私の中の「氷崎さん」は
彼女は……上見 日向は、不思議な人だ。
色々な表情を見せてくれるからだろうか。彼女と一緒にいると、一人でいるより少しだけ退屈でなくなる気がする。
合計してほんの数時間……共に過ごした僅かな間だけでもそれは分かった。
私をただ持て囃す生徒たちとは違った。いや、彼女たちの思惑を私は知らないから、こう言う権利はないのかもしれないが、彼女は違ったのだ。
まるで、灰色に染まった私の毎日に、色をつけてくれるような……
「――なんて、それは言い過ぎかしら」
ともかく彼女には、誠意を込めてお礼をしなければ。
私の中では、「他人に興味がない」と「他人に関わらない」はイコールではないから。
人として最低限の礼儀を欠いてしまいたくはない。
「フォースメイトになってほしい」という願いは、どれだけ頼み込まれても受け入れかねるが。
それは彼女も分かっているだろう。
代わりに、それ以外のことなら可能な限りは……まあ、彼女は人に多くを求めるような性格でもないと思うけれど。
教室に佇む時計の指す時刻は十一時四十三分。
先程昼休みが開始したところだ。
「少しだけ、彼女に顔を合わせてみようかしら」
全て彼女に任せっぱなしというのは少し心配に感じた。そう思い立って席を立とうとしたとき、
「氷崎さん」
後ろから私を呼ぶ声がした。
「結城さん……」
結城 愛。
私の所属する、二年一組の学級委員。
過去に少し付き合いがあっただけで、そこまで親しい関係ではない。ちょっとした知り合い程度だ。
「上見さんから、無事に手帳は渡してもらえましたか?」
「ええ。彼女の話によると、あなたも協力してくれたそうね。ありがとう」
「そんな、私はただ道を教えただけですし……凄いですよね、上見さん。私には理由は分からないですけど、昨日の内じゃなきゃダメだって、必死になってました。普通、他人の落とし物なんて、次の日に学校で会ったら渡そうくらいにしか思いませんよ。良い友達を持たれたんですね」
そう言って彼女は口元を緩ませた。私の表情はきっと、それとは対照的に見て取れたと思う。
「友達……ではないわ」
「え、違うんですか?」
フォースメイトという言葉ばかりを意識し過ぎていたのかもしれない。
「私に……友達なんて」
今まで何度も心の中で唱えてきた、そのはずなのに、今日はその言葉に妙に違和感を覚えた。
「氷崎さん?」
「ごめんなさい、今の言葉は気にしないで。私はこれから二組の方へ行こうと思うから」
「そ、そうですか……」
「それじゃ」
私は自分の席を立ち、歩き始めた。
「あの、氷崎さん! 余計なお世話かもしれませんが、困り事や悩み事でしたら、私、聞きますよ」
振り返ると、真っ直ぐで慈悲深く、それでいて少し寂しげな視線があった。彼女なりの私への気遣いだったのだろう。
「ありがとう。その気持ちだけで十分だから」
私はそう言い残して、彼女の表情を伺うことなく、前に向き直って歩き続けた。
「困り事や悩み事なんてない」とは言わなかったのは、後から思えば甘えだったのかもしれない。
────────────────
四時間目の授業が終わったが、まだ学習したという実感がほとんどない。あんなにも授業の内容が頭に入らなかったのは初めてだ。
きっとノートに取った文字も後から見返したらぐちゃぐちゃなんだろうな……
何はともあれ、ここからはお昼休み。
「今日はどこで食べる?」
「んー天気良いから外かなー」
お弁当を持って、リンちゃんと並んで廊下を歩いていると、
「上見さん」
誰かに背後から呼ばれた。その「誰か」が誰のことかは一瞬で分かったのだけど。
「氷崎さん⁉」
「少しだけ、時間を頂ける?」
「え……」
私の体は自然とリンちゃんの方へ向いた。彼女は察したようにこう言った。
「いいよ、私先に中庭行ってるから」
「あ、うん」
そうして彼女は突き当たりにある階段を下りていった。その背中がどことなく寂しそうに見えたのは、気のせいということにしておいた。
氷崎さんに連れられたのは、突き当りにある特別教室。
な、何このシチュエーション……
「一応言っておくけど、FOVであなたとフォースメイトになるという頼みは、受けられないから」
「は、はい! 分かってます」
私は当然という素振りを見せた。まあ、ちょっと残念な気持ちはあったけどね。
「それと、あまり深く考えなくて良いと思うわ」
「えっ⁉」
もしかして、私の考えてたことがバレてる⁉ 私が焦りながら返す言葉を考えていると、
「実はさっきもあなたを廊下で見つけて、その時悩んでいるように見えたから。あなたは気づいていなかったみたいだけれどね」
先に彼女がそうつけ加えた。よ、良かった……そういうことか。にしても氷崎さんにも気づかないなんてよっぽど考え込んでたんだな、私。
「不要な心配だったかしら?」
「だ、大丈夫です。ただ、せっかくだからじっくり考えたいなあと思ってて」
「そう、それなら安心したわ」
彼女は平然とした様子で言った。
「……」
「……」
しばらく沈黙があった。
彼女はその場に立ったままだった。
これで話は終わりだと思っていたけど、そうではないのだろうか。
「ねえ」
「は、はい!」
「昨日、どうして手帳を渡しに来てくれたの?」
「え?」
彼女は真摯な表情で私を見つめていた。
その質問の意図は分からなかったが、答えるほかなかった。
「それは……あれがないと氷崎さんきっと困ってるって思って」
「それでも、次の日に渡せば良いという考えはなかったの?あんな夜遅くに出歩いて全く知らない場所を探そうなんて、無謀すぎるわ。そんなこと、普通は考えないと思うけれど」
その表情から彼女は呆れているようにも見えた。
彼女の言う通りだ。何も間違っていない。だけど、私はこう返すに至った。
「そうかもしれません。でも氷崎さんが、FOVにかける時間を一日でも無駄にしたくないって言ってたから、今すぐにでもあれを渡さなきゃって思って、そうしたら、自然に体が動いてたっていうか……多分私、普通じゃないですから」
そう言って笑ってみせた。
「そのために、多くの貴重な時間を無駄にすることになっても?」
彼女は続けて私に問う。
「それは多分、考えてなかったです。きっと、そんなことも考えられないくらい、必死でした。ただ私の行動が少しでも氷崎さんの助けになったらって。それに、貴重な時間でも氷崎さんに捧げられるなら、私は大満足ですよ」
氷崎さんは呆気にとられたような表情をしていた。
「ご、ごめんなさい! こんなの引いちゃいますよね……私、自分の夢中なことになると時々やり過ぎちゃうっていうか」
「お人好しね」
「え?」
「そんなことを続けて、もし私があなたの善意を悪用するような人間だったら、どうするつもり?」
何というか、不意を突かれた気分だ。私には思ってもみなかったことを彼女は聞いた。
「氷崎さんは、そんなことしないと思います。確かに、親からよく騙されやすいって言われるんですけどね。けど、私が氷崎さんのために、好きにやってることだから、気にしないで下さい。私はどんな氷崎さんでも、大好きなので」
再び笑顔で答えておいた。
それは決して彼女の好意を求める手段ではなくて、自分が彼女を信頼していることを伝えるためのもの。そのつもりだった。
少し間が空いてから、彼女の言葉が私の元へやってくる。
「そう、ありがとう、話してくれて。長くなってしまってごめんなさい。友達を待たせているのでしょう? 早く行ってあげて」
「は、はい! こちらこそありがとうございました!」
私は頭を下げてから、急いで階段の方へ向かった。
────────────────
昼食を終え、昼休みも残り数分という時刻。私は配布物を職員室に取りに行った帰りだった。
「意外と重いですね。分けた方が良かったでしょうか」
二階から三階への上りの階段に加えて長い廊下。このクラス全員分のプリントとノート達を抱えて歩くのは少々無理があったようだ。
「マナちゃん?」
「!」
声がした。
積み重なった配布物の束で視界が遮られてどこからの声かは分からなかった。
そして、驚いて一瞬腕の力が緩んでしまったのがいけなかった。
「―――っ‼」
私の腕からクラス全員分のノートとプリントが流れ落ちていく。
それらは床に広がり、順番もバラバラになってしまった。
「ああ……やってしまいました」
「わっ、ごめん! 私が急に声掛けちゃったから」
声の主――上見さんは慌てている。
「上見さんのせいじゃないですよ。私の不注意で……」
私が言い終える前に彼女は床に落ちた物をかき集め始めた。
「あ、ありがとうございます」
私も一緒にそれらを拾い始めた。
「これくらいどうってことないって。お礼を言うのは私の方だし。昨日は本当にありがとね。マナちゃんがいなかったら辿り着けてなかったよ」
「どういたしまして。無事に届けることができたみたいでよかったです」
やはり人助けは良いものだ。
「これ、番号順にすれば良いんだよね?」
「はい! お願いします」
二人で行ったことで、配布物たちを思ったよりも早く元の状態に戻すことができた。
「ではまた」
きっちりと揃ったそれらを抱え直そうとしたとき、
「あ、あのさ、マナちゃん」
「!」
「もし、マナちゃんがさ、自分の好きな人からお礼してもらえるとしたら、何してほしい?」
「……」
答えられなかった。なぜそんなことを私に聞くのだろう。
「ご、ごめんつい……いきなりこんなこと聞かれたって困るよね。忘れて――」
「もしかして、氷崎さんですか?」
彼女の言葉が終わる前に、私は思いついたことを即座に口に出してしまった。
「えっ? あっいや……その」
彼女は顔を赤くして焦っている。その反応はとても分かりやすいものだった。
確かにそうだろう。少し考えてみれば、落とし物をその日中に絶対に届けてあげたい、
そんな相手のことを好きでないわけがない。
「私は別に良いって言ったんだけど、氷崎さんがどうしても昨日のお礼をしたいっていうから……どうしようか困ってるっていうか」
彼女は恥ずかしそうにしながら打ち明けた。悩んではいるが、どこか嬉しそうもあった。
私は配布物を抱え上げてから、微笑んでこう言った。
「私だったら、最初に浮かんだものにしますよ。その人からのお礼のことを思い浮かべたとき、最初に出てきたもの。きっとそれが、自分が心から望むことなんだと思います」
「!」
少し格好つけてしまっただろうか。私も心なしか少しだけ恥ずかしくなってきた。
「い、今のはあくまで私個人の考えなので! 上見さんの思うようにするのが一番ですから!」
私は氷崎さんのことも、上見さんのことも今は詳しく知らない。私のアドバイスなんて少しも参考にならないかもしれない。
だけど、人から相談をされると、ついつい親見になって答えてしまう。
私の癖だ。
「そ、そろそろチャイムも鳴ってしまいそうですし、この辺りで。頑張ってくださいね」
私は振り返ってまた廊下を歩き始めた。午後の授業に間に合うように、少し早歩きで。
すると、少し間を空けてから、私にギリギリ聞こえるくらいの声で彼女がこう言ったのが分かった。
「ありがとう。頑張ってみる」
その声は、私には何か吹っ切れたように聞こえた。
私の言葉が誰かの役に立ったのなら、それほど嬉しいことはない。重い荷物も、さっきより軽く感じられるほどだ。
まるで、あの時、あの場所で感じたように。




