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天才黒猫系魔法使いと見習いシスターを主軸に色々な男女恋愛を書いていくつもりです。よろしくお願いします。
「………ちょっと、退いてくれる?」
ニーナに組み敷かれた青年は、その蜂蜜を溶かしたような金の瞳をじっとりと歪めて、覆いかぶさった彼女をまっすぐに見つめた。長い黒の睫毛がゆっくりと瞬いて、しっとりと潤った唇が硬直したニーナを呆れるようにふぅと溜息を零した。人形のように整ったその容貌の中で、ただそこだけが彼を人間たらしめる。
唖然とどんぐりのような目を丸めたニーナは混乱する頭の中で、先ほど胸に抱いたばかりの黒猫を頭に思い描いた。
ああ、迂闊に触れちゃいけなかったのよ。
だってここは、魔法使いのお屋敷なんだもの───。
※
魔法使い。この国にはそんな特権階級が存在する。
例えば自由に空を飛んだり、一瞬で場所を移動したり、人の心を自由に操ったり───。まるで夢見ごとのような、そんな能力を持った者たちは、この大国アルエルアでは貴族制度のヒエラルキーの外にいる。たとえ生まれがどんなに卑しい者であろうと、逆にどれだけ恵まれた者であろうと、一律《魔法使い》として権力の外にいるのだ。
彼らは税を免除され、その能力の研究には国から惜しみなく資金が供給される。そしてそんな特権と引き換えに、魔法使い達は《魔法軍》として有事の際に連れ出されるのだ。そうして小国エルアリアは大国へとのし上がった。その裏には魔法使い達の長い迫害の歴史があるのだが……、それはここでは割愛しよう。
兎にも角にも、ニーナはそんな国で特にこれといった魔法能力も持たず、平々凡々に生を受けた。幼い頃、顔も思い出せないような赤子の頃に野盗に襲われ両親を喪った彼女は、そこへ偶然通りかかったチェスター男爵に拾われた。信心深い男爵夫人が多額の資金援助を行なっている教会へとニーナは託され、彼女はそこでのんびりと、やはり魔法能力は開花することなく十五の歳まで育った。
老齢のマザーシスターをはじめ年上の多い教会で、母に連れられて礼拝に訪れるひとつ年上の男爵令嬢パトリシアとは姉妹のように心を交わし、ニーナはいつか一人前のシスターになることを夢見て、穏やかに毎日を生きてきた。きっと明日も同じ日々が続くと信じて。
そんなに世界も、彼女の信仰する神も優しくないと知ったのは、涙で頬を濡らした幼馴染のパトリシアが教会へ飛び込んできた時だった。
「ニーナ、ニーナ。ああ、私どうしましょう」
混乱しきった様子ではらはらと涙を落とす美しい幼馴染の男爵令嬢に、教会に礼拝へと足を運んでいた人々がぎょっとして視線を向ける。時刻は正午を過ぎて少し、昼の礼拝へいつまで経っても姿を現さない男爵夫人とパトリシアを探して狭い教会の中に視線を彷徨わせていたニーナも目を剥いた。慌てて蹲ってしまったパトリシアの元へと駆け寄り、修道服の裾が汚れるのも構わず側へ膝をついた。
「パティさま、どうなさったの。泣かないで、目が腫れてしまうわ」
「だって、だってニーナ」
どうしよう、どうしようと混乱しきった様子でかぶりを振るパトリシアをなんとか宥め、ニーナはマザーに昼の礼拝は後で済ますことを伝え、彼女を伴って自室へと向かう。その間もずっとパトリシアはほろほろとその青水晶の瞳から涙をこぼし続けドレスの裾を濡らしていく。いつも姉のように、しっかりと令嬢然とした立ち居振る舞いをするパトリシアのこんな姿を見るのはニーナも初めてのことで、我知らずじんわりと手に汗が滲む。
慣れ親しんだ自室の古くなった木の扉を開けて、簡素な自室のベッドにパトリシアを座らせると、その隣に寄り添うようにニーナも腰を下ろす。細く折れてしまいそうに頼りない背中をさすって、ニーナは、どうなさったのともう一度問いかけた。その問いにパトリシアはびくりと肩を震わせて、おずおずといった様子で震える唇をひらく。
「ニーナ、わたし、魔法使いなんですって」
途切れ途切れに、絶望の色を纏わせて告げた彼女の言葉に、ニーナは驚いて目を丸めた。
「魔法使いって……、どうして? パティさまは魔法をお使いになられなかったでしょう?」
「ええ、私も今だって信じられないわ。でも、今朝王家の使いの方がいらして、私を魔法使いと認定するって。なんでも以前王家主催のパーティーにお呼ばれした際に魔法石が反応したらしいの。私、まだ自分が何の魔法を使えるかさえ分からないのに」
パトリシアは震える声でそこまで告げると、また顔を覆ってわっと泣き出した。
ニーナはそんなパトリシアの背中をさすることすら忘れて、ただ呆然と彼女の細い絹糸のようなバターブロンドの髪を見つめる。
魔法石とは魔法に疎い市井のニーナでも聞き覚えがあった。魔法使いの魔法を増幅させる人工の石。とても稀少なものらしいが、魔法使いがひとりにつきひとつと、王家のみがその所持を許されているらしい。それが反応するのは魔力を感知した時のみ。つまり、魔法石が反応するということはそのままその者が魔法使いであることを示す。魔法使い以外には路傍の石にも劣る魔法石を王家が所持する理由は、他国から素性を隠し近づいて来た者が魔法使いではないかなどや、今回のように国内の隠れた魔法使いを見つける時などに使用するというが────。
ニーナはそこまで考えてゆっくりとかぶりを振った。
そんなことはどうでもいい。王家主催のパーティーがあったのは確か三日前のことだ。
階級の低い男爵令嬢であるパトリシアが珍しく王家に呼ばれるため、彼女は張り切ってドレスを新調していた。そしてそれを一番先に見せたいのだと、それはもう美しく、彼女の胸元を彩っていた宝石など比較にもならないほど綺麗にめかし込んだパトリシアが夜会の前に教会へ馬車で乗り付けてきたのは夜の礼拝を終えた頃だった。彼女の美しさを手放しで褒め称え、自身の大切なお嬢さまの可憐な様子に鼻を高くしながらパトリシアを見送ったのは記憶に新しく、よく覚えている。
あの日に魔法石が反応し、今日王家から使いが来たのならなんと迅速な行動だろう。いや、各国のどこよりも早く魔法使いへの迫害をやめ、その力を取り込むことによって国を大きくしたと伝えられる我が国アルエルアなら、それも当然なのかもしれない。
ニーナはひっくひっくとしゃくりをあげるパトリシアの柔らかな髪を優しく撫で、いたわしそうな目でさめざめと泣く彼女を見下ろす。
魔法使いとは特権階級である。貴族制度のヒエラルキーに属さない、とは言われているが、その実この国では王家に継ぐ権力を持っていると言ってもいい。しかしそれは軍属という死と隣り合わせの元にある。
魔法使いはその戦力の強さを買われ、有事では誰よりも前線に立つことを余儀なくされる。また、謀反や謀略を恐れられ、王城の一角に、まるで幽閉のように一生を閉じ込められるのだ。外出も自由ではなく、だから王都に住むニーナでさえも魔法使いという存在はこの目で見たこともない。
そんなところに、大切なパティさまが連れて行かれる。
ニーナはぞっとして、ぎゅっと強くパトリシアを抱きしめた。彼女の体は冷たく震えていた。パトリシアもまた、ゆっくりとニーナに触れると縋り付いてわんわんと大きな声で泣いた。じんわりとニーナの瞳にも涙が浮かんで噛み締めた歯が震えだす。
「ニーナ、私こわいわ。戦いなんて嫌よ。お父さまとお母さまと離れたくない。ニーナとずっと一緒がいいわ。そしていつか素敵な殿方と結婚して幸せになるの」
「かわいそうな、かわいそうなパティさま」
ほろりと涙がこぼれそうになったニーナの耳に、にわかに騒がしい音が聞こえて来た。
今は礼拝の時間ではなかったか。いや、それよりこんな教会の奥にまで足を運ぶ人間はいないはずだ。シスター方がまさかこんなに騒がしくするはずがない。
そう思って顔をあげようとしたニーナの目の前でバン! とつよく扉が開かれた。見ると、鎧を纏ったいかにも無骨そうな男三人が廊下に立っている。目を瞬かせたニーナに倣って、パトリシアもまた涙に濡れた顔を上げ、その男たちを見ると途端に顔を青く染めた。遅れてシスター数人が焦ったように後を追いかけてくる。
「チェスター男爵令嬢殿。勝手に出られては困ります。今、貴女は王家の保護下にあるのですよ」
ひとりの男がずい、と前に出て、不躾にもニーナの部屋へと足を踏み入れるとそう声高に言った。先輩シスターがおろおろと、騎士様ここは男子禁制で……と追い縋っているところを見ると、なるほど彼らが王家より遣わされたという使いらしい。ニーナの腕の中でパトリシアが青ざめた顔でふるふると首を振る。
「嫌ですわ。私、帰りません。私が魔法使いなんてなにかの間違いですわ」
「いいえ、間違いではありません。確かに貴女は魔法使い様です。さ、早くお屋敷にお帰りになってお荷物をお纏めください。明日には王城にご移動いただきます」
「いやですわ。私、わたし……」
ぎゅうとより一層ニーナにしがみついてパトリシアは首を振る。頑是ない子供のようなその様子に騎士が呆れたようにため息をついた。つい、と後ろの部下らしき若いふたりに視線を送ると、彼らはすっと前へ出てニーナとパトリシアの前に立ちふさがった。
「チェスター男爵令嬢殿、手荒い真似はしたくありません。どうか大人しく一緒に来てください」
「そこのシスター、ご令嬢を離せ」
ずかずかと男子禁制のシスターの部屋へ侵入したばかりか横柄な物言いをする騎士にニーナは眉をしかめる。
「そのような物言いはよしてくださいませ。お嬢さまは怯えておいでです」
「おまえが大人しくご令嬢を明渡せば済むことだ」
「明渡せばなんて……お嬢さまを物のように言うのはやめてください」
ぎゅうとパトリシアを抱きしめる手の力を強くして、きっとニーナが睨みあげればふたりの騎士はめんどくさそうに目を諌めた。かたかたと腕の中のパトリシアは震えている。
こんなことをしても王命は絶対だ。この騎士たちの言うとおり、明日にはパトリシアは王城へ連れられていくのだろう。そうすれば、きっとニーナとパトリシアはこんな風に会えなくなる。いや、もしかすると一生会えなくなるのかもしれないのだ。そうなるならば、今この時だけは、怯えるパトリシアに寄り添ってあげたい。そう思うのはきっと我儘なんかじゃないはずだ。
姉妹のように育ったふたりだ。命の恩人の娘なのだ。この命を賭してもそばにいると誓った、世界で一番大切なお嬢さまが震えているのだ。私がそばにいなくてどうするだろう。
そんな思いを込めて、ゆっくり息を吐くとニーナはもう一度ふたりの騎士を見て、次は扉のところに立っている上司らしき年かさの騎士を見つめる。騎士は厳しい顔でこちらを見つめており、少しひるみそうになるが覚悟を決めてしっかりと目を合わせた。
「どうか、少しばかり時間をください。お嬢さまが落ち着くまでで良いのです。こんなこと、今朝突然言われてお嬢さまも混乱していらっしゃいます。三刻ほど……、いえ一刻で構いません。時間を」
そう言って頼み込んだニーナだったが、騎士ははぁとため息をついただけだった。
「ならん。シスターは大人しく魔法使い様の行く先を神に祈っていろ。これは王命だ」
「そんな、お嬢さまのお気持ちは無視ですか……!」
「王命だと言っている。魔法使いに選ばれた、これは名誉なことだ。魔法使い様には今すぐお屋敷にお戻りいただき、荷のご用意と連れて行く使用人の選別と審査をしていただかなければ」
魔法使い様の使用人に下手人が紛れ込んでいてはかなわんからな、と騎士は息を吐く。
その言い草に少なからずはらわたが煮えくりかえったニーナだったが、その時ひとつの考えが頭をよぎった。それは、あまりに突拍子もないようなことだった。そう上手く事が運ぶとは限らない。またシスター風情が、と一蹴されるかもしれない。けれど、もはや残された道はこれしかないのだ。ニーナにとっても、パトリシアにとっても。
ニーナは、必ずこの命を賭してでもそばにいると誓ったのだ。パトリシアはニーナにとって、世界の誰よりも、何よりも、一番大切なお嬢さまだった。
ニーナは震えるパトリシアを安心させるようにその背をさする。細い背中は震えていた。背中で揺れる柔らかいバターブロンドの、ふわりとウェーブのかかった長い髪がさらりと揺れた。
パトリシアはこの毛先の一本まで生粋のお嬢さまだ。争いなどとは無縁の、いつか良縁を見つけて穏やかに妻になるための女性だった。それが失われると言うのなら、ニーナにだって信じた道を捨てる覚悟ができないはずはない。
ニーナはきっと眉を吊り上げて、一呼吸のちに静かに口を開いた。
「わかりました。……では、私をお嬢さまの使用人として連れて行ってくださいませ」