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「おはようございます、パティさま」
「おはようニーナ。いい朝ね」
ちゅんちゅんと窓の外では小鳥が鳴いている。朝の木漏れ日を受けた窓は葉の形を室内に落としてきらきらと輝いていた。その中に、逆光のようにパトリシアが佇んでいる。その姿にニーナは目を細めて微笑むと、また彼女の向かいの席に腰を下ろした。
「朝から豪勢ですね。いつも私の朝食はパンとゆで卵くらいなものでしたから」
「だからニーナはそんなに細いのだわ。ほっそりしたのもいいけれど、少しくらいふくよかな方が殿方には見初めてもらえるのよ?」
訳知り顔でそんな風に言うパトリシアに、ニーナは苦笑して、シスターですから、とだけ返す。パトリシアは、あら美しくいるのに神さまは関係ないわ、と平然と返すとにっこり微笑んだ。
「さぁお祈りをいたしましょう、我が主へ感謝を」
「感謝を」
ニーナの言葉に続いて祈りを捧げたパトリシアは、神妙な顔からすぐに少女らしい微笑みに変わって笑い声を漏らした。
「どうかなさいました?」
「いいえ、ニーナと一緒の朝食なんて久しぶり」
嬉しくなってしまったの、と微笑む愛らしいご令嬢にニーナは困ったような笑みを浮かべる。
「パティさまが朝食を一緒に食べたいだなんてわがままをおっしゃるから大変でしたのよ。今朝は使用人の方々と一緒に朝食をお作りしたのだけど、その後皆さまが召し上がってる中わたしだけ指を咥えて見てなくちゃだったもの」
「あら、この朝食ニーナも作ってくれたの?」
「ええ。そちらのパンケーキなんて会心の出来で」
今まさに彼女が切り分けて口に運ぼうとしていたパンケーキを瞳でさして、ニーナは綻ぶように笑った。使用人のひとりに、お嬢さまはたっぷり蜂蜜を塗ったパンケーキがお好きと聞いて躍起になって作ったのだ。会心の出来、と言ったとおりうまくいったものは今パトリシアの目の前に。残念ながら少々失敗してしまったものは今は使用人たちの朝食として彼らの胃の中だ。パトリシアはきょとりと青水晶の瞳を瞬かせ、ニーナとパンケーキに交互に視線をやると、ぱっと花が咲いたように笑った。
「まあ! まあまあ! 嬉しいわ。ニーナの作った朝食が食べられるなんて。ん、とっても美味しい!」
「それは大変光栄です。けれど、お口に物が入ったままお喋りしてはいけませんよ?」
「いいじゃない。今はニーナとふたりきりだもの」
厳密に言えば、給仕のために使用人が数名侍っている状態なのだが、彼らは見事に壁と一体化しておりその存在感を感じさせない。これが一流の使用人というものなのだろう。ニーナが密かに感嘆していると、でもそうね。とパトリシアが呟いた。
「ニーナのお料理が食べられるのはとってもとっても有り難いのだけど、みんなが食べている時に食べられないのはつまらないわよね」
「いえ、大丈夫ですよパティさま。明日からは使用人の皆さまと一緒に朝食をいただくので」
「だめよ、ニーナは私と一緒に食べるの! ねぇ、みんな。みんなは私からニーナをとったりしないわよね?」
パトリシアが遺憾だというふうに壁に同化していた使用人のひとりに話をふれば、その一瞬だけ同化が解けた彼は、勿論ですお嬢様、と短く同意する。
「ほら。ね、そうだわ。じゃあ明日の朝からはニーナは私を起こす方に混ざってくれないかしら。起きた時にニーナの顔が見られたらとっても素敵だと思うわ」
「え、それはその、皆さまのご迷惑でなければ……」
「あら大丈夫よニーナ。私、寝起きは良い方よ」
「そういう話では……あぁ、いえ、はい……」
ニーナは、一度こうと決めたらテコでも動かないパトリシアの気質を思い出してそれ以上の言葉を飲み込んだ。どうあってもきっと彼女に丸め込まれる気がする。それに、見事な連携で朝食を作り上げる使用人たちの中に混ざるより、まだ寝ぼけてぐずるパトリシアの相手をした方が足手まといにならないだろうと踏んだのだ。みんなが朝食をとっている中、所在なく佇んでいるのが思いの外辛かったというのもある。
決まりね。と嬉しそうに手を合わせるパトリシアに苦笑して、ニーナは紅茶のカップに口をつけた
※
「パティさま。今日はどのように魔法使いさま方をまわるおつもりですか?」
「うーん、そうね。無難に一階から……と思っているのだけどどうかしら」
ところ変わって正午を少し過ぎた頃、昼食を済ませたふたりは使用人を払って魔法棟のホールに佇んでいた。広々としたホールには豪華な調度品が誂えられており柔らかそうなソファなども設置されているが、今は彼女ら以外に人っ子ひとりおらず、天井にかかった煌びやかなシャンデリアが寂しげに光を放っている。
えぇ、それがいいですね。と返そうとしたその瞬間、突然ドオオオオオオンと地響きのような音が屋敷中に鳴り響き、同時にグラグラと僅かに地面が揺れた。パラパラと屑が天井から降ってきて、シャンデリアが大きく揺れる。ニーナとパトリシアはキャアと悲鳴をあげて互いに縋り付くとその場に力なくへなへなとへたり込んだ。揺れはすぐに収まり、その後、また何もなかったかのように静まり返る。
「な、なにかしら……!?」
「パティさま、二階です!」
「向かいましょう!」
少女らは互いに顔を見合わせた後に小走りで音の震源地に向かう。螺旋階段を登りきり、広々とした長い廊下を走った先でもくもくとわずかに白い煙が登っているのがわかった。
「か、火事!?」
「いいえパティさま、これは土埃……ですね」
「ど、どうして室内で……?」
ふたりがまたそうやって呆然と地面に立ち尽くしていると、やがて土埃は薄くなり、その中でひとりの人影が倒れているのが目に留まった。キャアとパトリシアが悲鳴をあげる中、ニーナは慌てて駆け出した。
うつ伏せになって倒れているのは短い金髪の男性だった。ぷすぷすと彼からわずかに煙が上っているのを見る限り、爆発は彼の相当近くであったのだろう。ニーナは慌てて彼の隣に両膝をついてしゃがみこむとその肩を控えめに揺らす。
「もし、もし。だいじょうぶですか?」
二、三度揺すったところで、男性がゴロンと転がると仰向けの態勢になってじっと切れ長のチョコレート色の瞳でニーナを見上げた。唐突のことで心臓が跳ねたが、生きていた様子にほっと息をつく。大丈夫ですか? 見えていますか? と尋ねようとしたその矢先、ぱしり、と彼を揺すっていた手を突然握られ肩が震える。男性に手を握られたのは初めてだった。
「あ、あの……?」
「シスター? やっべー、オレ遂に死んだ感じ? 目覚まし時計で死ぬとかマジ洒落になんないんですけど」
「……はい?」
「あ、でもお迎えがこんな美少女なら悪くないかも」
よく分からないことを口走る青年に混乱するニーナに構わず、彼はそう言うと、彼女の白魚の手を引いてその甲に軽く口付けた。どん、と心臓の一等奥深いところで先ほどにも負けない地響きが起こった気がした。
「き、キャアアアアアアアアアア」
「ニーナに何をしているの!? 無礼者、離れなさい!」
途端に手を払いのけて後ずさったニーナと、ふたりの様子を遠巻きに見つめていたパトリシアがぐいっとふたりの間に割って入った。金髪の男性は、ニーナの悲鳴と唐突に現れたドレスの少女に少なからず呆気にとられたようだ。ぱちぱちとチョコレート色の瞳を瞬いて、ぱくぱくと真っ赤な顔で唇を震わせるニーナと、怒り心頭と言った様子で仁王立ちするパトリシアを交互に見つめ、そこでやっと自分の現状に思い至ったようで、あれオレ死んでない? と呟いた。
青年はぱっとバネのように起き上がると、その様子にびくりとしたパトリシアをゆうゆうと見下ろし、あーなるほど。と頷いた。
「……なんですの?」
「いや、キミが昨日来たっていう新しい魔法使いの子かーって。そこのシスターちゃんは魔力感じないからキミのお付きの子かな?」
そう言い当てて見せた青年にふたりは目を丸めた。眠そうにボリボリと頭をかく青年は、とても綺麗な顔立ちをしているのに、あまりにも無気力でやる気なさげに見えた。それが彼の美しい顔立ちも手伝って至極胡散臭げに見せる。
「あなた、もしかして」
「ん! オレも魔法使いだよ。アッシュ=ベイエンド。好きな女性のタイプは女性。よろしくね」
そう言って茶目っ気たっぷりにウインクをしてみせたアッシュは、呆然としているパトリシアに構わず握手を求めるように片手を差し出した。パトリシアは暫し動揺して迷って、しかし淑女らしくそれを表に出さないように努めたのか、
「ええ、よろしくお願いしますわ」
と手を差し出そうとして、はたと気付く。
目の前の青年は薄い白地のシャツを一枚上に着ているだけだと。そしてそのボタンは全開で、彼の逞しい胸板から腹筋までが全て露わになっていることを。
「なっ」
「ん?」
「こっこの、無礼者ーーーーー!!!!!」
※
「いやー、最近朝めっきり起きれないからさ〜、じゃあどうしたら起きれるかって。そこで目覚まし時計思いついたわけよ。まぁいわば時間差爆弾魔法の応用だね。それを時計に仕込んで、まぁ最初だから昼の一時半にセット。でもうまくいったはいいけど、ちょっと込める魔力量多過ぎちゃったな〜って。まさか部屋ごと吹き飛ぶとは思わないもんな〜。一応とっさに防壁張ったから怪我ひとつ無くてこの通りピンピンしてるわけだけど、パトリシア様も気をつけたほうがいいよマジで。魔法に不慣れな段階で使ったら四肢吹き飛んじゃうからね」
「ご心配なく、永遠に使う予定はございませんわ。私にはニーナという優秀な目覚まし係がいるので」
「へ〜。じゃあオレもニーナちゃんに起こしてもらおっかな〜」
「許すわけありませんでしょう。次私のお友達に妙な行いを働きましたら、私許さな───いいえ、その前に」
かつかつと廊下を進みながら軽妙な軽口に無意識に相槌をうっていたパトリシアは、そこではたと気づいたと言わんばかりに足を止めた。
「どうして付いてきてますの、貴方」
彼女の隣でニーナが、え、今更といった顔をするが、パトリシア自身なぜかこの男の奇妙なペースに乗せられていた自覚はある。
くるりとドレスの裾を翻して振り返った先のアッシュは、先ほどふたりの少女に顔を真っ赤にして怒られたこともあってか、今は白いシャツの前をしっかり締めている。とはいっても、第二ボタンまでだらしなく開け放たれ、しっかりと鎖骨が見えてしまっている状態なのだが、先ほどの惨状を知っているふたりは感覚が麻痺してしまっているようでそれを受け入れてしまった。アッシュは当然といった顔をして、パトリシアの胡乱な目つきを受け止める。
「パトリシア様たち、ここの魔法使いに会いたいんでしょ? ここの奴ら、だいたいめんどくさい性格してるから仲介人がいた方が便利だと思って」
そうあっけらかんと言われてしまえばパトリシアはぐっと言葉に詰まるしかない。たしかにパトリシアとニーナ、ふたり揃えて魔法使いというものは偏屈、といったイメージが往々にしてある。それは目の前の男のせいでたやすく打ち砕かれてしまったのだが、ただ彼が例外なだけかもしれない。そう思ってしまうと、たしかに彼がいた方が便利ではある。めんどくさい性格、とは彼自身も指していると思うが、とっつきやすさでいえば彼は随分と気安い方だ。素直に任せた方が良いのではないか、とはパトリシアもちらりと考えたが、友人思いな彼女は先ほどのニーナへの蛮行を許せずにいた。
パトリシアがそう思って気遣わしげな視線を向けたことを彼女も察しているらしい。柔らかく慈愛に満ちたシスター然とした瞳で微笑んでニーナは言った。
「手伝っていただきましょう? パティ様。わざわざこうして申し出てくださるんです。悪い方ではありませんわ」
人の良いニーナは些か他人というものを信じすぎなきらいがある。隣人を愛せ、と神は言ったが、貴族世界のいざこざに揉まれた経験のあるパトリシアは、悪意にまみれた人間がいるということもきちんと知っているのだ。
……けれど、たしかに今は彼女の言う通りかもしれない。
「ま、オレはただ暇だから可愛い女の子たちと一緒にいたいだけってことなんだけど」
───前言撤回である。
あのニーナにすら、どうしようこの人という視線を向けられているアッシュはある意味大物だ。たしかに魔法使いは往々にしてめんどくさい性格をしているようだ。
私、この中でやっていけるかしら。
パトリシアは小さく嘆息した。