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ガタゴト、ガタゴトと馬車が揺れる。
その音に耳を傾けながら目の前に座るパトリシアを見つめると、それに気づいた彼女は青白い顔を固くさせていじらしく微笑んでみせた。ニーナはそれに返すように精一杯の微笑みを浮かべる。大丈夫です、ニーナが一緒です。彼女にそんな思いが伝わればいいのだけど。
ふぅと吐きそうになった溜息を堪えて、ニーナはパトリシアに倣って窓の外に目を向ける。新緑の季節の王都は、見慣れた街の外れからどんどんと中心部である王城に向けて馬車を走らせる。ニーナが普段利用するものとは違い、二頭だての御者付き馬車は王家から遣わされたものだ。柔らかなソファといい、その乗り心地もさることながら、やはり御者がいいのか揺れも少ない。他の使用人や荷物は後に続く男爵家所有の馬車が積んでいる。快適なはずの行程は、まるで処刑台に続く長い道行きにも思えた。
───私をお嬢さまの使用人として連れて行ってくださいませ
昨日、騎士へ向かって啖呵をきったのがまるで遠い昔のようだ。
やはりと言うべきか、あの場ではそんなニーナの要求も騎士に一蹴されたのだが、あの後パトリシアと共に男爵家へと赴き、男爵へ直談判したところ男爵は喜んでそれを受け入れた。男爵も愛娘が突然魔法使いとして王家に貰われていくことに絶望を感じていたようだ。普段の福々とした姿は何処へやら、げっそりとやつれた様子の恰幅のいい男爵は、パトリシアをよろしく頼む、と何度もニーナに念を押した。勿論です、と頷き返したニーナはこの恩人に何があっても報いなければと心に炎を燃やした。夫人にも挨拶をしたかったのだが、今朝使いの騎士が来た時点で倒れてしまったらしい。
男爵の口添えもあってか、ニーナの使用人としての審査は思いのほかあっさりと通ったようだ。と、いうのも、パトリシアが魔法使いだと判明した時点で本人の生活態度から交友関係に至るまで全て調べつくされていたらしい。王城に伝令を遣わせた騎士が忌々しそうにニーナを見たが、彼女は知らんふりを突き通した。
マザーにも事情を話し、教会を出ること、そしてもう二度と帰れないであろうことは伝えた。マザーも先輩シスターも名残惜しんで寂しくなるわ、と言ったが、それでも「頑張っていらっしゃい」と背中を押してくれた。ニーナにとって教会は第二の家だった。いや、実家もどこにあるか、両親の名前さえ知らないのだから、実のところニーナにとっては唯一の家ともいえる。とてもあたたかいところだった。ニーナは、それまで自分より余程不安だろうパトリシアの前だからと気丈に見せていたが、教会でみんなの顔を見た時そこで初めて泣いてしまった。そんな彼女を抱きしめて、マザーは「いつでも帰っていらっしゃい」と頭を撫でてくれた。
意外にも、最後まで一番渋ったのはパトリシアだった。
曰く、ニーナは一人前のシスターになる事が夢だったんでしょう、と。
確かに、ニーナの夢は一人前のシスターになること。そして、お世話になった教会に、命の恩人である男爵夫妻とそのご令嬢に報いることだった。
魔法使いとなったパトリシアの使用人として王城に向かえば、ニーナのシスター修行はそこで終わる。まだ見習いシスターの身なのだ。そばに導いてくれる師がいなければまだまだ半人前、それも魔法使いであるパトリシアの生活に常に寄り添うようになれば、今のような神主体の、祈りと慈善活動を主体にした日々は送れなくなるだろう。
けれど、それがなんだと言うのだ。
神を信じる心があれば教会でなくとも祈りは捧げられる。王城の中は自由に動けると聞いたので、王立図書館でいくらでも神学の勉強はできるだろう。シスターではなくなるが、自身を貞淑にと神に捧げたこの服を脱ぐ気はない。マザーもそれでいいと言ってくれた。
それをそのまま伝えると、でも、とパトリシアは食い下がった。ニーナはそんな意外に頑固な質のお嬢さまに笑って、「私の夢は常にパティさまと共にあるのですよ」と告げた。
ひとつめの夢は叶わなくなるが、ふたつめの夢なら叶う。「私を命の恩人に報いる事も出来ない無作法ものにしないでくださいませ」と微笑むと、パトリシアはまたほろりと綺麗な涙を零して、「ありがとう」と囁いた。
そうしてニーナはパトリシアに付き添って王城へ足を運んでいる。
今日もニーナは代わり映えしない黒の修道服だ。亜麻色のまっすぐの髪を背中に流して、エメラルドの瞳をひとつ瞬かせる。私がしっかりしなければ。きゅっと胸元から垂らした神の紋章を握りしめる。不安なのはパティさまの方なのだから。その証拠に先程からずっと所在ない瞳をあちこちに彷徨わせている。青水晶の瞳が一度ぱちりとニーナを捉えて、悲しげに伏せられた。
パトリシアは王城に任務として赴くこともあって、今日は控えめながらに華やかな薔薇の意匠を施されたブルーのドレスを着こんでいる。彼女の瞳の色に良く映えて綺麗だと、ニーナは思う。サテンのつるりとした生地に縫いとめられた黒のレースとフリルは彼女を一層大人っぽく綺麗に見せる一方で、まるで喪服のようにニーナには見えた。
今日、彼女は貴族令嬢という己を殺すのだ。
それがとても痛ましい。
そんなことを考えているうちに馬車がゆっくりと停車する。窓の外を覗くと、どうやら王城の門扉についたようだ。どくりと胸がなってニーナは息をのむ。パトリシアはぼうっとした瞳で窓の外を見つめていた。
やがて、門番と何か交渉し終えた御者が走らせた馬車が、仰々しく開かれた門を通り抜ける。円形のアーチが続いた庭内はいたるところに庭細工が施してあり、季節折々の花が咲き誇って、遠くの方には水飛沫を太陽光に反射させる大きな噴水があつらえられていた。その光景にニーナは目を奪われる。ほうと小さくため息をついて小さく横目でパトリシアを窺うが、彼女はやはり茫洋とした目つきのまま遠くを見つめていた。庶民のニーナとは違って、貴族のパトリシアは何度か目にしたことがある光景なのかもしれない。少しでもパティさまの気が紛れればと願ったが、それはあまりにも浅はかだったようだ。
ガタゴトと馬車は続く。広い庭内はようやっと建物の影らしきものの姿を現した。それはあまりに大きな建物だった。奥にそびえる王城は塔のように立っている。中心部に城を置き、その周辺にはいくつも、見慣れた男爵邸よりも大きな建物がそびえ立っている。その中をガタゴトと馬車は進む。王城は遠くから見つめるばかりだったが、こんなに大きかったのか。これは迂闊に出歩いたら迷子になってしまうだろう。いや、王城の中をシスター風情がうろちょろとするなんてこと出来るはずもないのだが。
そう思っているとガタリと馬車が停まった。それは王城の中心部にそびえる城の前だった。びくりとパトリシアの細い肩が跳ねる。ニーナはすぐに席を立って彼女の隣に移動すると、その細い震える手をきゅっと握る。パトリシアがゆっくりと隣を向いてニーナと目を合わせた。その深い水の底のような青の瞳は不安げに揺れている。今にもその瞳の海から涙がぽとりと溢れてきそうだった。
こんこん、と馬車の扉が控えめにノックされ、ふたりはぴくりと肩を震わせ顔を見合わせた。
「……はい」
控えめにパトリシアが返事をすると、ゆっくりと扉が開かれ、ひとりの老齢の紳士が佇んでいた。彼は深い綺麗なお辞儀をする。
「チェスター男爵令嬢様。王が謁見をお望みです。お迎えに上がりました」
「えっ……」
パトリシアは小さく声をあげると口元を抑えた。ニーナも同様に目を見開く。老人紳士に動じた様子はない。
確かに、新たに魔法使いとして王城に上がるのならばいつかは王へ謁見する機会もあるだろうと踏んでいた。けれど、まさか今日今すぐにだなんて。
そんな思いを込めて見つめるが、けれど老人紳士は、お手を、とパトリシアに向かって白い手袋の嵌められた手を向けるばかりだ。パトリシアは一度その手を見つめてからニーナを振り返り、また紳士に視線を戻した。
「あの……彼女は……」
「お付きの方とお荷物は先に魔法棟の方へお送りするように命じられております」
「で、でも彼女だけでも……」
「先にお送りするように、と命じられております」
パトリシアは震える声で食い下がるが、紳士は機械的に繰り返すのみだ。ぐっと言葉に詰まったパトリシアは泣きそうな瞳でニーナを振り返った。その表情にニーナが口を開こうとした時、きっとパトリシアが眉を引き締めた。重ねた手が強く握られる。驚くニーナをよそに、パトリシアはすぅと息を吸い込むと静かな声で
「……わかりました、向かいます」
と告げた。
「パティさま……」
「大丈夫よニーナ、心配しないで。でも、戻ったら私のこと褒めてくれる?」
「ええ、勿論です。ご健闘を……というのは変かしら?」
「いいえ、嬉しいわ。ありがとう」
パトリシアはくすりと笑うと、繋いだ手を胸元に持ってくるときゅっと握った。それはふたりの間の合図だった。ニーナが失敗して落ち込んだ時、パトリシアがお稽古ごとが嫌になって逃げ出した時、ふたりでこうやって手を繋いで胸元でお互いの熱を確かめあったのだ。ふたりなら、どんなことでもきっと怖くないと。
「いってきます、ニーナ」
「いってらっしゃいませ、パティさま」
パトリシアは紳士の手を借りて優雅にふわりと馬車から降りると、開かれた扉に背を向けて、凛とした佇まいで紳士の後をついて行った。その背中を微笑んで小さくなるまで見つめてから、ニーナは自分で扉を閉める。ガタン、と一度馬車が揺れると、馬はひとつ嘶いて、また魔法棟と呼ばれる場所へ向かって走り出した。