肆滴:血爪 - Trigger -
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――船橋若松劇場舞台裏楽屋
初の心謎解色絲鬭“奴婢訓”を制し、クローディアは龍也と共に劇場の楽屋にいた。
極一般的な心謎解色絲鬭に於いてC級殺戮士に個別の控え室はなく、大部屋での待機が普通。
併し、若松劇場は普段ストリップ劇場である為、踊り子向けの個別の仕度部屋が用意されている。
楽屋に戻るなり、クローディアは龍也の唇を奪う。
上顎犬齒を龍也の下唇に突き立て、プクッと顕わになった血粒を其の小さな舌先で舐め摂る。
軽い痛みに顰める龍也を余所に、クローディアは目を閉じ、穏やかな表情を浮かべる。
彼女の食餌は是だけ。
無論、人が口に為る事の出来る食料は何でも食べる事が出来る。
米、肉、魚、野菜、パン、お菓子に至る迄、何でも食べられる。
併し、“食餌”と云えるのは、生き血のみ。
而も、人の生き血でなくてはならないらしい。
らしいと云うのは、彼女に質問をした訳ではないから憶測の範疇を出ない。
何時か、吸血鬼について、もっと詳しく聞かなくてはいけない。
勿論、彼女自身について、も。
其の時は、龍也自身も語らなければならないだろう。
若松劇場の支配人は、自棄に好意的だった。
劇場の花形、踊り子にして本物の殺戮士である死儡赫映の片腕を奪ってしまった。
にも関わらず、彼は其の脂ぎった顔に滿面の笑みを浮かべ、クローディアを褒め千切った。
小劇場では恒常的に花形を求め、欲している。
其れが末若い少女であれば尚の事。
出演料は現金で当日払いにして貰う。
現金日払いだと謎の花代、仟圓天が天引きされる。
其れでも手元には45,000圓天程度残る。
専属契約をすればプラス3,000圓天になるが、スケジュールを押さえられる上、色々と面倒事が増える。
取り敢えず、専属に関しては見送り、当面、劇場への出演を約束した。
クローディアは支配人から受け取った現金の全てを龍也に渡す。
45,000圓天と云えば、龍也の仕事代の1週間分以上に相当する。
大金とは云えないが十分な額面。
其の全てを貰い受ける訳にはいかないと彼女を諭すが、彼女は頑と為て譲らない。
「ボクニハオ金ハ必要ナイ。只、心謎解色絲鬭ニ立ツ為ノ衣装其ノ他ガ必要ダカラ、其ノ分ダケヲ天道ガ管理シテオケバイイ」
「…分かったよ」
クローディアのシャワーを待ち、家路に着く。
帰路の國鐵の座席で眠る彼女の表情が何とも印象的だった。
殺戮士としてスタートを切った者とは思えない無邪気な寝顔に龍也は癒やされた。
――若松劇場、再び
クローディアは連日の心謎解色絲鬭出場を求めていたが、龍也は是を何とか抑えていた。
ダメージや疲労が無いとは云え、心謎解色絲鬭は矢張り、尋常な舞台では無い。
肉体的な被害が仮に無くても、精神的に來るモノがある。
彼女は、そんなモノは無い、と答える。
恐らく、其れは事実だろう。
併し、精神的に來るのは、寧ろ、龍也自身。
心謎解色絲鬭の舞台に上がった彼女を待つのは、正直、堪える。
妹の容態に加え、クローディアの無事迄気懸かりでは心が休まらない。
何とか抑えてはいたものの、彼女は明らかに退屈を持て余している様子。
其れとも、龍也達の生活費を稼ぎ出そうとする焦りなのか、無表情ではあるものの、何となく苛々している様。
彼女の表情は少なく、其の心を読み取るのは難しい。
彼女はどう云う訳か、尊大で攻撃的。
其れが吸血鬼の本能なのか、其れとも衝動なのか、或いは、単に彼女自身の性格なのか気質なのかは分からない。
何れにしても彼女は戰いを欲している、そんな気がした。
龍也が二戦目を出場を許可したのは、デビュー戦から僅か3日目の事だった。
支配人は二戦目もセーフティールールを提示してきた。
台本と筋書も用意し、所謂、演者として舞台に上がる事を求めた。
中長期に亘って舞台に上がる事を切望している劇場側としては当然の主張。
本来、殺し合いをする殺戮士はクラス上げやステータス、大金、大成を求める輩であり、台本と筋書で出演した方が安定する。
C級殺戮士の出演料は同じなので女性殺戮士は演者を選ぶ。
特に此の若松劇場はストリップ小屋でもあるのでダンサーとしても出演出来る。
ダンサーとしての出演料は殺戮士としての出演料とは別に支払われるので演者の方が明らかに有利。
殺し合いは出演数も減る為、此の提案を断る様な女殺戮士は、ほぼいない。
筈だった。
併し、クローディアは即答、演者を拒否、奴婢訓を求めた。
龍也は支配人と共に是を止めたが、彼女は生死の遣り取りを望んだ。
ガチの奴婢訓を受けるC級の女殺戮士との対戦決定には其れから2日程必要だった。
若松劇場の奴婢訓は、兇器を伴わない素手での勝負。
兇器が許された場合、死合は思いの外、早く決着してしまう。
本格的な玄人意識を持っている殺戮士であれば兎も角、並の女殺戮士であれば、殺し合いでも実際に殺害に至る事は稀であり、特に素手での戦いでは死合時間が丁度いい頃合いで済む。
一方の敗死による破狡褸はビッグマッチのみでいい。
過激過ぎる奴婢訓は、普段の奴婢訓からの客離れを誘発し、小劇場にとっては痛手となる。
劇場自体が興行主の場合、普段からの客入りは重要であり、それが支配人の腕の見せ所。
そう云う意味では若松劇場の支配人は優秀であった。
只一つの誤算を除いては。
対戦者にも新人の軽量級殺戮士を用意し、其の相手には台本に従わせる手筈を整えた。
少女を勝たせる事。
奴婢訓の場合、敗死でもしない限り、敗北後、生板ショーで稼ぐ事が出来る。
勿論、その後の特殊サービスも可能。
要は、勝者よりも敗者の方が稼ぐ事が出来る。
大人と子供では、当然、大人への賭け金が増える。
劇場側も対戦者側も都合がいい、正にWin-Win。
対戦者は全て承諾し、揚々と舞台に上がった。
併し、死合が始まると事態は一変。
開始直後、少女の緩やかに軽く振るった其の小さな拳で対戦者の顔面が崩壊。
対戦者は舞台に崩れ落ち大の字になると少女は御凸靴で頭を数度踏み付ける。
間もなく頭部が破壊された元殺戮士の遺骸が転がる、凄慘な光景が広がる。
死合前のヒートアップした観客が押し黙る程、其れは余りにも早い決着、そして、悍ましい舞台だった。
死合から戻り、楽屋でシャワーを浴びるクローディアを余所に、支配人は龍也を呼び出す。
デビュー戦直後の時とは違い笑みは浮かべず、かなり真面目な表情をしている。
「死合が終わったばかりで済まないのだが、マネージャーの君から婉軟とで良いのでクローディア嬢に伝えてはくれないのだろうか?」
「…マ、マネ…ええ、と。何を伝えればいいんでしょうか?」
「是は完全に私が見誤っていたので此方が悪いのだが、もう少しだけ対戦相手に手心を加えて欲しいんだ」
「手心…つまり、手加減してくれ、と?」
「今日の対戦者には台本を用意していたんだ、クローディア嬢を勝たせるシナリオを。併し、余りにも彼女が強過ぎてね。
死合があっと云う間に終わってしまうとお客様が楽しめないんだ」
「…分かりました…彼女には俺から伝えておきます」
全く理解出来ない。
心謎解色絲鬭は殺し合いの舞台。
其の舞台上で、手を抜け、なんて、一体、誰が云うのだろうか。
興行師特有の下卑た感覚が垣間見えた。
――安共同住宅の自宅にて
若松劇場から自宅迄の帰路、龍也とクローディアは無口だった。
少女は決して話下手ではない。
只、彼女から話し掛ける事を殆どしない。
最低限度、必要な情報の伝達、其れが彼女から話し出す時。
コミュニケーション不足である事は否めないが、コミュニケーションそのものが苦手という訳ではない。
尤も、彼女にとってコミュニケーションそのものに重きを置いていない節がある。
其れは彼女が彼女である所以。
寧ろ、龍也の方こそ、コミュニケーションへの苦手意識がある。
男尊女卑の色濃く残る時代錯誤な伝統武芸の家系に育ち、幼少期は専ら鍛錬に継ぐ鍛錬。
女性相手のコミュニケーションだけが苦手なのではなく、男女問わずコミュニケーションが苦手。
正確には、苦手、という程でもなく、積極的ではない、というだけ。
意外かも知れないが、腹藏無に喋る方で決して無口という訳ではない。
単に、以心伝心、を重んじる家訓が体に染み付いている、其れだけ。
苦手意識は本人が周囲から、そう思われているのではないか、という若干の不安感を意図しての事。
家路にあって二人の会話が殆ど無かったのは、互いに会話を必要としなかった、其れに尽きる。
出会って僅かばかりの少年少女の関係性とは思えぬ程、違和感を禁じ得ない距離感だが、実の処、お互い気重な訳ではない。
いっそ、各々が持つ固有の自意識境界線を維持出来ている状態が適度に心地良い程。
そんな中、クローディアから話し掛けたのは共同住宅自宅に着いてからの事だった。
妹の食事を用意している最中、唐突に少女は龍也に声を掛ける。
「劇場デボクガシャワーヲ浴ビテイタ時、支配人ト何ヲ話シテイタ」
龍也は僅かに瞼を顰めるも調理の手を止める事なく返す。
「…下らない話さ。クロに伝える程の事でもない」
シャワーを浴びていたにも関わらず、彼女には楽屋に支配人が訪れ、俺を外に連れ出し“何か”を話していた事に気付いていた。
吸血鬼特有の感覚なのか。
聴覚が良いのか、感覚が鋭いのか、察知能力が高いのか、その辺りの理由は分からないが。
併し、其れに関しては驚く程の事ではない。
恐らく、仮に俺と彼女の立場が逆であったとして、俺も勘付いた筈。
俺の其れは訓練の賜物だが、人が身に着ける事の出来る程度の能力、であればこそ、驚くには当たらない。
「――ソウ」
「…内容を聞かないのかい?」
「天道ガソウ判断シテイルノデアレバ」
本の少しの間。
「…クロが強過ぎるから、今度から手を抜いて欲しい、そう支配人は頼んできた。伝えるとは応えたけど馬鹿馬鹿しいから反故する心算だった。
結果的に、伝えてしまった、けれど」
調理の手を止めない。
彼女は此方に視線を送る素振りもしない。
「――天道ハドウ為タイ?」
答え、を求められている。
「…何も変わらない。演者として舞台に出て貰えたら、其れは其れで心配しなくて済むから一番いい。
でも、クロが本物の心謎解色絲鬭に出続けるのであれば、手を抜くなんて事、絶対に為ちゃ駄目だ。
本氣の戰いは、何時如何なる時だって眞劍に挑まないと」
「――ソウ」
「一つだけ聞いて貰いたい事があるんだ。出来れば、死体蹴りは控えて欲しい。死屍に鞭打つ行為は、敵を作るから」
「――考エテオク」
気の無い返事。
もうすぐ料理は完成する。
妹の食事、俺の食事、勿論、彼女の分も。
「今日ノ対戦者ハ殺意ヲ向ケテキタ」
問うてもいない事を唐突に語る。
嘘をつく謂われが無い。
鋭い彼女が云うんだ、恐らく、対戦相手は台本通りの死合なんて行う心算はなかったのだろう。
本気の奴婢訓に挑むくらいだ、演者であるより殺戮士である事をとった、そういった処だろう。
本物の殺戮士であろうとした事が、返って当人の命を縮めた。
皮肉、だ。
「…さぁ、食事が出来た。クロ、君も食べるんだよ!血だけじゃ大きくなれないぞ!」
何の確信もないが、そう付け加えた。
クローディアの表情は読めない。
彼女はどう感じているのだろう――
――亦も、若松劇場
2戦目の心謎解色絲鬭から三日後、再び若松劇場に二人は居た。
無論、3戦目に挑む為。
早くも通い慣れた感がある。
心謎解色絲鬭の舞台で死合うのが、こんなにハイペースなのは珍しい。
勝ち抜き戦方式であれば1日に何度も戦う事もある。
演者であれば一定の期間、毎日出場もある。
併し、眞劍勝負ではこうはいかない。
死に願望りでもなければ。
――いつもの楽屋。
キツめの香水と安い芳香剤、血の匂いに膠の匂い、下水道の汚水を思わせ匂いとが入り混じり、何とも云えない不快な香りが部屋を包み込む。
切れかかった白熱灯がチカチカし、何処から漏れ出す水が妙に湿度を上げる。
腐った差入れから名も知らぬ羽蟲が湧く。
もう見慣れた仕度部屋。
違う事と云えば、先客が居る事。
其の客はデビュー戦の相手、死儡赫映。
クローディアが奪った筈の左腕は、革ジャン越しに存在を確認。
治した、のだろう。
何の用だろうか。
文句の一つでも云いに来たのだろうか。
筋違い。
見当違いも甚だしい。
心謎解色絲鬭とは、そういう場所だ。
「アンタらを待ってたよ」
勝手に他人の楽屋に入らないで欲しい。
俺達は待ってなどいないのだから。
――ん?
アンタら、って云ったのか。
アンタではなく、アンタら、と。
クローディアが口を開こうとしたのを制す様に龍也が話す。
「何の用ですか。此処は俺達の楽屋です。言傳ならば劇場関係者を通せばいいでしょ」
「そんなに警戒しないでおくれよ。あたしは喧嘩をしに来たんじゃぁない。感謝しに来たんだよ」
「!?感謝?」
赫映は革ジャンの袖を捲る。
其処には、細身だが自棄に洗練された機械の義手が顕わに。
生理学的治療ではなく、義手を選択、装着。
安易。
或いは、腕の生体形成迄の仮付けなのか。
尤も、其れでは踊り子として致命的。
勿論、改造手術済みや自動式機械人形、畸形、異種族等の踊り子も存在してはいる。
併し、是等は見世物小屋の類。
人気は矢張り欠損の無い天然の人間の踊り子。
義肢を付けていれば興が冷め、踊り子としての地位は下がる。
「戦闘用の筋電義手にした。是のお蔭で吹っ切れた。ダンサーとしてではなく、殺戮士として本気で生きて行ける」
「オバSAN、ソンナ玩具デ殺シ合イ出来ルノ?」
「小娘の癖に云うね~、アンタ。まぁ、其処が気に入ったんだけどさ」
「…其れで何の用なんですか」
「急勝な坊やだね。まぁ、落ち着いて聞きなよ」
「何ですか?」
「今日はアンタらを誘いに来たのさ」
「誘い?」
「“本物”の心謎解色絲鬭、にね」
「なっ、何をっ!?」
「ホンモノ?本物トハ?」
――しまった!
彼女が食い付いちまった。
カラコン越しからでも分かる。
表情はほぼ無表情だが、焦点を合わせるかの様に其の漆黒の瞳孔が絞られる。
猛禽類の其れを思わす狩人の眼差し。
彼女は天然の其れなのだ。
「蘇我にある劇場が本物の殺戮士を探してるって話さ。
どうだい、あたしと一緒に来ないかい?」
「……ちょっと待って、」
被せる様にクローディアは、
「好イヨ」
「クロッ!」
慎重な選択と行動を語ってみせたのは彼女の方だったのに、軽率過ぎやしないか。
目立ってはいけない、そう云ったのは彼女なのに。
――いや、待て。
……。
そう云う事か。
若松劇場では、クローディアは目立ち過ぎてしまう。
台本と筋書での演者の模擬戰が多数を占める此の舞台では、血生臭過ぎる彼女の戦いは否応無く目立ち、注目されてしまう。
恐らく、始めの内は観客達も持て囃し、彼女を歓迎するだろうが、軈て遣り過ぎだと揶揄され、怨嗟の眼差しを浴びるだろう。
そうなれば、様々な妨害工作やアンチが現れ、身を危険に晒す可能性が在る。
目の前に立ち塞がる敵に危機感を示す様な柔な彼女じゃない。
問題は、目に見えぬ悪意の齎す予期せぬ危機。
彼女は分かっていたんだ、端から。
相変わらず、俺は足りない。
もっと考えろ。
脳だけで足りないのであれば、肌で、細胞で、心で考え、足りなさを補え。
思う程に早く速く考え、考える程に思わねば。
俺はもう、足りない、と後悔する訳には往かないのだから。
「赫映さん、お話を聞きましょう」
「…へぇ~、坊や、目の色が変わったね。却々、大したもんだ」
決意と云う名の血爪を引けば時の流れは一層早まる。
鼓動は高鳴り、血の脈動が激しい連打を刻む。
其の感覚に俺は微かに高揚し、意識が高まる。
彼女の話を聞き終えると間も無く、クローディアの死合が始まる。
此の死合が若松劇場での最後の戦い、そうなる。
次の舞台に上がる時、其処は蘇我の劇場だった。