壹滴:猛毒の接吻 - Le Baiser -
――――――― 1 ―――――――
港の海の色は、グロいブラクラを閲覧したモニタの色だった。
――千葉市。
帝都から凡そ30km。
東京の衛星都市ではなく、或る種、治外法権が認められた国際都市、人種の坩堝、人種的差別撤廢提案採擇の聖地として知られる。
獨逸の摩尼克や伊太利亞の條捏知亞を遙かに凌駕する世界随一の超脳都市。
人工頭腦學や其れに付随する人體改造手術、臓器移植、神經生體工學、遺傳子工學等の超々高度医療、保険医療機関から闇診療所、狂信禮贊から電腦犯、運び屋に殺し屋、ストリート・サムライにヤクザ、彫り師、呪物や呪詛、魔術、麻藥、電子機器、白物家電、單車、武器、人工知能、愛玩、衣類、健康食品、鮮魚、駄菓子、御札、月の石、軍人將棋、大政翼贊會の印章、鹿の陰茎、ハンドスピナー、擬似性交人形、銭湯、土耳古風呂、奴隷、勿論、心謎解色絲鬭の觀戰に至る迄、諸有ものが此処だけで全て揃う渾沌都市。
嘗ては秋葉原が渾沌都市の代名詞であったが、クールエンパイア戦略と呼ばれる愚策に因り、彼の町は渾沌文化を一掃され、何時しか其の魅力を失った。
今や、世界中が注目する最もホットでクールでアメイジングでクレイジーな都市である。
此処で叶わない事等、一つとして無い。
人を生き返らせる事だって出来る、少なくともそう聞いている。
願いは何だって叶う、希望の都市。
そう、何だって叶うさ、金さえあれば、のお話。
――絶望。
港を歩む足取りは重い。
あの闇醫者は、好い人だ。
手術代は特別に無料で引き受けてくれる、そう約束してくれた。
だが、肝心の人工心臓が高過ぎて手に入らない。
最安値で伍佰萬圓天…迚もじゃないが、そんな大金、一括で用意するなんて出来やしない。
高校生の俺が仕事しても精々、1日伍仟圓天といった処。
日に日に妹の容態は悪くなる。
入院もさせたい。
でも、生活費を稼ぎ出すだけで一杯一杯。
此の國には古より八百万の神々が居ると云うにも関わらず、何故、俺達兄妹を助けてくれる神は一人と為て居ないんだ!
神佛に恨みも憎しみも持ち合わせてはいないが、神よ、居たとしたらお前を呪うぞ!
鼻が曲がる程の悪臭を放つ東京灣の香に絆された所為か、自棄に否定的で怖ろしい想いが心を巡る。
唾棄為べき脆弱さ。
是こそが親父が俺を嫌った本当の理由なのだろう。
否、今はそんな事、どうでもいい。
助けて欲しい――誰でもいい!
天使でも神樣でも、無論、悪魔であっても、俺達兄妹を、否、妹を助けてくれさえすれば、其れだけでいい。
不意に、視線を海に移す。
遺伝子組換プランクトンに因る毒々しい赤潮が押し寄せる防波堤に置かれた消波根固方石塊の一角に、宝箱、否、柩を思わせる木棺が打ち上げられているのを見付ける。
疑問――
なんだろう、アレは。
棺桶と呼ぶには聊か小さ過ぎる気もするが、矢鱈と精緻な金銀宝石細工に彩られた其の様は、財宝が眠るに相応しい気品を醸す。
――はっ!!
近くに見付けた防波堤に添え着けられた錆び付いた鉄梯子を無意識に降り、テトラポッドに足を下ろす。
――何をしてるんだ、俺は?
気になった、だけ?
否、本当に“それだけ”なのか?
好奇心?
……違う。
色気――金に困っている、その執着、微かな冀望、無闇な期待、愚かな妄想、その類。
理性的、では居られない。
それ程に、その豪奢な木棺には、得も言われぬ魅力的な様が在る。
窃盗犯の“それ”に近い、ドス黒い欲望が体中を支配する。
「ダメ、だ!」
思わず、声に出す。
“そう”声に出して、己の耳に客観的に言い聞かせないと、俺は堕ちてしまう、ドコ迄も。
“そんな”気がする、否、した。
さっさと梯子を登ろう。
妙な気分に踊らされている場合じゃない。
現実を、直視しなければ。
「…………テ」
――えっ!?
波の音、か?
「………ケテ」
――ハッ!!
何か、聞こえた。
そんな気がする。
「……スケテ」
声!
声がする。
聞こえた、筈。
「…タ…スケテ」
確信――聞こえた。
呼んでいる、助けを。
中から、箱の中から声が漏れている、多分、“そう”だ。
それは、助けを求める、微かな吐息にも似た、救いを乞う風。
こんな汚濁の波打ち際に流れ着いた、棺桶と呼ぶには小さ過ぎる其の木箱に、人が入っている訳がない。
筈もないのに、歩み寄る、その箱に、近くに。
どうやって解錠するんだ。
引き手?
箱の脇、長辺の中央に窪んだ引き手が備え付けてある。
指を入れ、蓋を押し上げればいいんだ!
ン?――
ビクともしない。
――痛っ!
何だ!?
引き手の中に棘でもあったのか?
指先から血が滲む。
――ガジャリッ!
金属の歯車が噛み合った様な、そんな重々しい音を立てる。
ボンッ!!――
木箱の、その蓋が勢い良く上部に開く。
固形炭酸に大量の水を注いだかの様に、濛々と白煙が立ち籠める。
軈て白煙は霧散し、内を顕わにする。
無慘――
見るも無惨な姿の少女が横たわっている。
体中の関節という関節に、十字を模した白杭が打ち付けられ、血塗ろになった痩せ細り、衰弱仕切った人形の様な裸の少女。
革製の目隠しに、犬釘で頰を串刺し、鉄条網で体中至る処を縛り付けられ、皮膚は大きく裂かれ、生々しく裏返しに引き剥がされ、柩の四隅に鋲で留められている。
胸から腹にかけてナイフか何かによる裂傷、白過ぎる肌には文字が刻まれ、その周辺にはエンボス状に火傷。
其の血が滴る刻まれた文字が何を意味するのか、どんな意味なのか、何処の言葉なのか、俺にはまるで分からない。
『Exorcizamus te, Omnis immundus diabolica potestas. Adjuramus te! Cessa decipere humanas creaturas, eisque aeternae perditionis venenum propinare. Ad nocendum potentes sumus. Memento mori! Contremisce et effuge, Vade satanica vampyrus!
(遍く全ての汚れた惡魔の力よ、汝を我々は追い払う。我々は汝に命ず!人々を欺く真似を止めよ、そして、彼等に久遠の破滅の毒を盛る事なかれ。我々は危害を加える力を持っている。己が死ぬ事を忘れるな!震えよ、そして、逃げ惑え、惡魔の吸血鬼よ、立ち去るがよい!)』
――なっ、何なんだ、一体…
病的に痩せ細った体躯の少女に、狂気じみた惨たらしい仕打ち。
とても、正気の人間がするようなものじゃない。
異常。
偏に、異常。
横たわる少女の力無く握られた手に触れ、声を掛ける。
「大丈夫かい!俺の声が聞こえるかい?」
カサカサに乾いた唇を微かに開く少女。
併し、声に為らない。
何かを求め訴えている、其れは分かる。
だが、衰弱甚だしい彼女に、其れを口にする余力が残されてはいないんだ。
それにしても、何て冷たい手なんだ。
出血で体温が下がっているから、ってそんなレベルじゃない。
高原の湧き水、山奥の渓流にでも手を浸けているかの様な、其れ程の冷たさ、其れが伝わってくる。
併し、氷程ではない。
僅かに温もりも感じられる、ほんの少し。
(――スケテ…)
――あっ!
(――タ……スケテ…)
聞こえる。
否、音として聞こえている訳じゃない。
鼓膜への振動じゃない。
手。
握った彼女のか細い其の手から、伝わってくる。
彼女の“意思”が。
――どうすればいいんだ!
こんな酷い仕打ち、とても手当なんて出来ない。
病院に運ぶ?
どうやって?
軽くパニック。
「どうすれば、どうすればいいんだい?」
否、何を聞いてるんだ、俺は。
瀕死の少女に、声を出す事さえ儘ならない彼女に尋ねてどうする!
無力にも程がある。
俺はいつも無力。
どうして、こんなにも無力なんだ!
(――ヅケ…ヲ…)
聲無き聲。
聞こえる、やはり。
気のせいじゃない。
でも、微か、だ。
「どうしたらいいんだい?俺に出来る事なら、“何でもする”よ!」
(――ク……チヅケ、ヲ…)
「え?」
クチヅケ?
くちづけって、口付けの事なのか!?
口付け――キス?
何故、此処でキス??
「口付けって…キスの事なのかい!?」
(――ウ……ン…)
――意味が分からない…
否々、抑々、今或る此の状況すら理解出来ていないんだ。
何故、キスなのか、そんな事を考え、理解しようたって土臺無理な話。
なら、すべき事は一つ。
その少女の願いを聞き届ける迄。
狂ってる――
――分かっているさ。
少女をこんなにも惨たらしい姿にした者。
帝國と世界情勢、それを裏から牛耳る財閥と終わりなき鬭爭に明け暮れる宗教や団体、非合法組織。
生命を翫ぶ非倫理的技術と異能の魔術、其れを善しとする支持者と見て見ぬ振りをする声無き大衆。
そして何より、汚染された海辺に打ち上げられた柩の中で拷問宛らに痛め付けられた見知らぬ其の少女に、唇を重ね合わせる俺は、正に狂癲の境地。
何もかもが正常為らざる狂想の果てに行き着く讒佞の所作。
邪教か異端の宗教儀式にも似た背徳の様。
なのに、何故か“愛おしい”。
狂い切っている。
俺は凡そ、真面な死に方は出来まい。
少女の唇は――
矢張り、冷たい。
まるで彫像か陶器にでも口付けをしているかの様。
乾いている所為なのか、柔らかさも余り感じられない。
恰も、死人にでも口付けをしているかの様な錯覚。
無論、死人とキス等した試しは無いのだが。
――痛ッ!
何事!?
口許に痛みが走る。
咬まれている。
少女の鋭い上顎犬齒が俺の下唇に突き立てられている。
「な、なにをッ!?」
――動かない。
上体を反らし、頭を引いて唇を離す心算が、全く動かない、否、動けない。
痺れに似た感覚。
動こうと思えば思う程、動けない、そんなイメージ。
妙。
触れ合っている唇に熱を帯びる。
咬まれて出血したから?
否、其れだけじゃない。
伝わってくる、少女の唇から、体温が。
其れでも冷たい事には変わりない。
併し、ごく僅かだが上昇している、彼女の体温が。
――舌!?
俺の上唇と下唇の間、口の中に舌先が入ってくる。
小さく、ひんやりとしたその舌先が俺の舌に触れる。
鉄の味。
是は俺の唇から出血している血液の味か?
何なんだ、此の感覚は?
意識が朦朧とする。
保てない、正気を。
(――メン…ネ…)
絡み合う舌が、自分の意思とは無関係に釣られて動く。
理性が利かない。
衝動が、本能が、或るが儘、舌先をダンスに誘う。
不意に口腔から引き抜かれそうになった少女の舌先を追う。
追い縋る様に彼女の舌を探し求め、今度は俺の舌が彼女の唇を押し退け、少女の内に。
(――ゴメン…ネ…)
少女の口腔は、何たる芳香、甘美なる事か。
腐敗臭の酷い海の悪臭さえ忘れさせる程、馨しい。
何よりも、甘い。
会津の身不知柿吉美人や琉球の美ら檬果を遙かに凌ぐ甘さ。
にも関わらず、和三盆宛ら諄くなく、風味豊か、正に絶妙。
(――ゴメン、ネ……キミノ…)
なんだ!?
聲が、聲が聞こえる。
否、舌先から伝わる、聴覚ではなく味覚から、触覚から、直接、脳内に。
違う、心に!
(――御免ネ……君ノ命ヲ貰ウヨ…)
――ザグッ!
俺の舌に少女の八重歯、寧ろ、牙が突き立てられた。
嗚咽。
舌を咬まれ、言葉に成らず、叫び声さえ上げられない。
喉を鳴らすだけ、声にならない嗚咽に噎ぶ。
血の気が失せる。
蚊に刺されても気付きはしない。
注射器で採血されても軽い痛みのみ。
併し、是はまるで違う。
体中の血という血が舌先に集まる感じ。
手足が冷たくなる。
末端の毛細血管から血が失せているのを感じる。
心臓の鼓動による正常な然るべき血流が、体の全機能を無視するかの様に逆流、喉に、頸に、頭に、舌に集まり、奪われる。
何時の間にか、彼女の目隠しは上部にずれて外れている。
閉じていた瞼を開き、其の瞳が顕わになる。
真っ白い瞳。
硝子玉の様に無機質。
僅かに金属質な白銀の様な色彩変化が見られるが故、それを瞳と認知出来る。
瞳孔は常闇より深く暗い漆黑。
怖い程、飲み込まれる程、吸い込まれる程に魅惑的。
理解は出来ない。
理屈も分からない。
だが、是だけは分かる。
吸血行為。
彼女は俺の舌に突き立てた牙から俺の血を吸い上げているんだ。
疾うに痛みの事なんて忘れた。
意識が薄れ、遠退く。
少女の薄い白銀の瞳はチカチカと明滅し、桜色から桃色、朱から紅へと変わって行く。
白磁の陶器で作られた人形の様な其の真っ白な肌が、仄か紅潮して行く。
グレースケールからフルカラーへの変調、鉛筆描きから淡い水彩画への変化、幻想から現実への回帰。
白髪とも銀髪ともつかぬ其の髪色が、血色に染まって行く。
毛細管現象にも似た印象。
神秘的、だ。
駄目、だ。
もう、十分に考える事が出来ない。
何が起きたのか、何が起きようとしているのか、其れ処か状況さえ不明、何もかも意味不明。
俺は妹を救うんじゃなかったのか?
お前は其の為に此の超脳都市に迄来たんじゃなかったのか?
其れが、なんて様だ!
偶発。
偶然も偶然、偶々見付けた木箱に何の目的もなく近付き、否、単なる好奇心、或いは錯覚、妄想の類に引き寄せられ、寧ろ、自ら望んで進み、訳も分からず絶命するのか?
只々、命尽きるのを待つだけなのか?
是程迄、お前の意気は薄弱なのか?
妹を救い、お袋を捨てた親父への怒りは、其の程度だったのか?
お前の“覚悟”は、此の程度なのか!
(悪いな、少女!俺は死ぬ訳にはいかない。命をやる訳にはいかないんだ!!)
――ガブッ!
舌を噛み切る。
なんて固いんだ。
舌がこんなにも固いなんて、初めて知った。
何度も何度も噛み続け、引き千切る様にして切断。
少女の牙が食い込んだ舌先を切り離した事で体の自由が戻る。
舌を噛み切って死ぬ事等有りはしない。
都市伝説の類。
あるとしたら大量出血による血液凝固に伴う窒息死。
確かに、夥しい出血。
口内を大量の血が満たし、湧き出てくる。
こんなモノ、欲しがってんなら、くれてヤレ!
――ブゥーッ!!!
少女の其の美しい顔に、口いっぱいに拡がる有りっ丈の血を吹き掛ける。
無表情だった少女の顔色に微妙な変化。
併し、そんな事、気にしてる暇はない。
(返して貰うぞ、俺の血を!)
一度離れた唇を、再び少女に向ける。
キス?
否、違う。
噛み付く!
俺に牙なんてものはない。
だが、噛み付く事くらい出来る。
少女の唇とほぼ直角に唇を重ねる様に合わせ、噛み付く。
噛み付く事で少女の口は窄み、僅かな隙間が生じる。
其処から思い切り吸い込む。
深呼吸を遙かに超える程、勢い良く、吸い上げる。
俺の血を、少女の血毎、吸い尽くしてやる!
無論、分かっている。
全く無意味な行為である事を。
口から血を飲み込んだ処で胃に行くだけ。
奪われた血液を取り戻す事なんて出来やしない。
だが、無性に腹が立つ。
彼女に?
否、俺自身に、だ!
(――ダ…メ……)
(何がダメだ!嵌めた癖に!)
(――チ…違ウ……)
(返して貰うぞ、俺の血を!!)
(――ソレ以上、吸ッテは駄目…君ガ君デハ亡クナッテ仕舞ウ…)
少女の手が胸元に伸びる。
うぉっ!――
一瞬、息が出来なくなる程、丸太にでも殴られたかの様な衝撃が胸部を襲う。
爆発的な圧が掛かり、重力の其れを凌ぎ、空に向かって推力が働く。
気付いた時には俺は宙を舞い、防波堤の上に迄弾き飛ばされていた。
地に叩き付けられる刹那、咄嗟に受け身をしたものの、混凝土への落下は相当。
背中から腰、臀部に掛けて痛打、激痛が走る。
テトラポッドから此処迄、優に8米はある。
なんという衝撃、なんという膂力。
何処かを痛めたのかも知れない。
辛うじて上半身を起こす事は出来るものの、立ち上がれない。
下半身が麻痺しているかの様。
ペッ!――
口から血を吐き出す。
思い出したかの様に痛みが舌先から走る。
舌を引き千切ったのだから当然。
上体だけで体を捻り、俯せになる。
両肘を立て、這う様に移動。
匍匐前進と呼ぶには余りにも無様。
其れも其の筈、足が痺れて動かないのだから。
影――
不意な陰りに不安を抱く。
ちらり、と目線を上にやると、其処に全裸の少女が立ち塞がっている。
俺に影を落とす正体。
――驚愕。
今在る少女の体には、柩の中で見た生々しい疵痕は一つも無い。
彼女は傍らで片膝を地に着け屈み、視線を低くし、俺の顎下に鈎状にした示指を添え、くいっと上げる。
交錯する視線に僅かな沈黙。
「ダイジョウブ、混ジッテハイルケド、マダ君ハ君ノ儘」
(――………)
喋ろうにも舌先を引き千切った所為で言葉を紡ぐ事が出来ない。
獣の様にうーうーと唸る事しか出来ない。
「コレ、ネ。返スヨ」
其の小さな口を開くと、自身で噛み千切った俺の舌を少女は翫ぶかの様に舌上でコロコロと転がす。
俄に口を閉ざし、カクンと首を傾け、徐に顔を近付ける。
三度目のキス――
諍う遑さえ無く、唇を奪われる。
彼女の舌が口内に滑り込む。
ナニかを押し込む様に、ねじ込む様に。
俺の舌先?
舌を、返す、と?
間もなく彼女は自ら口付けを止め、唇を遠ざける。
糸引く唾液は、血で赤い。
少女は口許を拭い、視線を俺に落とす。
「返シタ、ヨ」
「なっ、何をしたんだ!!」
――あっ!?
喋れる。
声に成っている。
舌が、戻っている。
その感触を確かめる。
疵も無い。
一体、何が起こったんだ?
「モウ、立テル筈ダヨ」
「き、君は何者なんだ!?一体、何故あんな事をっ!」
ん?――
痛みが、無い。
痺れも無い。
動ける。
足が動く。
片膝を立て、起き上がる。
「察シテイル筈ダヨ。ボクハ君達ガ云ウ処ノ“吸血鬼”。
命ヲ貰ウトハ云ッタケド、奪ウト迄ハ云ッテ無イ。尤モ、口ニ出シテイナイノダカラ本当ハ何も云ッテハイナイノダケド。君ガ驚イタノハ無理モ無イヨ。驚イテイルノハ、ボクモ同ジダヨ」
「…どうして俺を陥れたんだ!最初から罠だったんだろ!?」
立ち上がってみて、ギョッとする。
少女の何たる小さい事か。
胸程にも満たない身長。
想像以上に小さい娘。
何処にあれ程の力が?
其れに、彼の疵はどうしたんだ?
此の短時間で治ったとでも云うのか?
混乱。
整理する時間が欲しい。
「ボクガ誘ッタンジャナイヨ。超共感ノ類。其レニ関シテハボクニモ分カラナイ」
「…君は誰なんだ?一体何故、あんな処に?」
「――…」
「…俺は天道龍也。君は?」
「…クローディア、ト呼バレテイル」
「クローディア?クローディアって云うんだね?」
「――高イ、ヨ」
「え?」
「頭ガ高イ、ヨ」
少女が軽やかにステップを踏む。
――シュッ!
風を切る様な音に乗せて少女が下段回し蹴りを繰り出す。
彼女の蹴りがスパッと俺の左足に打ち込まれ、左膝外側半月板と腓骨は砕け、側副靭帯と十字靭帯が一気に切断される。
ぐぁっ!――
防波堤に崩れ落ちた俺が左膝を抱え悶えていると、少女はその華奢な足で顔を踏み付けてくる。
「何時迄モボクを見下ロスナ」
苦痛に顔を歪めつつ、
「…な、何をするんだッ!!」
「身ノ程ヲ辨エヨ。人間風情ガ調子ニ乗ルナ。ボクト対面スル時ハ常ニ平伏セヨ」
「なっ!!?」
踏み付けていた足を退け、俺を覗き込む様に屈む少女。
「但シ、感謝ハシテイルシ、借リヲ作ルノハ性ニ合ワナイ。ダカラ…
ダカラ、今度ハボクガ君ヲ扶ケテアゲル」
「…助けるだって?一体、俺の何を助けるって云うんだ!」
「聲ヲ聞イテイタノハ、君ダケダト思ッテイタノカイ?ボクノ聲ガ君ニ届イテイタ様ニ、ボクニモ君ノ聲ガ聞コエテイタ」
「!?聞こえていたのか…」
「ダカラ、扶ケテアゲルヨ。ソノ代ワリ、ボクニ傅キ忠誠ヲ誓ウノダ」
「……何を馬鹿な事をっ!」
少女のか細い手が顔近くに伸びる。
突き出された彼女の手の甲は、氷の彫刻宛ら、煌めき美しい。
其の天使の様な悪戯な笑顔が自棄に眩しい。
何もかもがおかしい。
訳が分からない。
何が起こり、何が起きて、何故こうなり、今に至るのか、最早、証明出来ない。
経緯ではない。
まるで意味が分からない。
――だと云うのに…
「永遠ノ忠誠ヲ!」
痛みを忘れさせる心地良い声に耳を擽られる。
鼓動が早い。
僅かな発汗。
首筋が冷たい。
口の中が乾く。
視界が狭い。
体の変調に、精神の滞留が、俺の思考は停止する。
今という時は彼方へと吹き飛ぶ。
程なく為て、気付く。
彼女の手にキスをしている自分に。
彼女への心酔を。
禁断の園へ足を踏み入れたのだ。
俺は、彼女に、其の得体の知れない少女に、
心からの忠誠を誓っていた――




