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鵺栖町あやかし譚  作者: いわし
7/12

10月

 十月になると、随分と日が短くなり、九月の残暑も過ぎて朝晩めっきり涼しくなった。

「そろそろ本国からコート送ってもらおうかな」

 げんがそんな事を呟き始めたのは、十月に入って数日が経ち、学生服の上にコートを羽織る生徒が目立ってきた頃だ。宮本みやもとがそれを聞き付け、机から身を乗り出す。

「こっちで買えば良くね?」

「でも、持ってるのに勿体ないよ。他にも冬服とかある程度まとめて送ってもらいたいし」

「ま、それもそうか。……ついでにアメリカのハロウィン菓子とか入れてもらえよ。つか俺が食いたい」

 にしし、と笑う宮本に、幻は苦笑して請け合う。

「そうか、そういえばもうハロウィンの準備が始まる頃だね」

「日本でもデパートやスーパーの一角なんかは、もうとっくにハロウィンっぽくなってるぞ。うちでハロウィンパーティーやるから、予定合うようなら来いよ」

「Thanx!」

 ついでに仮装衣装も送ってもらうことが、幻の中で決定した。



「ただいまー」

 いつも通り玄関の引き戸を開けると、奥から出て来た真稚まわかが言った。

「おお、よく帰られた。道中変事はなかったか?」

「…………」

 満面で微笑む真稚に、幻はひと月近く経っても慣れない。真稚の身体には、まだあやかし左門さもんが憑依していた。

 幻が真稚の父に監禁された日以来、真稚はあやかし左門を自分に憑依させたまま、一度も表層へ現れていなかった。あやかし左門が言うには、今は誰とも話したくないと言っているらしい。

 幻はオロオロとうろたえたが、やしろは理解した風に頷き、「みんな待ってるから早く戻っておいで、と伝えて下さい」と左門に言っただけだった。

 社の祖父は、阿部あべ家の地下室から幻の祖母の遺体の一部を回収してきた。幻は何時間も地下室にいたのに見つけられなかった自分にちょっと落ち込んだ。

「明かりがなかったんじゃから、仕方あるまいよ」

 社の祖父はそう慰めてくれたが。

 いつかと同じように、既に火葬場でお骨にされた状態で渡された祖母のかけらを、幻は骨壷に入れた。祖母の遺体は、大分回収できたように思える。

(そうだな、頭蓋骨が見つかったら……一回アメリカへ戻ろうかな)

 幻は心の中でそう決めた。

 考え事でぼんやりしていた幻に、真稚の姿のあやかし左門が首を傾げ、手に持っていた本を開いた。たちまち現れたのは、あやかし宗右衛門そうえもんだ。

「幻殿は元気がないようですね、兄上?」

「うむ。何か悩み事でもあるなら、我ら兄弟に話してみないか」

「あ、いえ……大丈夫ですよ」

 幻は二人を見て、力無く苦笑した。



「暗い顔をしていると、よくないものを引き寄せるよ」

 夕飯の食器を出していると、鍋を見ている社が幻を見ずにそう言った。

「考えてるのは阿部総代の事?」

 重ねた皿がかちゃんと音をたてた。ふ、と社が背中で小さく笑う。

「今の幻は、昔の俺にそっくりだ。俺も、あの一族を何とか出来ないかってジタバタした事があったよ」

「……社はもう諦めたの?」

「悟ったとも言う」

 お玉で煮汁をすくって味見。うん、と頷いてから社はもう一度鍋の蓋をしめた。

「家族は仲良く一緒に暮らすのが一番だとは思う。でもどうしてもそれが難しいなら、適度に距離を置いてもいいんじゃないかな。あるいは、時間が経てば関係が変わる事もあるし」

「……でも、真稚のダディは」

 社が一瞬動きをとめた。

「それでもダメな時は、もう期待しない。彼らの分まで俺が側にいればいい」

 平坦な声音に少し寒気を覚えて、幻はことさら明るく「そうだね」と返す。社は何事もなかったかのようないつも通りの声音で言った。

「今月はきっと忙しいから、悩んでるひまなんてなくなると思うけどね」

「忙しい? 何故?」

「十月は『神無月』。神の不在に乗じてあやかしごとが増えるんだ……」

 カンナヅキ、と繰り返して、幻はふと社殿の方を見やった。

「じゃあ鵺栖ぬえす神社の神サマも、今月は留守なの?」

「…………。うちの神は、ここ数年ずっと留守なんだ」

「え?」

「……詳しいことはまた今度話すよ。さあ夕飯だ、みんなを呼んできて」

 戸惑いながらも頷いて、幻は台所をあとにする。

 社はじっと鍋を見つめていたが、やがて頭を振って、夕飯の配膳を始めた。


「そのへん、飛び出してくるぞ!」

「OK!」

 とかげのような動きをする黒い塊を素手で掴み、幻はそのぐにゃりとした感触に何とも言えない表情をした。

「幻、Good jobやでー! えいやっ」

 かんが黒い塊をビニール袋の中に捕まえて札を貼る。安堵の溜息をつき、幻は地面にドスンと腰を下ろした。

そう~、ちょっと休憩しようよ」

「あんだぁ、いい若いモンがだらしねえな」

 市内の児童公園は、黒い塊であふれかえっていた。社が結界を張った公園の中で、幻・観・荘の3人がかりで、それらを捕まえようと走り回っている。

「せやけど、あらかた片付いたんと違うか? あと二、三十ってとこか」

「ああ、あと二十六だな。俺が大雑把な位置を認識して、阿幻が視認と捕獲、殯の大哥が封印。すっげえ効率いいなコレ」

「せやな!」

 幻は息を整えながら、恨めしげな目を二人に向ける。

「僕だけ大変な気がするんだけど」

「気のせいだろ」

「気のせいやで♪」

「…………」

 二人はお互いの存在は知っていたらしいが、実際に会うのは今日が初めてだという。でも、それが疑わしいくらい、ものすごく息が合っていた。

「しかし、鵺の大哥と白の小姐はどうしたんだ? 別件か?」

 荘に尋ねられて、幻はピクッと肩を震わせる。

「あ、社はそうなんだけど。真稚はその……」

『?』

 幻は先月の事件と顛末を二人に話した。

「……あの占いの後、んな事になったのかよ」

「お疲れさんやったなあ……」

 労いと同情の声に、幻は頭を振る。

「僕の方は何ともないけど。真稚が心配だよ」

 社には『真稚より幻の方が心配』と言われてしまったが、それは黙っておく。荘と観が、うーん、と唸った。

「まあ鵺の大哥がいるから平気だろうけどよ」

「うん、俺も気にせんでええと思うわ」

「二人までそんな事言う……」

 幻は、かくん、と肩を落とした。こうも口を揃えて心配いらないと言われると、自分が特別心配性に思えてしまう。

「さて。ほなあやかしごと再開しよかー。早よ終わらせて、帰って寝たいわ」

 埃を払って立ち上がり、観が伸びをする。

 今は早朝。時間をずらしているとは言え、「みえない」人が来たら大変だ。立ち上がり、公園の入口をふと見遣った幻は、ギクリとした。

「……あそこ、誰かいる」

 荘と観がババッと振り向く。細身の、少年らしいシルエットが見えた。

「うわー、あかん……入ってきよる」

「結界は無事みてぇだが……どうする、今朝はここまでにしとくか?」

 二人の諦めムードの言葉をよそに、幻は少年から目を逸らさずに言った。

「ううん、手伝ってもらおう」

『は?』

「あれ……僕の弟だ」



「幻の弟の、るいと言います。兄がいつもお世話になっています」

 金の髪に褐色の肌。瞳の色だけ幻と違う。

 玄関先で深々と頭を下げた少年の頭を見ながら、幻は苦笑した。昔から、自分よりずっとしっかり者だった。

「初めまして。高遠社です。こっちはうちのじいちゃん」

「日本語上手じゃのー。遠いとこご苦労さん」

 社と祖父が、ニコニコと自己紹介する。

「あやかしごと、手伝ってくれたんだって? ありがとう」

「いえ。あの程度ならすぐ消せますから」

『消す』という言葉に、ぴく、と社の肩が動く。幻を見遣ると、同じく目だけで『後で説明する』と答えた。

 そんな二人を類が蒼い瞳でじっと見つめている事に気付いたのは、社の祖父だけだ。

『で、ルイ。何しに来たの?』

 英語での兄の問いに、弟は肩をすくめて答える。

『何って。ユェンの荷物持って来たんだよ。冬服とか色々ね』

『送ってくれればよかったのに』

『ほとんどはそうした。けどどうしても、手持ちで持ち込みたいモノがあったから』

『へっ?』

 類はデイパックを背からおろし、がさごそと中を探る。小さな巾着袋を取り出して口をあけた。

『グランマの遺品のロザリオだよ』

 類が取り出したロザリオを見て、幻が驚きに目を丸くした。

『見つかったんだ……! ど、どこにあったの?』

『あの森に落ちてたのを、レイが見つけたんだ。ごまかすの大変だったよ』

 レイは幻と類の妹で、あやかしを視聴きしない。幻と類が祖母と住んでいた森の家に、今でも時折様子を見に行くという。

『ユェンが持っていなよ』

 ぐい、とロザリオを押し付ける類に、幻は不思議そうな顔で首を傾げた。

『僕はグランパの遺品のロザリオ持ってるし、ルイが持ってたら?』

『いいから!』

 声を荒げた弟にビクリと身を震わせる幻。社と社の祖父も、怪訝そうに顔を見合わせた。

 類はそんなこと全く気にせずに、ロザリオをさらに幻に近付ける。

『それともユェン、これが恐いの?』

 どういう意味か問い返そうとした時、類の後ろでガラリと引き戸が開いた。

「只今戻り申した……と、失敬。ご来客でしたか」

 にこ、と人好きのする笑顔を浮かべる真稚……に憑いたあやかし左門だ。

 幻はこの妙な空気を打開してくれた左門に安堵の表情を浮かべたが、類は全く別の表情を浮かべ、素早く行動に出た。

『……この女、悪魔憑きか!』

 叫ぶが早いか、手にしていたロザリオを掲げて飛び掛かったのだ。

 じゃら、と真稚の白く細い首に、ロザリオが巻き付く。そのまま絞めようとした類の手を、幻と社が両側から取り押さえた。

『ルイ! 何してるんだよ!?』

「この子に手を出すなら、幻の弟でも容赦しないよ」

 類が二人を睨みあげる。

『悪魔をかばうのか?』

「悪魔じゃないよ。落ち着いて、類」

 あえて日本語で話しかけた兄の言葉に、類は少し冷静になったのかロザリオを緩めた。

 左門は喉を押さえて咳き込んでいる。それを冷ややかな目で見下ろす類から、幻はロザリオを取り上げた。

「そんなに言うならこれは僕が持っておく。だから機嫌治しなよ」

 ロザリオを持つ幻の手を、まじまじと見つめる類。その目は一瞬恐怖の色を湛えてから、安堵に緩んだ。

『……うん。そうしてよ。肌身離さず持っていて、ユェン』

 幻は怪訝そうに眉根を寄せながら、ロザリオを自分の首にかけた。

「早合点してしまい、失礼しました」

 挨拶の時より一層深々と頭を下げた類に、社が顔を引き攣らせた。

「まあ……もうやめてね」

 はい、と笑顔で頷いた類は、幻に向き直り言う。

『ユェン。使い魔がいるなら最初から教えておいてくれよ』

『え?』

『さっきの悪魔憑きの女、彼の使い魔なんでしょ?』

 ……説明は時間がかかりそうだ。幻は溜息をついた。



『せやから、公園におったあやかし全部、あの坊が一瞬で消し飛ばしよったんやって』

 電話ごしの観の声音は、困った顔が目に見えるようだ。社は小さく溜息をつく。

『向こうに送り返すだけでええのにまあエラいことするなあ、とは思たけど、幻の弟やっちゅう話やし強くは言われへんやん?』

「うん……。それについては幻から言ってもらうことにしたよ。今日はありがとう。お疲れ様」

『せやで、借りは返してやー』

 カラカラと笑っていた観が、不意に声をひそめた。

『……あの弟クンから目ェ離さん方がええで』

「え?」

『荘サンとも話しとったんやけどな。弟クンの幻を見る目ェが、何や気になるんよな……』

 観と荘も何か違和感を感じたらしい。その正体までは分からないようだが。分かった、と頷き社は受話器を置く。

(この忙しい時に、参ったなあ……)

 電話台の前でついた深い溜息は、誰にも届くことなく消えた。



『いつまでいられるの?』

 幻は部屋に二組の布団を敷きながら、弟に尋ねた。

『せっかく来たし、しばらくいるよ。今朝みたいな手伝いなら出来るし』

『観光とかは?』

『ここに来る前にKyotoとTokyoは行ったから。ユェンは学校でしょ。僕の事は気にしないでいいよ』

『……ルイ、あやかしごとの手伝いの事なんだけどね』

 幻は真剣な顔で切り出した。

『今朝みたいに、あやかしを消滅させるような事はもうしないで』

『は?』

 何を言われたのか分からない、といった顔で、類はパチクリと瞬く。

『捕まえるだけでいいんだ。そしたら社が彼岸へ送ってくれるから』

 類は額を押さえ、呆れた顔で首を振る。

『何を甘い事を。それでもう一度こちらへ出て来たらどうするの』

『また送り返す』

『…………』

『何度でもそうする。この町の人達は、ずっとそうして来たんだ』

 凛とした幻の翠の瞳を見返しながら、類は鼻を鳴らす。

『ユェンはグランマの仇をとるためにこの国に来たんじゃなかったの? たった半年で、どういう心境の変化?』

『…………』

『ユェン、君はとうとう「そっち側」へ堕ちたのか』

『え?』

 類の蒼い瞳には、怒りと憎しみ、そして哀しみがないまぜになったような複雑な光が浮かんでいた。

『ルイ?』

『……分かったよ。手伝う時はちゃんとリーダーの指示に従う』

 ばさ、と敷いたばかりの布団を引き被って、類は向こうを向いてしまった。幻はちょっと寂しく思いながら、おやすみ、と呟いて部屋の明かりを消した。



 次の日、ルイが起きてきたのは日も高く昇った頃だった。

 寝癖のついた金髪をがしがしとかきまぜながら居間へ行くと、社が部屋の掃除をしている所だった。

「あ、お早う類君」

 掃除機をとめ、社が挨拶をする。

「お早うございます。寝坊してすみません」

「ゆっくりしてていいんだよ。時差ボケとか平気?」

「はい、大丈夫です」

 掃除が終わったら早めの昼ご飯にするから、と言われ、類は顔を洗いに洗面所へ向かう。洗面所の引き戸をあけると、先客の姿に類の目は一瞬で醒めた。

「っ……!」

 洗面所の掃除をしていた真稚……に憑いた左門が、類の顔を見て壁に背をぶつけた。

 類は蒼い目を細め、すたすたと洗面台の前へ行く。

「安心しろ、何もしない。今はな」

「…………」

 出合い頭に首を絞められた記憶は強い。左門は赤い瞳に警戒の色を強くする。

顔を洗ってしまってから、拭くものがない事に気付いた類は、はたと動きをとめた。

 そこにタオルが差し出され、類はちょっと目を見張ってから、無言で受けとろうとする。が、相手は差し出したタオルから手を離さない。

 類が怪訝な顔で見上げると、赤い瞳が射るような強さでこちらを睨んでいた。

「礼も言えないのか?」

 左門ではない。力のある声音、まっすぐな視線。真稚だった。

「……貴女は、気味悪くないんですか? 自分の身体を悪魔に乗っ取られて」

 ポタポタと顎先から雫を落としながら、類は蒼い目を細める。真稚は銀色の髪を揺らし、首を傾げた。

「別に」

「……おかしな人だ」

「お前に言われたくない」

「は?」

 類に睨まれても真稚は全く動じない。紅い目を挑発的に細めて、タオルを放った。

「お前、自分が幻をどんな目で見てるか、分かってるか? 昨晩私に……左門に向けたのと同じ目だ」

「…………」

「兄弟なんだから仲良くしろ、なんて綺麗事は言わない。が、視界に映すのも嫌なら何故ここへ来た。嫌いなら近寄らなければいいだろうが」

 ぎり、と奥歯を軋ませ、類は拳を固く握りこんだ。

「お前に何が分かる」

「分からないから、何故と聞いてる」

 類が大きく舌打ちし、真稚は飄々と肩を竦める。そこへ、洗面所の戸が再度開いた。

「二人共、何しとるんじゃ~?」

 社の祖父の、能天気な声が二人の敵意を霧散させる。真稚は無言でするりと、社の祖父の隣をすり抜け出ていった。

 それを見送ってから、社の祖父がぽんと手を叩く。

「そうじゃ! 君に面白い話を持って来たぞ♪」

「面白い話……ですか?」

 何となく、理由もないがなぜか嫌な予感がしていた。



「……短期留学生の、類・イグアスです」

 朝のホームルームで壇上に見知った顔が登場して、幻は椅子を蹴倒して立ち上がった。

『ルイ、何で!? 聞いてないよ!』

『僕も昨日聞いたんだ!』

 早口の英語でのやり取りに、クラス中がポカンとする。担任の女性教師が、ぱん、と手を叩いた。

「という訳で、幻君の弟の類君が今月いっぱいこのクラスで一緒に勉強します。分からない事は皆教えてあげてね。以上!」

 きりーつ、礼、と日直の掛け声がかかっても、幻は棒立ちのままだった。



「やっぱ似てるなー、イグアス兄弟」

 昼休み、紙パックのジュースを飲みながら、宮本が感心したように呟く。その向かいで、並んで座った幻と類が同じタイミングで顔をあげたので、宮本はジュースを吹き出しそうになった。

「そういえば類って幻の事、ユェン? って呼ぶのな」

「はい、グランパがそう呼んでいたので……」

「グランパのMother's tongueはポルトガル語だったデスヨ」

 へー、と声を上げてから、宮本が声を落とす。

「類、お前もあやかし視聴きするクチか?」

 類は驚きに目を丸くし、幻を見る。

「宮本も『視る』者だよ。この町の人は、半分以上が視聴きできる人なんだって」

「わお……Umbelievable...」

「類も『視る』者か。そんなら話は早い」

 宮本から聞かされたのは、学園内のちょっとした怪談話だった。

 この学園の高等部には、屋上へ続く階段が一つだけある。掃除もされておらず、ホコリが積もって床が真っ白に見えるほどのそこは、普段は寄り付く者など誰もいない。

「でもな。月に一度だけ、そこに女子の幽霊が現れるんだよ」

 怖い話が死ぬ程苦手な癖に、宮本はこういう話をよく知っている。

「昔イジメに遭って、その階段から突き落とされて死んだ生徒がいたらしいんだよ。落ちた時に汚れたままの制服はホコリだらけで、こう……ありえない方向に首と右脚が曲がって……」

 その時、宮本の震える肩に、白い手が置かれた。

「おかしいわ……まっすぐに歩けないの……」

「っておgっやうあkそぁlっdjぎひゃあああああ」

 宮本が声にならない悲鳴をあげて、机と椅子を数脚薙ぎ倒しつつ教室の隅までかけていった。

 蒼と翠の真ん丸の目が宮本を追う側で、宮本が座っていた椅子の後ろでは一人の女子生徒が腹を抱えて爆笑している。

「ちょ……あっはは! 通、面白すぎるっ!」

「てっめえ、千雪ちゆきいいぃぃ!」

『彼女は?』

『小田さん。宮本のガールフレンド』

『何だ……犬も食わないやつか』

 幻は類の言葉に苦笑した。

「それってあれでしょ? 見た人間は皆死んでしまうってやつ。学園の七不思議の一つじゃない」

 小田は快活な笑顔で、宮本の説明の続きを話してくれた。

「学園の七不思議って何ですか? 世界の七不思議とは違う?」

「アメリカはどうか知らないけど、日本は怪談好きでねー。どこの学校にも七ツくらい怪談があるのよ。……ていうか世界の七不思議の方を私は知らないわ」

 キョトンとした顔で首を傾げる小田に、類は頷く。

「七つもの怪異に囲まれて、この学園の人達は大丈夫なんですか」

「あは、類君面白い事言うねー。大丈夫よ。この国には神様も沢山いるから」

「ああ……神道ですか。聞いたことはあります。ニッポンでは全てのモノに神が宿ると」

「よく知ってるねー! 鵺のお兄さんから聞いたのかな」

 類と小田が喋っている間に、教室の隅で縮こまって震えている宮本に幻が歩み寄る。

「……小田さんは視聴きしない人……なんだよね?」

「あ、ああ。でもだから逆に興味わくのか、そっち系の話には詳しいよ」

 すーはー、と深呼吸して、宮本は立ち上がる。

「幻。今話してた屋上階段の幽霊なんだけどさ」

 宮本は真剣な眼差しで幻を見据える。

「何とか除霊してくれねえか」



「……ということなんだけど」

「うう~ん……」

 宮本の依頼を伝えると、社は難しい顔で唸った。

「俺も羽田君も荘さんも、ここんとこ予定入りっぱなしで……。実際に被害があったと確証がない現場に人手が割けないな」

「そうか……そうだよねえ」

 社はいつになく疲れた顔をしている。神の不在というのは、それ程つらいものなのだろうか。

「そうだ、真稚……というか左門さんと宗右衛門さんなら空いてるな。もしよかったら、幻と類君と真稚で、調査してきてくれると助かるんだけど……」

「え?」

「危険な事はしなくていい。緊急性のある危険なあやかしがいる現場だって分かれば、俺が何とか時間作って行くから」

「下調べってことだね。分かった、任せて!」

 幻は、どん、と胸を叩いた。

「というわけで、明日の放課後僕と調査に行ってくれない?」

「私は構わぬよ」

「僕もいいけど……」

 類はチラッと左門を見て、英語に切り替えて幻に言う。

『僕とユェンだけでよくない? 悪魔に悪魔退治とか、逆に裏切られない?』

 幻はニッコリ笑って、二人に言った。

「じゃあそういう事で、明日は皆であやかし調査ね!」

 類が小さく溜息をついたが、左門は特に気にしていなかった。



「これは……! とても大きな屋敷だな……!」

「屋敷、は何か違う気がするけど」

『外に出てはしゃぐ真稚』という普段ならまず見られない光景に、幻はどぎまぎしながら現場を目指す。

 人嫌い街嫌いの真稚は、神社とその周辺からめったに出ることはない。左門に身体を貸していなければ、今日も一緒に来てはくれなかっただろう。

「えーっと、屋上は確か……」

「もしや、こちらではないか?」

 左門が迷いなく、廊下の先を示した。類が怪訝そうに眉をしかめる。

「何故知ってる」

「私と似たモノの気配を感じる。兄上はどうです?」

「ああ、いるな」

 フッと姿を現した宗右衛門が、コクリと頷いた。幻は左門達が示した方へ進みながら、呑気に笑う。

「左門さんや宗右衛門さんと似た存在なら、悪いあやかしじゃないのかもね~」

 類が小さく鼻で笑った。幻はムッとして振り返る。

「類、何かおかしい?」

「おかしいよ。悪いあやかし? まるでいいあやかしがいるみたいな口ぶりだね」

「いるじゃない、ここに」

 腕を取られて、左門と宗右衛門が照れたように笑う。しかし類はニコリともせず、冷たい目で三人を見てからスタスタとひとりで先に行ってしまった。

 幻が悲しげに溜息をつき、それを見た左門と宗右衛門が困った顔を見合わせている。

 階段の下まで来ると、左門と宗右衛門が確信を持って頷いた。

「ああ……これはいるな」

「いますね、兄上」

 類は胡散臭そうな目を向けていたが、否定もしない。確かに、妙な雰囲気が流れているのは分かる。

「いるならさっさと退治して帰ろう」

「だめだよ、今日は調査だけなんだから」

 幻に止められて、類はイライラした様子で舌打ちする。

「二度手間だろ。いいよ、僕がやってくる」

「ダメだってば! 何かあったらどうするのさ」

「僕なら平気だ」

 そう言い放った類の声音に、幻は背筋に寒気を覚えた。

 普段だったら、類の自信に満ちた強気な発言だと思っただろう。だが今の声は、その裏に込められた思いは。

「類、『平気だ』って……自分ならどうなってもいいって思ってるの?」

 階段を昇り始めた類の足が止まった。慌てて振り返る。悲しげな翠の目が、類を見上げていた。

「どうしてそんな事を……」

「…………」

 踊り場の階段の窓から差し込む西日が、逆光になって類の表情を隠す。

「……ユェンがもういないからだよ」

「え?」

 ここにいるのに、と言いかけたが、微かに見える類の口元が笑みを形作った気がして、幻は口をつぐむ。

(何て哀しい笑い方をするんだ……)

「僕は平気だ。でもユェンはだめだよ」

 そう言った類は口の中で何か呪文を唱え、十字を切る。途端に、幻が床にくずおれた。

「ぐっ……何だ、これ……っ!」

 気絶したとか、身体から力が抜けたわけではない。首からさげた祖母の遺品のロザリオが、急に重さを増したのだ。

「類、待っ……!」

 幻は手を伸ばすが、類はそのまま逆光の踊り場へ消えた。

 左門が幻に駆け寄りながら、類と幻を見比べた。ロザリオに触れようとしたが、バチンと弾かれる。あやかしである左門には、触れる事すらできないようだ。

「兄弟げんかにしては物騒な……私はどうしたらいい?」

「類を……追ってください! お願い!」

「心得た!」

 左門が真稚の白銀の髪をなびかせて、階段を駆け上がっていく。そのあとを宗右衛門がゆらりとついていった。

 幻はそれを見送ってから、ロザリオに両手をかけた。

「ぐ、っ……!」

 ひきちぎろうとしたが、思った以上に丈夫だ。首に擦り傷ができただけだった。

(こんな時、グランマがいれば……)

 一瞬だけそう考えたが、頭を振って思考を追い出す。グランマはもう彼岸へ渡った。自分で何とかしなければ……ロザリオの事も、あやかしの事も、類の事も。



「類殿! 早まってはならん!」

 屋上の扉の前で、類は時代錯誤な呼び止めに振り返った。その蒼い目は、心底迷惑そうに眇められている。

「どこか行っていて下さい。でないと一緒に消しちゃいますよ?」

 ニヤ、と片頬で笑う類に、左門は少し怯んだが、気を取り直して一歩近付いた。

「何故兄君に、あのような真似を……」

「ああでもしないと、うちの兄は頑固なんでね」

「戻ってあの術を解くべきだ」

「すぐ戻りますよ。ここの悪魔を退治したら」

 左門は悲しげに眉根を寄せた。

「類殿は、如何なる用向きで兄君を訪ねたのだ?」

「それ、今答えなくちゃいけませんか」

 聖書を取り出しながら面倒臭そうに左門を一瞥した類は、ギョッとした。左門ははらはらと涙を流していた。

「真稚殿も言っていたが、異国からわざわざ来てまで幻殿を苦しめるなど……。血を分けた弟に邪険にされる彼が不憫でならない。何故そのような事を……」

 中身はれっきとした成人男性でも、見た目は十代の少女だ。女の涙に冷静でいられるほど、類は大人ではなかった。

「……ユェンまであやかしに連れていかれるわけにはいかないんだ」

 ポツリと呟かれた言葉に、左門は顔をあげた。類は悲痛とさえ言える険しい顔をしていた。

「僕が家族と呼べる人はもう、祖母と幻しかいなかったんだ……」

 震える下唇を噛んで、類は俯いた。明かり取りの窓から差し込んだ夕日が、類の瞳からこぼれた雫をきらめかせる。

「類殿。それならば尚更、たった一人の家族である幻殿に、あんな仕打ちをしてはならない」

「……幻を悪魔から遠ざけておくには、ああするしかないんだ」

「幻殿は、類殿が思っておるよりずっと、強い御仁だ。『堕ちかけていた』私に引きずられる事もなく、その上私を救い、兄上と引き逢わせて下さった」

 類が服の袖で目元を乱暴に拭い、暗い目をして尋ねた。

「だけど二人とももう、死んでしまっているじゃないか……」

「確かにその通りだ」

 ふっ、と左門の後ろに陰がゆらいで、宗右衛門が現れる。

 宗右衛門は左門に寄り添いながら、迷いのない口調で言い放った。

「だが、生きているか死んでいるかなど、瑣末な問題だ。祖母君は、亡くなったら家族ではなくなってしまうのか?」

 類はハッとして首を振る。

「……生者と死者では住むべき世界が違う」

「それでも、魂は共にあるはずだ。違うか?」

 宗右衛門はどこか社のそれに似た苦笑を浮かべた。

「おかしなものだな。生前我らは、あやかしを視聴きする事は能わなかった。その我らが、視聴きできる者に魂を説くとは」

 差し込む夕日が弱まる中、それでもまだ表情の晴れない類の背後で、黒い陰がじわりと壁の角に凝っていく。類も左門も宗右衛門も、まだそれに気付かない。

「みんな、かがんで!」

 階段下から鋭く投げられた声に、左門と宗右衛門の二人は無意識に従った。

 目を丸くして立ち尽くしたままの類目掛けて、幻が跳ぶ。いや、『飛んだ』。十二段の階段を一足飛びに飛び上がってきたのだ。そして振りかぶった幻の拳は、類の右頬のすぐ横を通り過ぎていった。

 一瞬固まってしまった後に慌てて振り返ると、幻が黒い陰を両手で捕まえていた。その陰は一瞬少女の形を取り、そして崩れて砂のようになる。サラサラと幻の手をすり抜けた砂が、類に向かってきた。

「類!」

 幻が焦って叫ぶがこの至近距離だ。何もできない。

(これで僕も終わりか……)

 類は静かに目を閉じた。

「……?」

 いつまで経っても何の衝撃も来ないので、もう取り込まれてしまったのかとそっと目を開ける。

 目の前にたなびく白銀の髪が、夕日の名残で微かにきらめいた。

「……あの二人……無茶をして」

 ポツリと呟かれた言葉は、左門でなく真稚のものだった。その足元に本が二冊、バサリと落ちる。表紙も小口も、墨をこぼしたように黒く染まっていた。

「い、一体何が……?」

 呆然と呟いた類に、真稚が冷ややかな目を向けた。

「最後まで目を開けて抗う勇気もないくせに、よく悪魔祓いなんて口に出せるな」

「!」

 キッと鋭い視線を返した類だったが、次の言葉で殴られたように目を見張った。

「左門と宗右衛門があやかしを封じて消えた。お前を助ける為にだ」

 足元の本を拾い、丁重な手つきでホコリを払った真稚は、恭しくその本に額を寄せた。悼むように、讃えるように、礼をするように。

「僕が……あのあやかしを逃がさなければ……」

 幻が眉根を寄せて俯く。真稚は肯定も否定もしなかった。

「土地神の不在でこの辺りの『縛り』が甘くなって、よくないあやかしが活性化したんだな。そんな所に、ぐらぐらと心を揺らしている奴がやって来た。狙って下さいと言わんばかりだ」

「……僕のせいで、あの二人が消えたと?」

 真稚はいつもの無表情のまま、赤い瞳で類を見据える。

「違う。お前の『せい』じゃなく、お前の『ため』だ」

 真稚は黒く染まった本を類に差し出しながら、話を続けた。

「あいつらは自分で選んでお前を助けたんだ。放っておくことも出来た所を、自分達が消えるのも構わずに、そうした」

 真稚は二冊の『雨月物語』を、類に差し出す。

「お前が持っていろ」

「えっ……」

「お前はあやかしに助けられた命だ。それを忘れるな。一生だ」

「…………」

 類はじっとその本を見つめていたが、やがて手を伸ばし、受け取った。幻がホッとした顔で微笑んだので、類は複雑な気持ちになった。

「……先に帰る」

 くるりと踵を返して、類は階段を駆け降りていった。

「待ってよ類、一緒に……」

 追おうとした幻の腕を真稚が掴み、ふるふると首を振った。

 今はひとりにしてやった方がいいという事か。幻は翠の目を伏せ、溜息をついた。

「そうだ真稚、久しぶりだね」

「……ああ」

「心配したよ」

「……悪かった」

 そっけない答えではあるが、幻は満足だ。このままいなくなってしまうのではないかと、気が気でなかった。

「頼みがあるんだが」

 真稚が珍しくそんなことを言い出したので、目を丸くした。 頼られた事が嬉しくて、幻は声を弾ませて真稚に近寄る。

「何? 何でも言ってよ!」

「お茶が飲みたい。買ってきてくれ」

 パシリかよ。

 一瞬そう言いかけたが、幻はその言葉を苦笑で包み込む。五分で戻るよ、と言い残し校内に唯一自動販売機が設置されている食堂を目指した。

(……さて)

 屋上階段で一人になった真稚は、何かを探すように辺りを見回した。

「捜し物はこれか?」

 不意に頭上から声がして、真稚は驚いて天井を見上げる。

 蝙蝠のように逆さにぶら下がって、にやにやと笑っていたのは、少年の姿をしたあやかし。否、あやかしとよく似た気配だが、少し違う。

「……何故神がこの時期にこんな所にいる? 出雲へ行かなくていいのか」

「俺は行かなくていい神なんだよ」

「まつろわぬ神か」

「御明察」

 楽しそうに頷いた神の手には、眼球が二つ。手品師のような指が、ころころと目玉を玩んでいた。

「それを返して欲しい。それは……さっきここにいた少年にとって、とても大切なものなんだ」

 物おじせず真っ直ぐに神の目を見ながら、真稚は力のあるよく響く声で神に言う。力の差に圧倒されてか一瞬くらりと回った視界の中央で、神は薄い唇の両端を吊り上げて笑った。

「どーしよっかなぁ~? 俺も気に入ってるんだよねえ、タダでは渡せないな」

 真稚はぐっと唇を噛んで、眉根をごくごく微かに動かし俯いた。神は天井から音もなく降り立ち、真稚の顔を覗き込む。

「へえ、あんたもなかなか綺麗な瞳をしてるじゃないか」



 類は学園から神社までの道を、走り通しで帰ってきた。

「お帰り、類君。あれ、一人?」

 息を弾ませて戻った類に、夕飯の支度中の社は首を傾げた。

「何かあった?」

「とんだ……」

「え?」

 類は息を整えて、叫ぶように言った。

「飛んだんだ! 幻が! まるで人間じゃないみたいに!」

「……類君?」

「どうなってるんですか、この町は!?こんな所にいたら、幻が化け物になってしまう!」

「落ち着いて、類君」

 社の静かに響く声に、類は我に帰ったように押し黙った。

 鍋の火を止め、類に向き直った社は、じっと類の目を見つめる。褐色の奥で、炎のようにちらちらと揺れる赤い光に類は吸い込まれそうになった。

「……そうか、そんなことが。宗右衛門さんと左門さんは、後で供養しておくよ」

 その言葉の意味を理解して、類はゾワッと鳥肌が立った。自分の心を読んだのか。

「あ、うわああ!」

 社を突き飛ばし、部屋の隅まで後ずさる。

「化け物だらけだ、この町は!」

「…………」

 社は普段通りの苦笑混じりの微笑を浮かべた。

「そうだね、俺は半分人間じゃないし、真稚も気持ちの上では俺以上に人間から距離を置いている。だけど、だからこそ君よりも、幻を救える可能性があると思ってるよ」

「救う? 幻を? そんなの……幻を殺してしまう他に、方法はないんですよ……!」

 歯を食いしばり、拳を震わせて俯く類。その肩に置こうとした手を、社はそっと下ろした。

「大丈夫。幻ならきっと、君が思っているようにはならない。だからそんな顔をしないで」

「…………」

「君がそんなにぐらぐら揺れてたら幻に伝わっちゃうよ」

 ヒュッと喉の奥で空気の漏れる音がした。類は今、泣き出しそうなのを必死にこらえている。

 少しの間息を止め、涙がこぼれないよう天井を仰いだ。大きく息を吐き、ようやく蒼い瞳を社に向ける。

「明日、アメリカに帰ります」

「明日? それは……随分急だね」

 目を丸くする社に、類は自嘲めいた笑みを浮かべた。

「貴方の言う通りだ。僕は揺れています。冷静でなどいられるはずもない。僕は今は幻の側にいるべきじゃないと……よく分かりました」

 あやかしが二人犠牲になって初めて、自分の動揺に気付いた。類は、自分自身が思うほど強くはなかった。

「夕飯出来たら呼ぶから、それまで部屋にいていいよ」

 社のその言葉に甘えて、類は台所を出ていった。反対側の陰に紛れ込むように、人影がいたのに気付かなかった。

 金色の髪がサラリと揺れる。一部始終を聞いてしまった幻の顔色は、褐色の肌でもそうと分かるほど、ハッキリと青ざめていた。

「何をそんな所で突っ立ってる」

 後ろから声をかけられて、幻は文字通り跳び上がった。

「……そんなに驚かなくても」

 相手が予想以上に驚いた事に驚いた真稚が、赤い目を少しだけ丸くして呟いた。

「か、帰ってたんだ。お帰り」

 上擦った声と引き攣った笑顔。様子がおかしいと、一目で分かった。

「……何かあったのか」

「え?」

 幻は一瞬だけ押し黙り、顔を俯けた。

「いや、その……えっと、宗右衛門さんと左門さん。もっとお話しとけばよかったなあって」

「ああ、そうだな。残念だった……」

 納得した様子で頷いた真稚に、幻は心の中で安堵の溜息をつく。

 何故真稚に隠そうとしたのか、自分でもよく分からなかった。だが、さっきの会話の社の言葉を深読みすると、真稚も何か関わっているような口ぶりだった。

(頭がどうにかなりそうだ……)

 類が自分を殺そうとしている。殺す事が救いだと。社と真稚も、自分を救おうと動いてくれているらしいが。

(救うって何から?)

 わけが分からない。誰を問い詰めていいのかも分からない。

「……悪い、今日は疲れたから寝る。夕飯いらないって社に伝えてくれ」

「え、いいけど……直接言わないの?」

「……あー、いや。うん、すぐ寝たいんだ、頼む」

 真稚も幻と同じく、歯切れの悪い言葉で濁した。



「真稚? 幻から聞いたけど、具合悪いの?」

 まだ早い時間から布団を引っ被っている真稚を、社が揺り起こす。

「大丈夫だから」

「それなら少しだけでもご飯食べなさい」

「…………」

「宗右衛門さんも左門さんも、もういないんだからね。逃げようったって無理だよ」

 真稚はガバッと布団をはいで、社をジロリと睨んだ。

「別に逃げてた訳じゃない! 幻の弟にあやかしと交流してもらいたかっただけだ」

「はいはい、そういう事にしとこうね~……ん?」

 社が不意に眉をしかめ、真稚に顔を近付ける。真稚がギクリとして目を逸らそうとしたが、社に頬を捕らえられた。

「左目、どうしたの」

「……どうって」

「見えてないでしょ。誰に『取られた』?」

 真稚は何とかごまかせないかと考えたが、一瞬で諦めた。

「お前には隠し事できないな……」

 のそりと布団から這い出して、机の引き出しからハンカチ包みを取り出す。包みを開くと、眼球がころんと二つ転がり出た。

「交換した。一つと引換に二つだ、いいレートだろ」

 そううそぶく真稚に、社は泣きそうに顔を歪めた。

「ごめん」

「謝るなよ。私が選んでした事だ」

 眼球を渡して、真稚は微かに口角をあげる。社の掌の上で、翠色の光彩がきらきら輝いていた。



「幻坊、何だか元気がないのう」

 社の祖父にそんな事を言われたのは、類がアメリカへ帰る日の朝だった。

「弟が帰ってしまうのが寂しいんか?」

「え、ええ」

 幻は頷く。半分は本当だ。

 だが、類がアメリカへ帰ることで、安堵しているのも事実。

 結局あれからろくに話も出来なかった。当たり前だ。弟に向かって『僕の事殺そうと思ってる?』などと聞ける訳がない。

「何を迷っとるかは知らんがの」

 社の祖父の、かみ締めるような口調に幻は顔をあげた。祖母とよく似た色の、褐色の瞳が穏やかにこちらを見つめていた。

「迷いがあってもなくても、やるべき事があるのなら進むべき方向は変わらん。一直線でも寄り道しても、自分の成すべきを為せば、それはどちらも『成功』なんじゃよ?」

「……『禅』というやつですか? 難しいです」

「そうかの?」

 ほっほっ、と笑って社の祖父はどこかへ行ってしまった。取り残された幻は今の言葉を反芻しながら、類の出発時刻を待つ。

「仕度出来たよ」

「僕、駅まで送るよ」

 幻の申し出に、類は小さく頷いた。

 駅までの道を二人で歩く。類の荷物は来た時とほとんど変わらない。違うのは、祖母のロザリオが幻に渡ったこと。むしろ行きより減っている。

 いや、他にも増えた荷物はあった。二冊の本……雨月物語。

 類はバックパックに入っている本の重さを、肩に感じていた。

 実際は大した重さではない。それでも今生きてこうして歩いていることが、あの二人のお陰なのだと思うと、複雑な気持ちになる。今はまだ、彼らへの感謝の気持ちより、何か背負わされた感が強かった。

 助けてくれと頼んだわけではない。類はあの時――今も、死など恐れていなかった。

 二人とも無言のまま、気詰まりの余りものすごく長い道のりに思えたが、実際は駅まですぐに着いた。

 無人駅のホームで電車を待つ間も、二人は口を開かなかった。線路の彼方から電車の音が聞こえはじめて、二人は同時に安堵で胸を撫で下ろした。

「……じゃあ」

「うん。気をつけてね。ダディ達によろしく」

 やってきた電車に乗り込んでから、類は振り返り短く問う。

「ねえ幻。何の為にここに留まるの?」

 ここに、この町に。

 祖母の敵討ちの為に来たこの町で、幻の目的は既に復讐ではない。祖母の体を集めるため、あやかしごとのため、勉強のため。目的が次から次へ浮かんでは消えたが、発車ベルでハッと我に返った幻は、一息で言った。

「ここにいたいから!」

 ドアが閉まるのとほぼ同時だ。類に聞こえたかどうか解らない。それでも、最後の類の苦笑を見たら、少し気が軽くなった。

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