プロローグ
北の山で生まれた水を貯めた冷たい泉で身を清めた暁明はハラハラ落ちてきた雪に気づいて顔を上げた。
どんよりとした曇り空が今年最初の雪を降らせていた。
「陛下、どうかなさいましたか?」
「!!」
近くから聞こえた声に驚いて顔を向けると、暁明が見たことのない神官がいた。
気づかぬうちに間合いに入られたことに暁明は警戒し、泉の入口で待機する兵士を呼ぶべきだったが、老いた神官の自分に向ける眼にふと懐かしさを覚え、暁明は一度開いた口をゆっくりと閉じた。
「ああ、雪が降ってきたのですね」
天気を語る口調とかけ離れた、仇敵を見るような神官の眼に暁明の背をぞくりと冷たいものが這い上がる。暁明は思わず目で愛剣との距離を測ったが、ほんの一歩でも神官に背を向けるのを躊躇った。
「私が妻と死に別れた日も、妻が遺してくれたたった一人の未だ7歳の娘を神殿に奪われた日も、その娘の命が無情に散らされた日も、全て全て雪の日でした」
7歳で神女となった彼女
処刑台に残った彼女の血で赤く染まった雪
神官の言う女性に暁明は心当たりがあり、一日たりとも忘れなかった彼女を思い出したとき、なぜ目の前の神官に懐かしさを覚えたのか気づいた。
神官の目は彼女にとてもよく似ていた。
「美雨はどんな最期でしたか?」
― 私の本当の名は美雨っていいます ―
「優しくて少し怖がりな子です、きっと泣いていたでしょう。嗚呼、可哀そうに。あなたを恨んでいましたか?この国を恨んでいましたか?この世界を恨んでいましたか?嗚呼、なぜあの子が処刑されなければいけなかったのでしょう?希代の悪女?あの子は本当に悪女だったのですか?」
乾いた喉がひりついて、暁明は神官の問いかけに答えることができなかった。
「あの子は寂しがりやなのです。5歳を過ぎても私の布団に潜り込んでくるような。嗚呼、あの子が呼んでいる。美雨、私の大事な吾子。お前を一人にはしない。この男を殺したら爸爸も直ぐにお前の所に逝ってあげるから」
「…私を殺すのか?」
「娘を失った私は、娘の幸せを祈るためだけに神官になりました。その娘が殺されたと聞いたのは5年前、あの日からずっと私は貴方を殺すためだけに生きてきました。私に連なる血族は誰もいません、私の所業は私だけの責任として彼の世に持っていきます。ですからどうか、この世の最愛を失くした男に温情をいただきたく」
そう言って迫ってくる刃を暁明は避けることはなかった。
胸部に焼けるような痛みを感じたとき、
― 暁明様 ―
己が処刑した日から泣き顔しか見せなかった暁明の最愛が笑う姿が閉じたまぶたの裏に浮かんだ。
「…っ!!」
跳び起きた暁明は反射的に胸元に手をやり、そこにただ夜着があるだけのことに眉をひそめた。
襟元をはだけてみれば刺されたはずの場所には傷ひとつなかった。
「坊ちゃま、御目覚めですか?」
死を意識するほどの傷が痕も残さずに完治するわけがなく、何が起きたか分からず混乱する暁明は部屋に入ってきた女性の姿に更に混乱した。
「紅花!お前は二年ほど前に死んだはずじゃ!?」
「…それは私に死んで欲しいという意味でしょうか?」
「い、いや…しかし……」
「本日より成人皇族になる坊ちゃまに乳母の私など要らぬ存在でしょうが、私は坊ちゃまの御子様の世話をするまで死なないと決めております。御覚悟下さいませ」
てきぱきと動く紅花を視界に収めながら、暁明は信じられない思いで口を開いた。
「紅花、今の俺は何歳だ?」
「15歳ですよ?この羅の国は15歳が成人と決まっておりますが、本当にどうなさったのですか?あ、もしかして明日成人だからって一足先に強い酒を御飲みになったりしたのですか?」
「酔っていない…少々夢見が悪かったのだ」
「悪い夢は未来からの警告、吉兆の報せとも言います。成人を迎える日には瑞兆と言えるのではないでしょうか」
紅花の優しい言葉に暁明は泣きたい気分になった。
***
それから暁明はこれまでの状況を整理し、暁明自身が時間を15歳の誕生日まで逆戻ったと仮定した。
暁明が覚えている成人の儀での出来事は2つ。
1つは紅花の息子であり暁明の乳兄弟である峰風が祝いの酒として、将来の暁明が愛飲した酒を持ってきたこと。
「暁明様ー、成人のお祝いに親父の秘蔵酒を持ってきました」
(よし! しかし、あの酒は勝峰の秘蔵酒だったのか)
もう1つは祝いの雰囲気にあてられて気分が悪くなったと、宴の席で後に妃となる宰相の娘・麗花がしな垂れかかってきたこと。
(よし! といっても、今回の俺は麗花を抱くつもりなど一切ないが)
前回の生で麗花がしたこと、これからの未来で麗花がしようとすることを考えると、例え恋情のない交わりであっても暁明は受け入れられなかった。
時を遡ったと仮定した暁明の目的はただ一つだった。
「美雨、いや、春の宮に住む俺の最愛の妃・蓮花。今度こそ、俺は君を幸せにしてみせる」