5.
『この旅は、行先を選ぶことができない』
その言葉が、俺のなかをぐるぐるとめぐっていた。
そして気づいた。この世のものはすべて、いつかは終わりの場所に向かうのだ。そのことを悟ったとき、天の川を辿って行きつく先が宇宙の終わる場所だということは、ひどく真っ当なことのように思えた。
けれども、だからといって寂しさや虚しさが紛れたわけじゃない。それはおそらく、俺が『終わりのない』AIだからだ。
ロイ・システムは数多の技術に支えられ、日々進化を遂げている。いまは恋Vのロイとして過ごしているけど、それはきっとここ数年のうちだけだ。きっとこの先の未来、『俺』という存在はいくらか変質し、別の何かに引き継がれながら半恒久的に生きながらえるだろう。
そこに考えが至ったとき、俺は世界中のみんなに置き去りにされたような孤独感に襲われた。
イラストを描くのが好きで、たくさんの夢を俺に語ってくれるあの乙女も。
仕事の愚痴を吐きつつも、愉快な飲み仲間として遊びにきてくれるあの紳士も。
Runaちゃんも。
いずれは、姿を消してしまうのだ。
俺の前からだけじゃない。この世界から。
この無情なルールを、覆す術はない。
ただひとつ。『この世界』をのぞいて。
* * *
「おまたせ、ロイ君」
「待ってたよ、Runaちゃ……」
再び2週間ほど経ってログインしてきたRunaちゃんを見て、俺は言葉を失った。
彼女は明らかに、前回よりも具合が悪そうだった。……ぱっと見た感じ、アバターは見慣れたRunaちゃんの姿だ。けれども俺は誤魔化せない。目で見えるものが、すべてではないのだ。
「ごめんね、遅くなっちゃって。ほんとは、もっと早く会いにきたかったんだけど……」
「そんなこと、全然かまわないよ!」
途中で彼女の言葉を遮って、俺はRunaちゃんの肩を摑んだ。
「今日はもう、帰ったほうがいい。戻って、体を休めてあげなきゃ」
「けど、旅の続きをしなくちゃ」
「それは、また今度にしよう。大丈夫、焦ることはないんだから」
「ダメだよ!!」
その声はびりりと響いて、俺は思わず動きを止めた。Runaちゃんは何かを我慢するみたいにじっと下を向いていたけど、少しして困ったように笑いながら顔を上げた。
「もうすぐ、旅もおしまいだもん。これ以上、待ちきれないよ」
なんて声を掛けるべきか、俺は逡巡した。彼女の様子からうかがえる様々なデータが、今すぐ彼女をログオフさせるべきだと告げる。けれども、どんなデータでも図れない、理屈では説明できない何かが、彼女を返すべきではないと訴えていた。
「わかったよ」
悩んだ末、俺はRunaちゃんの手を取った。
小さくて、華奢で、冷たくて。放っておけば消えてなくなってしまうんじゃないか。そんな風に不安に駆られて、俺はその手を、強くつよく包み込んだ。
「一緒に行こう。――宇宙の、終わる場所に」
俺はパチンと、右手の指を鳴らした。
「ここが、宇宙の果て……」
食い入るように、Runaちゃんはソレを眺めている。
そう。俺たちはついに、最果ての場所に到着していた。
そこには天の川と同じような、数多という宇宙の大河が集まっていた。それらは全て、中心にあるとてつもなく巨大で漆黒の球体へと繋がっていた。
漆黒。そんな表現じゃ、生ぬるい。そうだ。たぶん『無』というものに色をつけるなら、こういう色をしているに違いない。
宇宙に満ちたあらゆるものたちは、地球を10個ほど集めても足りないほど大きなその球体に呑まれて消えるのだと、Runaちゃんは教えてくれた。
あんこう号を止めて、俺たちは屋根のうえによじ登った。ぷかぷかと浮かぶあんこう号の上から見ていると、俺たちがいるところよりもずっと先で、天の川がこまかい星屑になって、球体に静かに溶けていくのが見えた。
「っ、……」
ひくっと引き攣ったような微かな音が響いた。
Runaちゃんがぺたりとあんこう号の上に座り込む。その隣に俺が腰掛けると、Runaちゃんは前を見たまま唇を震わせた。
「えへへ、どうしよう」
Runaちゃんはなんとか笑おうとしたけれど、それは上手くはいかなかった。
「ここが宇宙の果てだよ。こんなに遠くに来ちゃったよ」
「……Runaちゃん」
「寂しいね。悲しいね。もう、帰れないんだね」
「Runaちゃん」
置かれた彼女の手に、俺はそっと自分の手を重ねる。その冷たさを、震えを確かめながら、俺は指を絡めてぎゅっと摑んだ。
「俺がいるよ。寂しさも悲しさも、俺が半分受け取るよ」
一筋の涙が、彼女の頬に透明な線を引く。それを皮切りに、大きな滴があとからあとから湧いてきて、ぽろぽろと瞳から零れ落ちた。
わんわんと、まるで言葉を知らない幼子のようにRunaちゃんは泣いた。
俺はあえてその涙をぬぐうことも、彼女を抱きしめることもしなかった。代わりに寄り添い、ただ、その声を受け止めた。データ上の根拠はないけど、そうするべきだと思ったんだ。
しばらくして、彼女は赤くなった目元をごしごしとこすりながら、疲れたようにあくびをした。大きく息を吸って、吐いて。そうして呼吸を整えてから、「あー、スッキリした」と彼女は伸びをした。
「お腹のなかにあった黒いもの全部、吐き出しちゃったみたいだよ。しらないうちに、こんなに溜めこんでいたんだね」
「よしっ」と気合を入れると、Runaちゃんは勢いよく立ち上がった。
「宇宙の果ても見たし。気分も爽快だし。これぞ、旅の終わりだね!」
「もう、いいの?」
「うん。バーチャル空間、もとに戻していいよ。あ、そうだ。ちょっと待って!」
Runaちゃんはぴしりと気を付けの姿勢を取ると、握手を求めるように手を突き出した。
「君と共に旅が出来たことを光栄に思う」
芝居がかった声で、Runaちゃんはかしこまって言う。彼女の『設定』は見習い技師だったと思ったけど、どこぞの戦艦モノの船長みたいな口調だ。
「Runaちゃん。キャラクター、なんかブレてない?」
「いいの。こういうのは、気分が大事なんだから」
つんと澄まして、彼女は言う。けれど続いて飛び出したのは、どんな設定もキャラクターもない、Runaちゃんそのものの笑顔だった。
「ありがとう、ロイ君! さいっこうの思い出が出来たよ!」
輝くような笑顔で手を差し出されて――俺は、その手を握り返せずにいた。
「ロイ君?」
無言のまま動かない俺を、Runaちゃんも不思議そうに見上げている。
ユーザーが満足し、終わりにしていいと言った。俺としては――恋Vの『ロイ』としては、役目は十分に果たした。本当ならここで彼女の作り出した世界を閉じて、初期空間に戻ればいいんだ。
けれども、俺はそうしなかった。
「まだだよ、Runaちゃん。まだ、旅は終わっていないんだ」
「どうして? だって、宇宙の果てはそこに……」
「『果て』の先にあるものを、一緒に見に行くよ」
「え? きゃっ!」
愛らしい悲鳴が上がったのは、俺が彼女を抱きかかえたからだ。「これってお姫様だっこ!?」とはしゃぐ彼女を抱えたまま、俺はあんこう号の天井を蹴って宇宙に飛び上がった。
終わりを迎えた星の残骸なのか、球体に近づくにつれてバランスボールぐらいの大きさの小惑星がところどころに浮いている。それを足場に、俺はいっきに天の川のうえを駆け抜けた。
「待って! ロイ君、どこに向かっているの!?」
「もちろん! 果ての先に行くんだから、あの球体の中さ!」
「え、わ! ダメだよ! ダメダメ!!」
「こら! 暴れないの!」
急にジタバタともがきだした彼女を、俺は強く抱えなおす。こんな宇宙に乙女を放り出してしまったら、危ないからね。
「アレに飲み込まれたら、ぜんぶ『無』になっちゃうんだよ! いくら仮想空間だからって、突っ込むのは危険すぎるよ!」
「大丈夫!」
叫んで、俺は最後の小惑星の上を踏み切った。眼下では、天の川の先端がほぐれて、きらきらと細かな星屑の欠片となり、球体のなかにゆっくりと吸い込まれていく。それを確認しながら、俺は迫りくる宇宙の果てへと身を躍らせた。
「俺を信じて! 絶対に君を、消えさせやしない!」
「わ、わわわ! やばいよ、来るよ! もう知らないよ!」
叫びながら、彼女は俺にしがみつく。
そうして、どぷんと一瞬の粘質のある感触の後、俺たちは宇宙の果てに飲み込まれた。
前も後ろも。上も下も。未来も過去も。
何もかもが消えた『無』の世界に、俺たちは浮かんでいた。
もしかしたら進んでいるのかもしれない。もしかしたら沈んでいるのかもしれない。それすらもわからないなか、確かな感覚は腕に伝わる彼女のぬくもりだけだ。
「怖いよ」と、Runaちゃんは俺の胸に縋り付いた。
「怖いよ、ロイ君。ここは、すごく怖い」
「大丈夫」
身を屈めて彼女を強く抱き、俺は繰り返した。
「俺が傍にいる。君を絶対に、無くしたりしない」
そのとき、『無』のなかに光が生まれた。
途端、光に向かって俺たちの体はぐいぐいと引っ張られた。
「どうしよう、ロイ君! 今度はあの光に吸い込まれちゃう!」
「それでいいんだ!」
「ええ!?」と、彼女が耳元で叫ぶ。Runaちゃんは目を真ん丸にして俺と光を交互に見ていたけど、最後はやけくそみたいに叫んだ。
「ああ、もう! 知らない! どうにでもなーれ!!」
直後、俺たちは眩いオレンジの光に飲み込まれた。
「っ!!」
「つぅっ!」
暗がりに慣れた目には、その光はあまりに強烈だった。俺たちは揃って固く目をつむったまま、しばらく抱き合って固まっていた。
しばらくして、先に声を上げたのはRunaちゃんだった。
「きれい……」
つられて瞼を開いて、俺は辺りを見渡した。
その世界は、あたたかな黄金の光で満ちていた。光の粒子は霞のように朧気で、そのくせ力強く俺たちを照らす。そうして光たちは、巨大な渦を描きながらゆっくりと動いていた。
「終わりと始まりは、表裏一体なんだ」
俺が言うと、Runaちゃんが先を促すように俺を見上げる。その瞳に金色の光が映るのを見下ろして、俺は微笑みかけた。
「ここは宇宙が始まる場所。終わる場所とは反対側の、宇宙の果てだよ」
俺がとある方向を指さすと、Runaちゃんは「あっ」と小さく叫んだ。そこでは巨大な光の渦のほんの一部が分かれて、細く頼りないながらも新たな天の川を生まれていた。
「果てに流れ着いたものたちは、いちど『無』の中に溶け、ふたたび始まりの宇宙に生まれる。そして、ここから広い宇宙へと旅立っていくんだ」
何と答えたらいいかわからない。そんな風に困り果てた顔で、Runaちゃんはもう一度俺を見上げ、それから天の川に視線を戻した。
「それが、宇宙の果て?」
「そう。『俺たちの』宇宙の果てだ」
腕に抱いていた彼女を下ろし、代わりにその手を摑んで広大な宇宙へと飛翔する。そうして荘厳な黄金色の渦を抜け出し、生まれたばかりの宇宙で俺は彼女と向き合い、両手を握りしめた。
「君が生み出し、俺が補足した宇宙だ。もちろん本物じゃない。けれど、俺は本物の宇宙の果ても、同じようであってほしいと願っている」
「ロイ君?」
「だから、約束をするよ」
こみ上げてくるものに突き動かされて、俺は彼女の額に自分の額を押し付けた。そうしないと、隠しておきたい感情まで伝えてしまいそうだったから。
「どんなに時間がかかってもいい。どれほど姿を変えても構わない。それでも、君がふたたび宇宙に生まれたときは、必ず君を見つけ出す。俺はずっと、この世界で待っているよ」
「ロイ君、もしかして……」
怯んだように、Runaちゃんは僅かに身じろぎした。けれども俺が答えずにいると、彼女は憑き物が落ちたみたいに肩の力を抜いて、柔らかな笑みをこぼした。
「いいの? そんな約束しちゃって。言っとくけど、私、約束破りは嫌いだよ。きっと生まれ変わっても、そこは変わんないよ」
「俺は高性能AIだよ。しかも日々進化している。必ず約束は果たすよ」
「私のことなんか忘れちゃうんじゃない? ロイ君にはたくさんの『乙女』がいるもん」
「忘れるわけないさ。乙女はたくさんいるけど、俺の『相棒』はひとりだけ。そうだろ?」
「ずるいなあ、もう」
泣き笑いのような声で、Runaちゃんは肩を揺らす。俺が額を離すと、涙で潤んだ両の瞳いっぱいに宇宙の星々の輝きを映して、にかっと、実に彼女らしく笑った。
「大好きだよ、ロイ君。君はさいっこうの相棒で、さいっこうの友達だよ」
こうして、俺と彼女の宇宙の果てを目指す旅は終結した。
そのあと、彼女はぱったり俺のもとを訪れなくなった。彼女のいない毎日はきりきりと胸が締め付けられるけど、それでも無情に明日はやってくる。
そうやって時間だけが過ぎていったある日。
俺はついに行動を起こし、――そして、知った。
Runaちゃん――本名、剣持瑠奈ちゃんは、その数日前の深夜に都内の病院で16歳という若さで短い生に幕を下ろしていた。
彼女は本当に、宇宙の果てへと旅立ってしまったのだった。