厄日の話
樹歴865年
パキン、と小気味良い音を立てて秤は腕を落とした。
「 は?」
エトラは信じられない気持ちで秤を見つめた。作業前の器具点検中だったのは不幸中の幸いだ。しかしそれはそれ。これはこれだ。
思えば薬学を学び始めた時から使っている秤だ。そもそも中古品だったことも考えれば、壊れてしまったものは仕方ないと諦めもつく。直すよりも買い換えた方が賢明だろう。だが、長年共に学んできたこの秤には少なからず愛着もあった。
はあ、と大きく息を吐いて、エトラは財布を手に取った。いずれにせよ、一度購買に行ってみよう。
「いらっしゃい。あれ?どうしたの大丈夫?元気ないね」
ノルドは人の顔色を見るのも上手い。これがエトラの学友たちだったら、単に機嫌が悪そうだと受け取るだろう。
「愛用の秤が壊れたの。コレなんだけど」
ノルドは、壊れたという割には丁寧に袋に詰められた秤を受け取った。開いてみれば、使い込まれた古めかしい秤が顔を出す。
「わあ。だいぶ年代物だね」
錆や汚れもなく、丁寧に扱われていたことがよく判る。古いものとは言え、この秤は金属製で元来壊れ難い筈だ。しかも扱いもいいのに、と少し怪訝に思いながらも、ノルドは落ちた腕と本体の接続部分を確かめる。留具が緩んで外れただけではと期待したのだが、留具を受ける側が割れてしまっていた。
「…ぁー」
思わず声が漏れる。それを聞いて、エトラは一度目を閉じた。
「やっぱり買い換えた方がいいわよねそれ」
「そうだね…秤は精確さが命だし…うーん、修理も出来なくはないけど…」
「いい。仕方ないもの。新しいの買うわ」
ノルドはじっとエトラを見た。
「…そっか。じゃあ準備するから、暫く待ってもらえる?これ預かっていいかな」
「そりゃあ、処分してくれるなら助かるけど…」
使えない秤を置いておける程、エトラの部屋も心も広くはない。このまま引き取って貰えるなら、自ら廃棄場に置き去りにするより幾らか気が楽だ。ノルドの気遣いに感謝しつつ、一度購買を後にした。
「あ、エトラちゃん!」
自室へ戻る途中、エトラはシンシアに呼び止められた。
「こんにちは」
「こんにちは。会えてよかった、エトラちゃんに伝えたい事があったの」
「はぁ」
植物学を教えるシンシアと薬草を扱うエトラはそれなりに親交が深い。こうして講師に呼び止められても恐縮しない程度には。
「サマン薬圃、閉園するって」
「えっ!?」
エトラが普段お世話になっている、信頼している薬草園だ。エトラの作る薬剤の材料は大体ここから買っている。
「どうし…いや、いつまでですか?」
「今植えてある子たちを採り尽くしたら、もう新しい子は育てないって」
「嘘でしょ…」
秤に加えて思わぬ追い打ちを喰らい、エトラは頭が痛くなってきた。
「エトラちゃんにも、『お世話になりました』って」
困る。すごく困る。が、それをシンシアに言っても仕方がない。
「…わかりました。ありがとうございます」
こめかみを抑えて立ち去るエトラを、シンシアは眉を下げて見送っていた。
部屋に戻ったエトラは、取り敢えず出しっ放しだった調薬の材料や機材を片付けた。それから、椅子に腰掛け空を仰いで呆っとしている。
秤もない。材料もなくなる。いや、どちらも『次』を用意するだけたが、それが今はとても億劫だった。ただ呆っとしていたい。やりたい研究に心急かされずただ呆っとしている。こんなこと今迄になかったな、と何処か遠くの方で思考した。
数日後。授業の後で、エトラはシンシアに呼び止められた。
「エトラちゃん、これ」
折り畳まれたメモを渡された。開いてみると、シンシアの字でいくつかの住所が書かれていた。
「これ…」
「代わりになりそうな薬草園、見繕ってみたから。何処か気に入る場所があると良いんだけど」
いずれは自分でやらなければと思っていたことだが、植物学講師の推薦リストが貰えるとは思わなかった。
「ありがとう…ございます。助かります」
どうも好意を伝えるのが苦手な自覚のあるエトラは、この感謝がちゃんと伝わっているか不安がある。シンシアは指先を合わせて笑顔を見せた。
「良かった!エトラちゃん落ち込んでたから、とっても困ってるんだろうなと思って」
「は、はい。本当に助かります。ありがとうございます」
「困ったことがあったら先生を頼ってね!」とウィンクして、シンシアは親指を立てた。深々と一礼を返し、エトラはシンシアと別れた。
「あ!エトラくん!」
ノルドに声を掛けられ、エトラは購買へ入った。
「はい、おまたせ!」
「え…これ…」
差し出されたのは、頼んでおいた新しい秤だ。だがこれは新品の既製品ではなかった。
「腕は左右両方とも換えたけど、本体部分は元のやつ。一応デザインも合わせてみたつもりだけど…どうかな」
「大変だったんじゃ…」
古いものだったから、合う部品も無かった筈だ。合わせて作ったことになる。
「こういうの、得意だからね。…嘘。好きなだけなんだけど…」
エトラの顔が不機嫌そうに歪んでいく。それを見て、ノルドは笑った。
「エトラくん、大丈夫大丈夫。ほら、こっちも商売だからね」
そう言って金額を提示した。エトラが気負いしない程度には高く、労力には見合わない程に安い額だ。
「足りてないでしょ、商売人」
「言ったでしょ、好きなんだ」
エトラは呆れた。
「本当、お人好しばっか」
自分は優しくできてないのに、皆は優しくしてくれる。ありがたいけれど、それでは申し訳ない。けれどそう思うのはそもそも。
「ふふ。エトラくんって、意外と自分が見えてないね」
「なにそれ。…とにかく、ありがとう」
丁寧に頭を下げるエトラに、ノルドは遂に声を立てて笑った。




