僕の知らない物語
僕、桜木一郎は新堂茉優という同じクラスの女子が好きだ。
彼女は、とてもお洒落で、優しくて、面白くて、キラキラしていて、肌が綺麗で、透き通った声をしていて、僕にとっては神様のような存在だった。
でも、彼女は一年上の先輩と付き合っているから、僕とは付き合えない。
つまり僕は叶わぬ恋をずっと夢見ているのだ。
ある日の帰り道、僕は本屋さんに寄って、好きなコミック誌をいくつか買って、本屋さんを出た後、曲がり角を曲がろうとすると、急いで走ってきた女の子とぶつかった、「すいません、大丈夫ですか?」僕は咄嗟に謝った。
しかし、女の子は何事もなかったように立ち上がると、僕の目を2、3秒見た後、魔女のような微笑で「じゃあ、夢で。」と言って、足早に立ち去ってしまった。
僕はその女の子の言葉の意味がわからず、ただ足早に立ち去るその女の子を眺めるだけだった。
その日の夜、寝室の窓からは、遠くの方の雑木林の上にキラリと輝く月が、楽しそうに世界を照らしていた。
僕はその月を見ながらゆっくりと眠りに落ちた。
「お〜い、起きろ〜」
その声で僕は目が覚めた。
目を開けると、僕は草原の上に寝そべっていて、体を起こすと、おそらく声の主である今日ぶつかった女の子がいて、その女の子を照らすように、僕が寝る前に見た月とは比べものにならないほど大きな月が夜空に出ていた。
ただ、一つ不可思議なことがあった。
その女の子の容姿はぶつかった時、髪型や服が違うので気づかなかったが、よく見るとその顔や声は新堂茉優そっくりだった。
「し、新堂さん?」
僕は思わず尋ねる。
女の子はふふっと笑って、違うよと答えた。
「いや、でもどっからどう見ても…」
「そう、新堂茉優そっくりでしょ。」
女の子は自分の容姿を見ながら、嬉しそうに言った。
「何が起こって…」
すると、女の子はニヤニヤしながら言った。
「分かりやすく説明するとね、ここは並行世界。君達がパラレルワールドと呼ぶ世界だね。君達が暮らす世界と同じように、同じ人間が暮らしてる。ただ一つ違うのは君達の暮らす世界とは運命が違うってことだ。歴史も違えば、文化も、人間の運命すら異なる。まぁ、ぶっちゃけ、君達の世界より幸せで平和な世界だよ。」
女の子は続けて言う。
「そういえば、まだ名乗っていなかったね。私は神崎空。全ての並行な世界の支配者だ。ただ、私は本来この世界には存在しない人間ゆえ、ご覧の通り、新堂茉優の姿を借りている。さぁ、来たまえ、少年、こっちの世界の新堂茉優に会わせてやろう。」
神崎空について、草原を歩き続けること約30分、ようやく街に出た、あたりには高層ビルや地下鉄に似た電車が地下から地上に続く線路に出て来たり、遠くの方には三十階建てはあろうかと言うほどのタワーマンションのようなものが建っていた。
「ほら、少年。あそこに新堂茉優がいるぞ。」
神崎空が指差す方を見ると、細い路地から大通りへと、出てくる新堂さんの姿が見えた。
「少年はそこの横断歩道を渡って、新堂茉優が向かっているコンビニに先回りしろ。」
僕は言われるがまま、神崎空の言う通りにした。
コンビニの外に立っていると、新堂さんは僕を見て、「あっ、桜木君こんばんは。」と言って、コンビニの中に入っていった。
すると、どこからか神崎空の声が聞こえる。
「もうすぐ豪雨になる。少年はポケットから財布を取り出して、新堂茉優に傘を買ってあげろ。そのまま家まで送れば上々だな。ああ、あとこっちの世界のお前はいまこの街にはいないから安心しろ。新堂茉優もその事を知らない。もし、少年がこっちの世界の新堂茉優と関わって、こっちとあっちで歪みが生じた時は私が修正してやる。では、健闘を祈るぞ。少年。」
その声が聞こえなくなって数秒後、突然強い雨が降り始めた。
しばらくして、新堂さんがコンビニから出て来た。
「うわ、どうしよ。すごい雨…。傘買うお金もうないし…」
「あっ、あの!」
「ん?」
新堂さんが驚いてこっちを見る。
「俺、傘買うだけのお金あるからさ、良かったら買いなよ!」
「えっ!?そんなの悪いよ!すぐ止むかもしれないし…」
「そ、そういえば天気予報でこの雨は夜中まで止まないって言ってたよ?」
「ええっ!?そうなの??んー、じゃあ買ってもらってもいい?お金はちゃんと返すから。」
「うん!」
僕は震える手を必死に抑えながら新堂さんに500円玉は手渡す。
新堂さんはありがとうと言って、お金を受け取って、再びコンビニに入っていった。
ゴーン、ゴーンとどこかで時計台の音が聞こえる。
ふと、振り返ると、遠くのタワーの電光掲示板に「土曜日23:10」と表示されていて、今日が土曜日であることが分かった。
新堂さんがコンビニから出て来て、お金ありがとうと言って、去ろうとしたので、僕は「お、送っていくよ!こんな時間だし!」と言うと、新堂さんは「じゃあお願いしよっかな」と言って、傘の中に手招きしてくれた。
僕らはまるで初めて相合傘をする恋人みたいだった。
僕の左肩が少しずつ濡れていくのがわかる。
ちらっと新堂さんの方を見ると、絵に描いたようなその横顔が夜の静けさと雨の雫にまとわりつかれ、街灯がその雫を照らし出していて、新堂さんの白い肌がより一層目立っていて、とても綺麗な横顔だなぁと、思わず見入ってしまった。
その時、新堂さんが呟いた。
「私さ、桜木君のことが好きなんだよね。」
え………?
嘘だろ…
心臓の鼓動が早くなっていくのがわかる。
「体育祭の時に私怪我しちゃった時にすぐ絆創膏くれたじゃん?私すごく嬉しくてさ。それからずっと桜木君のことが好きなの。」
ん?体育祭?ああ、こっちの世界の俺はそんなことしてたのか。
「じ、実は俺も新堂さんのこと好きなんだ。」
自分の口から出た言葉に自分でも驚いた。
すると新堂さんはぷっと吐き出して、「なんか今日の桜木君おかしいね。いつも私のこと呼び捨てにするのに…」
な、そうなのか。こっちの世界の僕は僕ほど内向的じゃないらしい。
「でも、嬉しい。ありがとう。私で良ければ付き合ってくれる?」
新堂さんは恥ずかしそうに僕の方を見て、そう言った。
「ごめん。付き合いたいけど、僕にはそれを決める権利がない。」
「え、なんで?」
「ごめん。理由は言えないんだ。でも、新堂さんのことはすごく…好きだよ。」
新堂さんは涙を見せないようにしているのかしばらく俯いていた。
だけど、しばらくして顔を上げると、僕を見て精一杯の笑顔でこう言った。
「ありがとう。私も桜木君のこと大好きだよ。」
新堂さんの目には、流れ落ちなかった雫が光っていた。
そうした会話があってから十分ぐらい歩くと、新堂さんの家に着いた。
「せっかくだから、泊まって行く?親夜勤でいないから。あ、ごめん。迷惑かな?」
「ううん、そんなことないよ。じゃあ、こんな時間だし、泊めてもらってもいいかな?」
「うん。」
新堂さんは小さく頷いた。
新堂さんの部屋に通されて、女の子らしい部屋を見た時、元の世界の新堂さんもこんな部屋に住んでるのかな。と考えてしまった。
新堂さんは「お風呂入ってくるね。」と言って、洗面所へ向かった後、ガチャとドアの音が聞こえて、シャワーの音が聞こえてくる。
変な想像をしないように必死に新堂さん以外のことを考えた。
あ、そういえば着替えどうしよう…。
その時、後ろから声がした。
「これでも使いたまえ。」
振り返ると、ベッドに神崎空が座っていて、手には下着とパジャマ、簡易洗面具などがあった。
「う、うわっ、いつ入ってきたんですか!?」
「え?ああ、さっきちょこっとな。それよりさっさと受け取りたまえ。時間がない。」
「あ、どうも。」
僕は神崎空が用意していたそれを受け取る。
神崎空は立ち上がると、「さて、そろそろ行くか。」と言った後、思い出したように言った。
「少年。君がこの世界に入れるのは夜明けが来るまでだ。夜明けまでには君は私の元に来て、ある決断をしなきゃいけない。夜明け前に迎えに来る。それまで新堂茉優との時間を楽しんでおけ。」
神崎空はそう言うと、ゆっくりと時空が歪むように、静かにその姿を消した。
しばらくして、新堂さんがお風呂から出て来た。
「お風呂上がったよ。あれ、着替え持ってたんだ。」
「うん。バッグに入ってた。」
僕は着替えと、洗面具を持って洗面所に向かった。
新堂さんの入ったお風呂…。
そんなことを考えてしまいながら、僕は湯船に浸かる。
違う世界なのに、とても居心地がいい。
こっちの世界にずっといれば、新堂さんとずっと入れるのかな。でも、この世界にいれるのは夜明けまでみたいだし…。嫌だなぁ。こっちの世界にいたい。
3秒後、深いため息をこぼして、僕は体を洗って、さっと湯船にもう一度浸かって、お風呂から出た。
「お風呂貸してくれてありがとう」
そう言いながら、新堂さんの部屋に行くと既に電気が消えていて、スマートフォンをいじる新堂さんがベッドに横たわっていた。
「いえいえ、あ、布団他にないから、私と同じベッドで寝てもらってもいい?床に寝させちゃうのも悪いし…」
新堂さんが他意なくそう言ったので、僕は身体中に電流が走ったような感覚になりながら、「じゃあ、そうする。」と答えた。
新堂さんの布団の中に入れてもらうと、既にあったかくて、距離が近いせいか、新堂さんの甘い香りが、僕の鼻の中で広がって、同時に切なさや愛しさといった感情をどこからともなく引き出してきた。
新堂さんはしばらくして、スマホを置いて、掛け布団をぎゅっと握りしめた。
お互いに何も喋らないまま、数秒がたった。
沈黙に耐えられなくて、僕は呟いた。
「新堂さんは……僕と…僕とずっと一緒にいたい?」
新堂さんは小さな声で「うん」と答えた。
「でも、桜木くんは私とずっといられないんだよね?」
その問いに答えられずにいると、新堂さんは続けてこう言った。
「わかるよ。なんとなく。多分桜木くんは違うどこかから来たんだよね?」
僕は何も答えられない。
「これは…これは…夢なのかな?」
「夢じゃないよ」
新堂さんの最後の問いに僕は即答していた。
「夢じゃない。夢じゃないけど……お互いに知らなかったはずの物語なんだ。」
「そっか。そうなんだね。」
「…。」
「…。」
「そろそろ寝よっか。」
「そうだね。」
「おやすみ。」
「おやすみ。」
月の光だけが差し込む、新堂さんの部屋で、僕と新堂さんは静かに眠りについた。
「少年!少年!起きろ!」
耳元で怒鳴る神崎空の声で僕は目を覚ました。
時計は4時を回っていた。
「行くぞ。決断の時だ。」
僕は着替える暇もないまま、新堂さんにまともにサヨナラも言えないまま、部屋を後にした。
僕らは僕が目覚めた草原まで戻って来た。
神崎空が草原に一つだけポツンとある石の上に腰掛ける。
「どうだ?こっちの世界は。楽しかったろう?」
「はい。とても。」
「ここにいたいか?」
「はい。」
「代わりにこっちの世界の桜木一郎は殺され、元の世界に君がいたという記憶は全て消えるぞ?…それでもいいのか?」
「元の世界に戻る方を選んだら?」
「君がこの世界にいた記憶はなくなり、君はいつも通り目覚める。ここに来た記憶は新堂茉優からも、お前からも消え去る。」
「じゃあ元の世界に戻ります。」
神崎空は目を丸くして、いかにも驚いた態度を見せると、「元の世界じゃあ新堂茉優との恋は叶わぬままだぞ?いいのか?幸せになりたくないのか?」
「確かに、僕にとってはこっちの世界の方が幸せです。でも、僕は元々こっちの世界の人間じゃありません。」
神崎空はため息をつくと小さく笑って「本当にそれでいいのか?」と聞いて来た。
「はい。」
幸せにはなりたい。
でも、僕はこっちの世界で幸せになることは出来ない。
こっちの世界の僕を殺してまで、幸せになんかなりたくない。
僕は街の方を振り返った。
短い時間だけど、とても幸せだったよ。
さようなら、こっちの世界の新堂さん。
僕の後ろで神崎空が静かに告げた。
「夜明けだ。」
僕はいつも通り目が覚めた。
あれ、何故だろう。
とても幸せな夢を見ていた気がする。
まるで、夢の中で抱きしめられて、すごく安心して眠っていたような、そんな気がするんだ。
僕は身支度を整え、朝食を食べ、家を出た。
学校に着くと、いつものようにみんながワイワイ騒いでいて、僕は取り残されたみたいだった、彼氏さんと話している新堂さんの姿は今日もとても綺麗だった、そんな叶わぬ恋を夢見ながら、日が暮れ、僕は校舎を後にしようとした。
その時、「待って!」と声が聞こえ、振り向くと、そこには新堂さんがいた。
新堂さんは僕に「一緒に帰ろ」と誘い、下足箱から制靴を取り出し、僕に微笑みかけた。
「いいの?彼氏さんと帰らなくて」
「うん。多分私、浮気されてるから」
「そうなんだ…」
聞いてはいけないことを聞いてしまったような気がして、僕は黙り込み、視線を、新堂さんではなく、夕焼けへと移す。
その時、新堂さんがいきなりこう言ったんだ。
「昨日、不思議な夢を見たの。」
新堂さんは昨日見た夢を丁寧に話してくれ、僕と付き合うことになったという夢の内容に僕は驚いたが、何故か同じ夢を見たことがある気がした。
でも新堂さんが見た夢は僕の知らない物語なんだ。
そう。二人が違う世界で恋人同士になる、僕の知らない物語。