プロローグ † 告解 †
「キミモ罵躶薔薇ニ為手上下ル」
――殺戮士
皇紀2700年代初頭に卷き起こった特異点爆発(Singularity Explosion)が齎した現代の剣闘士。
其れは人が決して触れてはならない禁忌の技術、惡徳の智惠、神佛の惡戲、退廃の冀望に満たされた禁断の遊戲。
巨魁達の社交界、臣民の享樂、棄民の迷妄、貧民の宴、萬人の玩具箱。
風紀振肅社会に於ける極上の清涼剤、至高の娯楽戰斗、血生臭く噎せ返る殺戮ショー、遊興の屠殺場、其れが“心謎解色絲鬭”。
今宵も亦、美しき劇場が自虐的に鮮血く足搔苦染まる。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
北千住にある劇場、THEATRE110564。
キャパ700程度の、ドールハウスとしては珍しいプロセニアム形式。
今夜もまた満員御礼。
何も此の劇場が特別人気と云う訳ではない。
何処の劇場でも満員。
其れ程に『心謎解色絲鬭』は絶大な人気を誇っている。
矢鱈と芳香剤と香油の匂いがきつい。
何処のドールハウスでも同じだが、血の臭いを誤魔化す為の劇場側の心遣いだが、是が何とも云えぬ強烈な香りで、初めて訪れた者は此の匂いを嗅いで卒倒する事もある。
なので、体の弱い方には、AkumaTVかNetfreaksで視聴する事をお勧めする。
MCの声が会場に谺する。
「紳士淑女に下種に盆暗の皆々様、お待たせ致しましたっ!
其れでは本日のメーンイベントッ、負けたら即火葬、お客様全員が本日の葬儀の列席者、故人となるのは是から決定、“荼毘コントラ荼毘”、始まりますっ!」
客席は熱気に溢れ、奇妙な歓声を上げる。
まるで熱帯地方の密林を彷彿とさせる奇っ怪極まりない環境音。
期待と興奮、狂気と本能とが入れ混じる、何とも云えない雰囲気、正に渾沌。
「賞金額は混成通貨、“圓天”にて貳佰萬圓天、プラスお客様の皆様からの賭け金という名のご香典から生者、否、勝者に贐されます!
存分にお賭け下さいませっ、血反吐吐く迄、ケツの毛抜かれる迄ッ!」
――うおおおおおおーっ!
観客は薄汚れた圓天札を頭上に掲げ、激しく振るう。
「先ずは下手コーナーより、銀髪の吸血少女“血の復讐鬼”クローディア嬢!
なんと、本日がデビュー戦!
華麗なるデビュー初戦で荼毘コントラ荼毘に挑むその勇気、胆力、活力、そして、無謀さ、儚さ、愚かさに期待しましょう!」
硝子が砕け散る音から始まり、鋭く激しいビートを刻む、邪悪で幻惑的で背徳的、唾棄すべき歌詞を載せたハードにスピーディーでメロディアスなメタル系のBGMが劇場に響く。
――入場テーマソング。
狂った殺人ショーにもエンターテイメント的演出は必要不可欠。
寧ろ、演出過剰なくらいが丁度いい。
ノンフィクションをフィクション化して魅せるのが、心謎解色絲鬭の醍醐味。
矢鱈多めに焚かれたスモークが舞台を包み、軟体動物のようにぬるぬると蠢く。
舞台の下手袖から、ハッ、と息を呑む程の美しい少女が、人形宛ら“カタカタ”と歩み出る。
まるで自ら光を発しているかのような輝く白銀の髪。
ボリュームのあるショートで前髪は左下がりの斜めにパッツン、両サイドを三つ編みにし、胸元迄垂らし、黒いヘッドドレスを着けている。
透き通るような白堊の柔肌に濃いめのアイメイク、深紅のグラデーションのアイシャドウ、青いリップ、逆十字のチョーカー、三重の黒レースの袖先から伸びる白魚のような指にはごついアーマーリング、耳にはイヤホン、音漏れ甚だしく入場テーマソングと同じ楽曲を聴きながら、ロボットダンスのように、アニメーションダンスのように、絡繰人形のように、カクンカクンと首を横に振りながら歩む。
その幼い端正で秀麗な顔立ちに大きな紅い瞳と蒼い瞳、共に爛々たるカラコンを装い見開き、ゴスメイクに彩られ、いっそ不健康とも病的とも感じさせる退廃的、且つ、微かに前衛的な印象、まるで仏蘭西人形の様。
小さく華奢な体躯に黒を基調とした仄かにパンキッシュな要素を取り込んだゴシック&ロリータの衣装を豪奢に纏い、右手には持ち主とは明らかに場違いなチェーンソーが握られている。
物々しいチェーンソーの2ストロークエンジンのアイドリングが、その小悪魔の鼓動を代弁する。
「皆様、お待ちかね!上手コーナーより、我らがシアター王者“戰鬼鐵鎚”ウォーハンマー,、満を持しての登場です!
目を凝らして見て下さい、あの惚れ惚れする躰。肉体の24.8%を改造手術済み、霊長類ヒト科最凶兵器!16戦全勝、デスマッチ9連勝中、荼毘コントラ荼毘絶対王者の入場です」
激しいものの、やけにポップな楽曲の入場曲。
それに合わせ、観衆のボルテージが一段上がる。
上手袖より、2mを優に超す禿頭の巨軀の男が現れる。
その剃り上げられた禿頭には、女性器を暗喩する刺青が、左目下の頰には“piss on ya”と彫られている。
ギリシャ彫刻の様な隆々たる見事にバルクアップされたその肉体は、無数に織り込んだ人工筋肉によって、まるで鎧の様。
丸太の如き腕に握られた一間(約181.8cm)にも及ぶ長大な戰鎚は乾いた血により黒ずみ、不気味な様相を呈している。
舞台中央奥に控えていた行司が両人を中央に呼び込む。
「両者中央に!」
少女と大男が舞台センターに歩み寄る。
「ルールチェックだ。
荼毘コントラ荼毘は無制限1本勝負のデスマッチ。ブレイク無し、ギブアップ無し、TKO無し、タオル無し、預かり無し、無効無しのノールール。唯一あるのは、お客様に被害を与えぬ事。観客への被害が認められた、或いは被害が想定された場合、スナイプ対象と見なす。舞台袖や観客席に逃走する素振りもスナイプ対象。
ファイト中のトークはいいが、あまり長いと指導する。指導が2つで警告、警告2つでスナイプだ!
アグレッシブで最高にエキサイティングなファイトを!Okey?」
大男と少女は軽く頷く。
それを確認して行司がMCに向かって親指を突き上げ、OKサインを送る。
「両者揃いましたね!さぁッ、それでは参りますっ!狂乱の宴、心謎解色絲鬭“荼毘コントラ荼毘”の幕開けです!
The Time of Last Judgment! Final Showdown, Decide the Destiny of Deicide!!」
――ウゥーーーーーゥッ!
巨大なサイレンの音が会場を包む。
殺戮ショー開始のゴング、それがこの聴く者達の心を不安に駆り立てるサイレン音。
併し、会場内に群れ集った観衆達にとっては、今やボルテージを高める高揚剤。
まだ、サイレンの音が止み終わっていないにも関わらず、ウォーハンマーと呼ばれるこの劇場の殺人王者は、手にした戰鎚を舌舐めずりし、少女を挑発。
「未だモノホンの吸血鬼とは戦った事はねぇーが、嬢ちゃん!
おめぇーは、偽物か?それとも、モノホンか?
もし、モノホンなら、テンションぶち上がんゼッ!!」
「ボク?そうだネ、ボクは…“ニ セ モ ノ”」
「チッ!キャラ付けか。ま、そりゃそんだけゴテゴテと演出してんだから、そりゃそーだわな。
なら、用はねぇ~。云っとくが荼毘コントラ荼毘に台本はねぇーからな!さっさとぶっ殺して終いだ!
まぁ、その前に充分甚振ってやる。その人形みたいな面が苦痛で歪む様を拝ませて貰うぜ!」
「オジSAN、よく喋るネ。ニンニク食べた?お口、臭いヨ。コッチ迄匂ってくるから少し黙っていて欲C…かも?」
「上等だッ、小娘!斃りやがれッ!!」
――ゴッ!
人工筋肉の織り込まれたウォーハンマー,の膂力は、人類の極限に迄達し、振るう戰鎚のスイングスピードは時速250kmを優に超える。
余りにも速い振りに、巨大な戰鎚のハンマー部はブレて残像を残す勢いで弧を描く。
戰鎚が唸りを上げ、少女を襲う。
正に少女にハンマーの衝撃が走る瞬間、糸繰り人形の糸が切断されたかの如く少女の体は崩れ落ちるようにクタンと蹲み込み、それを既に躱す。
少女という的を失った戰鎚は舞台床を砕き、粉塵を軽やかに撒き散らす。
「ほ~う、ラッキーだったな小娘。竦んでバランスを崩したおかげで命拾いしたな。尤も、数秒生き存えただけに過ぎんがな!
俺は半殺しにした奴に、無性に小便を引っ掛けたくなる。心謎解色絲鬭ではブッ倒した全員16人、それ以外に83人!
小娘、てめぇーで丁度100人だッ!その人形みてーな綺麗な面を小便で汚してやんぜ!ぶぁーっはっはっはーっ!」
少女は口許にその美しく細い示指を当て、
「お口を閉じて欲Cな…クサくて、臭くて、苦痄くテ、堪らない……」
「ほざけっ…ブッ壞して殺るッ!!」
ウォーハンマー,の両腕の人工筋肉が膨れ上がり、皮下を蚯蚓が沼田打つかの様に浮き上がり、赤く変色する。
「碎け散れ!!!」
――ボッッッ!!
少女との距離は150cm足らず。
そんな間合いの中、戰鎚のスイングトップスピードは時速350kmに達する。
最早、到底、目で追える速度ではない。
が、しかし、少女は躱す。
猛烈な反射で避けるでもなく、体を捻る訳でもなく、我武者羅に仰け反るでもなく、只、気骨無い絡繰人形のような、レトロな機械仕掛けの玩具のようなガタついた動きで嬋娟と。
「!?ど、どうなってやがんだ!!?カタカタ動きやがって!」
「殘影焚――ボクの扈性の1つサ。脳筋のオジSANじゃ、ボクの位相を把握出来やしないヨ」
「…フン!チョロチョロ避けんのは得意かもしれねーが、そんだけじゃ俺を倒す事はできねー!
俺の皮膚にはパラ系アラミド繊維超硬度ケブラーを編み込んである。チェーンソー如きで俺を傷付ける事はできねぇ~!!」
「どう…かな?ボクの鎖鋸の刃は地球上で最も硬い塾生金剛で出来ているヨ。当たったら痛イと思う…けど?」
少女はカタンと右腕を上げ、チェーンソーを軽々と掲げる。
スロットルレバーを引き、回転数を上げ、鋼鐵の咆吼が劇場を包む。
――ウォーハンマー,は北叟笑む。
(フンッ!来やがれ!受け止めた瞬間、カウンターで戰鎚をブチ込んでヤルッ!!)
チェーンソーのガイドバーを高速回転する塾生金剛の無数の刃が各々煌めき、長円の光輪を作り出す。
まるで光の頚飾の様に輝く其の様は貴重な宝飾品宛ら、思わず見蕩れる程に美しい。
――ハッ!!
楕円の光輪が一筋の流れ星の如く尾を引いて横一文字に薙がれた、そんな気がした。
(あっ、熱い!体の中から、腹の内から、猛烈に熱く滾るナニかが込み上げてきやがる)
小娘の右腕に握られていたチェーンソーは確か、俺から見て左側で轟音と光を放っていた、気がする。
何故、今は右側に見えるんだ?
小娘の右腕は、何時から彼女の左腕方向外側に向いている?
フレーム落ち?
肉眼で目視しているのに??
どう云う事だ???
(熱い、熱い、自棄に熱く鐵臭い塊が、咽に、口内に、鼻腔に、上がってきやがった。なんだ、コリャ?口いっぱいに広がりやがって、洩れちまう)
口に手を宛がい“其れ”押さえるが止まらない。
下目遣いで手を覗くと、矢鱈と赤い、真っ赤な鐵臭い液体、そう、大量の血液が手を染めている。
ギョッ、として下を見やると、臍辺りが真一文字に切り裂かれ、大量の出血と腑が飛び出てぶら下がっている。
「ご、ゴフッ、ごふぅ、うっ…ウゲェーッ!!?
――い、いつの間にィ…ぃ、ぃ、ぃ、いでぇ~~~っ!」
激痛に悶え、ウォーハンマー,は舞台床に両膝を付き、次いで、両掌を地に押し付け蹲り、辛うじて其の巨軀を支える。
「ばっ、化物……」
その姿を見て、少女はクスクスと惡戲っぽい笑みを浮かべ、蔑む様に一瞥をくれる。
「うふふ、オジSAN!おじ3!!をぢさン!!!
――見下してアゲル……眞心カラ」
「…ま、待ってくれ……たっ、助けてくれ…」
少女は厚底な黒エナメルの編み上げショートブーツでウォーハンマー,の禿頭をぐりぐりと踏み付ける。
前開きのコルセットオーバースカートを掻き分け、両手でアシンメトリーなティアードミニスカートの左右夫々の裾を摘まみ、たくし上げるかの様な素振りを見せる。
それは決して辞儀ではなく、傅きを強要する横暴だが、併し、無邪気な様。
「クスッ、オジSAN。
オジSANの代わりに、ボクが聖水したげる!お顔を上げなヨ、オジSAN」
チョロッ、チョロ…
――シャァーーーッ!
観客席からは何が起こっているのか良く見えない。
土下座にも似た無様な格好で舞台に這い蹲るウォーハンマー,の頭に片足を乗せ、スカートをたくし上げ背を向ける少女の横顔に不敵な笑み。
舞台照明に照らされ、少女の太腿の隙間からウォーハンマー,の禿頭に掛けて僅かな虹が架かるが、この幻想的、否、躁狂的な様に気付くのは、比較的近くで勝負の行方を見守る行司以外、恐らく誰も感づいてはいない。
「ガッ、ガボガボッ…た、たすっ、助けて…」
「Eヨ、オジSAN、助けてアゲル。
――そう……全部、飮み干したらネ」
「ゴッ、ゴボ…」
力無く頷くウォーハンマー,。
「ゴボッ――ゴクッ!ゴキュゴキュ、ゴクン!」
少女の表情から笑みが消え、無表情に戻り、僅かな蔑みの凍てつく眼差しを足下の大男に向け、ぼそりと一言。
「―――氣持ち惡い…」
――ドンッ!!!
鎖鋸一閃。
ウォーハンマー,の禿頭が其の巨軀から切断され、放物線を描いて吹き飛び、舞台袖近くに転がる。
切り離された胴体の頸から爆発したかの様に夥しい鮮血がぶち撒かれ、少女を染める。
黒を基調とした少女のゴスロリ衣装は、血液を浴びて益々黑く染まり、彼女の肌と髪は紅に萌え、燃ゆる。
少女は暫し、立ち尽くす。
血の雨を浴びる彼女は紅潮し、微かに血色が良くなったかの様。
その短い銀髪の毛先は僅かに桜色を帯び、仄かな赤みを伴ったグラデーションを描く。
尤も、血雨を浴びている少女の微妙な変化に気付く者は居らず、程近くに居た行司さえも分かるまい。
――それにしても、マズイ…
こんな不味いモノ、とてもノドを通らない。
美食家の趣向が今更分かるなんて。
矢張り、もう、彼以外ダメだ。
ボクは、ボクは、“弱くなった”。
否、元から弱々しい存在なんだ。
孤高でなくなった時から至高ではなくなった。
玉座を失ったボクに、ナニが出来るのだろうか?
今、独り、が怖い。
ボクにはアレが、アレにはボクが、依存する。
進まざるを得ない、ロマンティックで甘美な永久なる蟻地獄を。
其れが譬え悶え苦しむ未来しか待っていないとしても、其れでも引き返す事は出来やしない。
こんな、まるで、人間の様な劣情、ボクが持つなんて。
本当に、―――氣持ち惡い…
僅かの沈黙の後、少女は目を見開く。
軈て、鎖鋸を頭上に掲げ、スロットルレバーを目一杯引き、勝鬨代わりにエンジンを吹かした。
――うぉおおおおーーッ!クローディアッ!クローディアッ!クローディアッ!
観衆の声援。
何とも移ろい易いものだろうか。
ついさっき迄ウォーハンマー,のみを応援していた者共が、厚顔無恥にも掌を返す有様、反吐が出る。
頭痛がする、吐き気がする。
何より、気分が悪い。
さっさと戻ろう、ボクの“太陽”の下へ。
行司の制止も聞かず、少女は舞台を後にした。
──THEATRE110564の楽屋裏
MCの勝利者インタビューを無視して、少女は早々に舞台袖に引っ込む。
舞台とは打って変わって薄汚い舞台裏。
名も知らぬ羽蟲が飛び交い、生臭さが執拗い。
死傷者が引っ切り無しに往来するのだから至極当然。
間もなく楽屋。
嚙み合わせの悪い鉄扉は、すんなりとは開かない。
カチャガチャと数回ノブを捻っていると中から扉が開け放たれる。
その狭い楽屋の中には、高校生くらいの少年が一人。
「クロッ!お帰り!」
この時代、こんな場所に似付かわしくない、自棄に爽やかな印象の少年が微笑んでいる。
併し、少女の有様を見ると急に険しい表情を浮かべる。
「ち、血塗れじゃないか!!どこか怪我しているの!?直ぐに手当しなきゃ!」
少年は少女に駆け寄り、その小さな体を両手で支える。
一瞬、少女は硬直したが、間もなく少年の腕を振り解き、蹴飛ばす。
「――き、気安く触るなヨ!ボ、ボクなら平気サ。
それより天道、ボクを迎える時は跪き敬意を払えって云ったハズだヨ」
「勿論、覚えてるよ。でも、今はそんな事を云ってる場合じゃないよ!」
「平気って云ってるでしょ。傷一つ負ってないヨ」
「ほんとかい?」
「うン、本当だヨ」
「嘘だよ、そんな辛そうな表情をして!」
險。
人形宛らの無表情、それだけに端正、極端な迄に眉目秀麗。
その美しい眉頭、眉間に僅かな縦皺を寄せる、否、寄せていた、無意識に。
「……」
「何かあったの?」
「“鮮血”が足りないだけ…だ、だから、早く“飲ませなさい”!」
少女は徐に少年に駆け寄り、飛び付く様に顔を近付ける。
少年のハッとした表情。
此の表情がなんとも云えない。
ボクが“ヒト”なら、恐らく、其れが“好き”と云う感情で言い表されるのかも知れない。
でも、ボクは“人デ無シ”。
歪んでいるんだ。
何もかも…只、今は――。
――口吸。
少年の唇に少女の青いリップが重なり、緩やかに触れ合い、柔らかく這わす。
少年は顔を赤くする。
少女の体温は低い。
ひんやりとした少女のリップに少年の体温が徐々に伝わる。
熱伝導、ではない。
感覚、だ。
束の間、少年の下唇を甘嚙み、軈て、少女は犬齒を、否、牙か、其のチラついた鋭い八重齒を不意に突き立てる。
少年はちくっとした痛みに、思わず片目を瞑る。
滲む血液が芽生え蕾み、小さく鮮やかな柘榴の一粒を成し、少女は其の小さな舌先で掬う。
少女も亦、目を瞑り、穏やかな表情を浮かべる。
――コレ、だ。
ボクが欲しかったのは、やはり“是”だった。
知ってはいた。
理解はしているんだ。
でも、こうして実感する迄、俄に受け入れ難い事実、否、現実。
ボクがボクであろうとすればする程、ボクはボクを否定しなければならない。
なんてボクは、――イラナイ娘なんだらう…
こんな下らない想いに馳せる、そんな今を信じられない。
少し。
ほんの少しだけ…
「…だ、大丈夫かい?」
少年の声に反応し、その魅力的な大きな目を見開き、少女は語気強めに言い放つ。
「大丈夫に決まってるでしょ!早く其処に跪きなさい!
そうだ、その前に賞金を取って来なさいヨ!早くッ!!」
手近にあったクマの縫いぐるみを少年に向かって投げ付ける少女。
――ぽふっ。
顔に当たって落ちかけた縫いぐるみをそっと受け止めた少年は、優しく声掛ける。
「分かったよ、クロ。貰ってくるから、その間にシャワーを浴びて、着替えておくんだよ。新しい服はクローゼットの中に入れてあるから。汚れた衣装はそっちのバッグに入れておいて。
ドレッサーにお菓子置いてあるから後で食べるんだよ。シャワーを浴びてからだからね。先に食べちゃ駄目だよ。綺麗にしてからだ。
それと、ちゃんと部屋の鍵を掛けてね」
「分かってるわヨ!早く行きなさい!」
少年は頷き、慌てる様に楽屋を出る。
薄暗い廊下を主催者の楽屋目指して歩み出す。
楽屋迄聞こえてきたさっき迄の響めきが嘘の様に森と静まり返った舞台裏。
静寂のオノマトペが脳内に思い浮かぶ程。
――それにしても。
彼女は、なんて“儚げ”なんだ。
泣いている。
泪を見た訳じゃない。
でも、分かるんだ。
彼女の其の唇が触れると、彼女の声無き声が聞こえてくるんだ。
助けて――、と。
1つお願いがある。
時間が許すのなら、俺と彼女の出会いを聞いて欲しい。
面白くも、楽しくも、痛快でもない。
でも、誰かに聞いて欲しいんだ。
居たたまれない。
俺が切死丹だったら告解しているだろう。
でも、それは許されないから、聞いて欲しいんだ。
聞き流すだけでいいから。
只、是だけは覚えておいて欲しい。
――他言無用。
君が、君とその大切な家族と友人達が、健やかに暮らす為にも、誰にも云って欲しくない。
そうでないと、“奴等”に気付かれる。
憲兵や特高よりも恐ろしい奴儕に!
俺と彼女の出会いは、そう―――…