ホーム・フェイクホーム ②
「食べないの?」
普段は私たちと揃って食事を始める母だが、自身の分が完成しているのにも関わらずキッチンに戻り、続けて作業をしていた。
「今日はね……自分に勝たなきゃいけない、一世一代の大勝負が待ってるの!」
「……?」
母の両手の上には、プラスチックでできた深皿があった。それを落とさないためだとしても慎重すぎるほどに、彼女の足取りはスローであった。
「みっ、みたらしちゃーん」
リビングの隅で欠伸をしている柴犬は、母が忍び足で少しずつ近づいてくるのに気づくと威嚇するように睨んだ。
「う……逃げちゃ駄目……逃げちゃ駄目……」
何とか目的の位置に辿り着いた母は、膝を震わせながら深皿を柴犬の正面に置く。彼女は犬用の昼食も作っていたのだ。
「お口に合わなかったらごめんねー」
柴犬の注目が餌へ移ってからも警戒は解かず、母はゆっくりと後ずさる。
「バウッ!」
「ひえっ」
慄く母を一瞥すると、柴犬は目の前の食糧をもそもそと食べ始める。
「圭さんってもしかして……犬が苦手なの?」
「ええ、昔からあんな感じよ」
ヒナタの耳打ちに私は泰然として答える。何に対しても分け隔てなく接する母だが、犬だけは常に例外であった。
「はぁ……ひとまず安心。やっぱりワンちゃんにはいつまでたっても慣れないわ……」
戻ってきた母は、自身も食卓を囲む一人に加わると共に、ヤマトがここへ来るまでのいきさつを聞き始める。
「えっ、一人で隣の県から来たの⁉」
ヤマトは母と目を合わせはせずにこくりと頷く。朝から電車を乗り継ぎ、私たちとエンカウントする前からあれだけ走っていたというのなら、空腹どころの話ではないだろう。
「大変だったでしょう……自分の家だと思って、好きなだけここにいて良いからね」
「こっ……子ども扱いはしなくていい」
ヤマトは私に名前のことを言われた時のようにむっとなる。
「また生意気なこと言って! 圭さんの子どもになれるとか幸運の極みなのに」
ヒナタが言うと少しばかり別の問題が浮上しそうだが、それについて言及はしないでおこう。
「ワウッ! ワウッ!」
「ちょっ、みたらしちゃ……待って……ひゃっ」
母の作った昼食を食べ尽くした柴犬は、早足で彼女を追いかけながら吠え続ける。懐いているのかそうじゃないのか絶妙に分からない。
「ほっ、ほらリョウカ、いぬさんよー」
「りょうかねこさんのほうがすきだからいい」
「えぇ~っ!」
すると、リョウカの言葉が通じてしまったのか、柴犬は彼女に向かって唸る。
「グルルルル」
「こわいよ~」
「っ、リョウカちゃん待ってて! 今助けるから!」
その様子を傍から見ていたヒナタは一転、瞬間移動し犬の前に立ちはだかる。
「みたらしちゃん、ハウス! ハウス!」
「ハウス……なくない?」
「はっ、そうだった……おすわり!」
「ヴ~~ガウッ!」
柴犬がヒナタの指示に従うことはなく、制服のスカートに噛みついた。
「だ、だめっ! そこは……そこ引っ張ったら見えちゃうから!」
ヒナタのスカートはそのまま引っ張られ、少しずつ下へずれていく。
「うわあああ、ヒナタが色々とピンチ! ヤマトちゃん、みたらしちゃんが好きなものの特徴とか、ない⁉」
「えー……柔らかいものと丸いものでよく遊んでたような」
「柔らかくて丸い……あ!」
鞄の中を手当たり次第に探り、リンカは何かを見つけ出したようだ。
「えいっ!」
誰も迂闊に動けずにいる中、彼女は何もない方向へそれを放り投げる。柴犬はその物体に気付くと、反射的にその方向へ走って向かった。
同時にスカートからその口が離され、ヒナタは解放された。
「うう、助かった……」
柴犬はリンカが投げたものをくわえ、本当の飼い主であるかのように彼女の元へと駆けてきた。その口元から、彼女が投げたのは化粧に用いる円形のスポンジであったと分かる。
「えらいよ~みたらしちゃん」
ハッハッとパンティングしている柴犬をリンカは毛並みに沿って撫でる。
「リンちゃんのことが気に入ったのかな」
「さっきも撫でられてうれしそうにしていたものね」
荒ぶっていた柴犬はひとまず落ち着き、リョウカはほっと安堵の息をつく。
「いぬさん……ごめんね。ひどいこといって」
「ありがと~~……みんな」
汗を拭いながら、母は少し申し訳なさそうに微笑む。
私はといえば、その一幕を経て犬を飼うことの大変さが少し分かった気がする。
食事を終えた後、ヤマトは私の部屋に居座っていた。
「テーブル、借りるぞ」
「ええ」
何を始めるのか気になり振り返ってみると、彼女は丸テーブルに新聞紙を数枚敷き、その上から小筆で手紙を書いていた。
「誰に宛てた手紙なの?」
「……同じクラスの友達。右足を怪我して、ずっと入院してんだ。二週間後に、手術することが決まってる」
「手術……」
小学四年生にとって、手術というものは色々な意味で過酷だ。それを受ける本人は勿論、周りの人間も気が気でないだろう。
「日頃は明るく振舞ってるけど、本当は繊細なやつだから、直接行って励ましてやりたい。でも、俺の小遣いじゃ行けねーし、どうせ面会もできねーから……せめて手紙で」
「そう……」
その人となりは他人事でない気がして、少しばかり胸が痛んだ。
取り組んでいた夏休みの課題が一段落し、反対側に座るヤマトの様子を再び覗いてみる。先ほどの地点から三行ほど進んでいた。
「そういえば、なぜ筆を使っているの? 鉛筆やシャープペンシルの方が効率良く書けると思うのだけど」
私の純粋な疑問に、彼女は首を振った。
「本当に心を込めて書く文は、筆じゃなきゃ駄目だって。手間を惜しんでいたら想いは伝わらないって。じいちゃんにそう教えられたんだ」
「おじいさんのことを尊敬しているのね」
「大和って名前も、じいちゃんがくれた名前だから」
少し恥ずかしそうな笑顔は、瞬く間に寂しい表情へと移る。
「……お前の母親は、優しそうで良いな」
「そうかしら」
「初めて会ったのに、何が食べたいか聞いてくれたり、何でもないことで褒めてくれたりするなんて」
「あなたには、それが普通じゃないと感じられたの?」
「だって……」
筆を一旦置き、墨を補充しながら彼女は不満を述べる。
「俺の母親なんか、上品な洋食じゃなきゃ駄目だとか、言って……俺の好みなんかこれっぽっちも聞いてくれやしねーし、俺のことを見てくれもしねーのに」
一時的な安らぎの場でこれまでの辛い日々を思い出しながら語る彼女の背中は、私にはひどく気の毒に思えた。
「夏休みが終わったら、また元の家へ戻るのでしょう? 一度きちんと話をした方が良いんじゃないの?」
「無理無理。話が通じる奴じゃねーもん」
空笑いをして、彼女はまた筆を取る。
「そう……」
苦渋の末に諦めたことを物語る目を見た私は、それ以上聞き入ることをしなかった。
「書けた……!」
集中できる環境下で行ったことで、手紙は無事に書き上げられた。
「良かったわね」
「いっつもあいつに邪魔されて、集中なんてできたもんじゃなかった。だから、その……」
今度は濁すことなく、私と向かい合ってそのワンフレーズを告げた。
「ありがと」
「どういたしまして……と言っても私はほとんど何もしていないけど」
私の中では優しく言ったつもりだったのだけど、彼女の期待には添えなかったようだ。
「何だよ……笑えよ。美形なのに勿体ないぞ」
「悪いけど、私は笑顔を作れないの」
「はっ、なんで⁉」
「何故かしらね」
きっとそれは、彼女のひたむきな想いとはあまりにも程遠いものだから。
「何だよそれ……って、あれ……?」
不毛な問答だと分かり、彼女は不満そうに立ち上がったかと思えば、今度は私の顔をまじまじと見つめ始めた。
「また変なあだ名をつける気?」
ため息をつきながら呆れていたのだが、その口から出てきた言葉は私の想定とは異なるものであった。
「お前……どこかで見たような気がする」
「えっ?」




