抱き寄せると、顎に優しく指をかけて上向かせるとそっと口付ける。
二人の時間を邪魔しないように、傍に控えていた春鈴と青鈴がそっと下がった。
「あの二人は本当によく気が利くな。蓮花のことをとても大事に思っていることもその態度からよく分かるし、何か特別な絆を感じる」
「あの二人は私が慰安で行った戦地の孤児院にいたのですが、その孤児院は院長が横暴で、あの二人が私のところにきたときは暴力を受けて…虫の息でした。私は神力で彼女たちを癒しましたが、治ったあの子たちを院に戻す気にはならず、私の傍仕えとしたのです」
「あの神官長がよく孤児に神力を使うのを赦したな」
暁明の言葉に蓮花は何も答えなかったが、その少し眉間にしわを寄せた様子から説教や折檻などの罰を受けたことは理解できた。
神殿の長であるいまの神官長は権力欲が強く、神力は金払いのよい貴族限定で使うことを神女たちに赦している。
見目のよい蓮花を後宮に送りこんだのも、朝廷での発言権を強めようという神官長の目論見だった。
蓮花が暁明の寵を得るようになると直ぐに神殿への寄進を求め、今では国家予算の一部を神殿によこせと要求するまでになっている。
(前の時代では蓮花が投獄されると同時に蓮花を切り捨て、売女の母の血のせいで蓮花が密通の罪を犯したなどと嘯いていたな)
暁明の頭に自分を刺した神官の、最愛の妻を亡くし、最愛の妻がただ一人残した最愛の娘を神殿に奪われたと泣いていた顔が浮かんだ。
(蓮花の父親…7歳のときに奪われたと言っていたから、蓮花には父親や故郷の記憶があるのではないか?)
「蓮花、自分の親や生まれ育った故郷のことを覚えているか?」
「7歳から神殿で育ったので、それ以前のことは朧気ですが…大きな湖の傍の村だったと記憶しています。土地は常に乾いていて作物も余り育たず、神官長には私は口減らしのために父親に売られたと教えて頂きました」
「…口減らし?」
「凶作だったのか、優しかった父が私を捨てるほどの絶望があったのでしょう。母の記憶はありませんが、父は優しく美しく、歌の上手い人だったと幼い頃の私に父が何度も語ってくれたのを覚えています」
「蓮花の迦陵頻伽と見紛う歌声は母君譲りなんだな」
***
翌朝、暁明は部下たちに大きな湖のある村や町を中心に蓮花の父親を捜すことを命じた。
蓮花が父を恨んでいたら探すことはなかったが、蓮花の過去を辿る目に浮かんでいたのは父親への思慕であり、父親という存在への憧れだった。
いつの間に現れたのか、暁明の視界に娘娘がひょっこり顔を出す。
「御母様の父様を探すの?あなたを殺した人なのに?」
「前の話だろう?今の俺は彼に恨まれては…刺し殺したいほど憎まれていないだろうから大丈夫だろう。彼が神官長に復讐したいって言うなら協力してもいいと思ってる」
「父親にとって婿は永遠の敵っていうよ?まあ、気持ちに余裕がある人は優しくなるって本当だね」
「大人の魅力があるだろ?御父様って呼んでもいいぞ?」
「呼ぶ気になったらね」
娘娘の何気ない答えだったが、暁明はぴくりと眉を上げて僅かに口の端を上げた。
(俺が父親でも良いって少しは思ってくれているようだな…まあ、こんなことを言ったら拗ねちまうだろうけど)
「そろそろだな。 峰風、南に面した窓を全部開けてくれ」
「畏まりました」と暁明の意図を察した峰風が窓を開けて御簾も上げると、風にのって歌声が流れてきた。
「蓮花様の祈りの歌ですね」
「ああ、美しいだろう?」
机に肘をつき、頬杖をついて目を閉じた峰風の耳に、蓮花の歌声とは違う、まるで喉を絞められたようなうめき声が聞こえた。
驚いて振り返ると、視線の先には青い顔をしている娘娘がいた。
― 神女の歌には浄化する力があり、歌に合わせて踊る精霊たちがその地に宿った怨念や縛霊などが祓ってくれます ―
蓮花から聞いた聖女の歌の力を暁明は思い出した。
「お前……精霊じゃないのか?」
暁明の言葉に娘娘は唇を噛み、その大きな瞳に涙を浮かべると「ごめんなさい」と呟いてふわっと陽炎のように消えた。