5
強い魔障の波動を受けた保は一分にも満たない極僅かな時間、完全に意識を失っていた。
我に返った保は、己を鼓舞してゆっくりと立ち上がる。体は相変わらず警報を鳴らしているが、無理をすれば立ち上がれない程じゃなかった。
「お目覚めか?」
語りかけるアグニマンの声に反応すれば、先程とさほど変わらない光景が飛び込んできた。しかし、決定的に違うことがいくつかある。
アグニマンの両手には、セフィアとゼルが掴まれている。しかし、保が意識を失う前よりもその顔色はずっと悪くなっているようだ。それだけではない、それこそ彼女達の生気を吸い取ってしまったかのようにアグニマンの傷は癒え、肌にはツヤが戻っているような気がした。
「二人を、離せっ」
「ほぉら、出涸らしで良ければな」
ゴミでも捨てるような気軽さで、セフィアとゼルを放り投げれば、保の足元まで二人の華奢な体は転がってきた。
「ゼル、セフィアさん!」
膝を曲げて覗き込んだ二人は苦悶の表情を浮かべているが、微かに細く呼吸を繰り返している。
決して良い状況ではないが、とりあえず二人が生きていることに保は胸を撫で下ろす。
「急ごしらえの魔法陣が良くなかったようだ、中途半端に彼女達の力を吸い取ってしまった。だが、今はこれだけで十分だ。――お前を殺すにはな」
ハッと顔を上げた保の眼前には、近づいてきたアグニマンが立つ。
保は拳を握るが、アグニマンはひらりと身を捻りそれを躱す。ダークエルフだった時のような魔障の流れは感じられない。ただの人間に戻ってしまったのだ。
「お前はどうやって殺してやろうか? 幻や催眠の類は効果は無いんだったよな? だったら、ハルの力でたっぷり時間をかけて内側から破壊してやろうか。それとも、ゼルの筋力で、次はダークエルフではなく潰れたトマトに変身するのも面白いかもしれんな」
今日何度目かの命の危機だというのに、いや、尋常ない数の危機の中に立たされたせいだろう。保の心はどこか冷めていた。静かな水面のように、一つ一つの思考が垂れ落ちる滴のように心に響く。
絶対的に絶望的な状況だ。例え、ここにリーアがやってきたとしても、アキホが助けようとしても、それより先に殺される。いや、殺されるならまだいい、彼女達の足を引っ張らなくて済む。だが、この絶望は予想できなかったわけではない、十二分に考えられる状況だった。
ジャラバから情報を聞いた時に、アキホでさえも動揺していた。勝つ算段はアキホかリーアならアグニマンと戦っても五分五分、偶然一つで勝敗の天秤は傾き方が変わる。力と力では駄目だ、都合の良い相性や必然的な宿命を呼び寄せるしかない。いくつか相談した作戦の中で、最もギャンブル性が高く、最も確実に勝利が収められる方法があった。もちろんダークエルフになった段階で倒せるなら一番だったが、もしもそれすらも破られてしまった場合――。
――勝負をせずに、勝利をする。導き出したのは、保にしかできない、それでいてアグニマンにしか通用しない方法だ。正直、ダークエルフになった際に、アグニマンを追い詰めることができたのは、予想以上の出来事だったが。
保はダークエルフになった時、アグニマンに負けるはずだった。
結果、奇妙な運命の巡り合わせに保は吹き出す。
「ははっ」
保はさもおかしそうに笑い声を上げた。まるで、喜劇のオチを読んでしまった時のように、第三者のように口角を曲げた。
「とうとう、おかしくなったか」
見下ろすアグニマンには明らかに不審そうな表情が浮かぶ。それもそのはずだろうと保は思う。突然ダークエルフになって、絶対的な勝利者だと思っていた己を敗北まで導いたのだ。油断はもう無いだろうが、警戒はしているはずだった。
「ああ、すまねえな……。勝った気でいることに驚いているんだよ、俺は」
「挑発にもならんな」
「ダークエルフに変身する薬なんだけどよ、アレには副作用があるんだよ」
すぐに攻撃してこないアグニマンは、保の話に耳を傾けている。最初は演技だった保も、状況が少しずつ変わろうとしていることに気づき、今一度、その場に不釣合いなぐらい大きく笑えば言葉を続けた。
「一個食べれば、ダークエルフ一人分の力だ。能力が切れはするものの、俺にはダークエルフとして何らかの能力が残るらしい。使えば使うほど、ダークエルフに近づいていっちまう薬だが、逆に言えば使った分だけ何倍も強くなるってことさ。そして、俺は……勝利の鍵を持っている」
巾着袋をポケットから取り出し、手の平にひっくり返すと、中からは白い球が出て来る。初めて見た時の保は、ドロップ飴のハッカのようにも見えた。
アグニマンは口の端を緩めた。
「それを聞いて、私が怯えると? 残念だが、お前は大きな失敗をしている」
保の手の平に出したばかりの白い球は、瞬く間に視界から消えた。
慌てて探すとアグニマンは、見せびらかすように人指し指と親指の間に白い球を摘んでいた。
「そ、それが、俺の最後の希望なんだ……!」
取り返そうと手を伸ばした保をアグニマンは軽く足蹴にした。
「つまり、私がこれを食べれば、さらにダークエルフとしての純度を高められるという訳だな。良かろう、この私を苦しめた薬で、お前を葬ってやろう」
あっ、と短く声を発した保の目には、白い球を噛み砕き飲み込むアグニマンの姿が映った。
満足そうに息を吐いたアグニマンの体からは、魔障が噴出した。
「あの薬屋は、有効利用できそうだな。あの女を手に入れたら、ボロ雑巾になるまで使ってやろう。……見よ、希望が絶望にひっくり返る瞬間をな!」
体中に穴が空いたように、魔障をアグニマンが噴き出し続ければ、唐突に魔障は停止した。そして、爆発するように魔障がアグニマンから散った。
その時、保の耳には高笑いを続けるアグニマンの声が耳にずっと届いていた。
※
「見せてもらったぜ、絶望と希望がひっくり返る瞬間をな」
含み笑いをしつつ保は、静かな空間に言い放つ。
視認できるほど密度の濃くなっていた魔障は消えた。そこには、保、それから横たわるセフィアとゼル、その数メートル先には変身したアグニマンが居た。
アグニマンは、私にっ、と言えば、喉に詰まったように言いよどむ。そして、もう一度息を吸い込んでアグニマンは吼えた。
「――私に何をしたっ!!!」
確かにアグニマンは変身した。ただし、さらなる力を手に入れたダークエルフではない、ただの――人間に戻ったのだ。
状況が飲み込めないアグニマンは、顔に触れて薄くなった髪の毛に触り、年齢を重ねた自分の体に戻ったことに気づき、その場に両膝をついた。
既に体がボロボロだった保だが、みっともなく狼狽するアグニマンを見ていると再び活力が宿る。倒れたままのセフィアとゼルの横を通り、ただの人間の男に戻ってしまったアグニマンを見下ろした。
「言ったろ、これが最後の希望だって」
「ま、まさか……」
わなわなと震える両手でアグニマンは顔を覆った。惨めな姿を保は鼻で笑い飛ばす。
「あれはダークエルフの薬じゃねえよ。もしも戻れなくなった時の為に、人間に戻る為の薬だ。しかも、それは緊急用だからかなり効果が強い。もう二度と変身することができなくなるぐらいにな」
「あの状況で、お前はハッタリを言ったのかっ」
「人間である俺がお前と戦うことで、お前は油断する。だが、俺はダークエルフになり、お前を驚かせて警戒させた。だからお前は、まだ何か隠してるかもしれない、だが、変身しなければただの人間だ。そんなことを考えながら戦っていたせいで、最後に欲が出ちまったな」
アグニマンは顔を覆っていた両手を離すと地面に手をつき、悔しさと忌々しさから何度も地面に頭を叩きつけた。見ていた保からしてみれば、何度も土下座しているようにしか見えないのが、さらに滑稽に思えた。
額から血が飛び散るまで頭を叩きつけていたアグニマンの動きが止まった。
「お前だけは……許さん……!」
いきなり顔を上げたアグニマンは保に、右手で握った土を投げつけた。
「――くっ」
慌てて下がる保は目を擦るが、うまく視界が安定しない。
「私は全てを失った……。だが、明確な復讐心という最後の生きがいをくれたお前に感謝するぞ。ささやかな感謝の気持ちだ……お前も、ここで死ね」
靄のかかったような視界の中でキラリと何かが光った。それに気づき、保の背筋が冷たくなる。アグニマンはその手に、ナイフを握っていた。
重たい足音がずずっずずっと近づく、何かに躓き保は尻餅をついた。まずい、と思いながら顔を上げた。すぐ目の前まで迫るナイフに気づき、保が目を閉じた。
「う……あれ……」
あの焼けるような痛みも刃物が体を貫通する不快感も、どれだけ待っても保には感じられなかった。
不思議に思って目を開ければ、さっきよりも視界は随分と見えるようになっていた。
目を凝らした先には、ナイフを地面に落とし小刻みに震えるアグニマンの姿。それから、保を庇うようにして前に立つセフィアが居た。
「さようなら、お父様」
セフィアの呟きが保の耳に届けば、アグニマンは身を裂くような絶叫を上げると白目を剥き、空気を求めるように天を仰げば、そのまま動かなくなった。
やつれた顔のセフィアが振り返り、事態が飲み込まないまま呆然とする保に微笑みかけた。
「間に合って良かったです……。アグニマンは、私の幻想の中で……死ぬまで永遠に終わらない生き地獄の中で苦しむことになるでしょう……」
安心させるように笑いかけたセフィアの体が傾き、そのまま地面に投げ出された。
「セフィアさん!」
情けないことに足腰の力が抜けてしまっている保は、匍匐前進のようにしてセフィアに近づけば、その姿に言葉を失う。
「妹達のことになると、盲目的ですね……私ったら……」
茶目っ気を込めてセフィアが言うが、そんなことでは誤魔化しきれない。――セフィアの腹部には刺し傷があった。
咄嗟に保はアグニマンが落としたナイフを見れば、刃から柄の部分にかけてべっとりと飛沫したように血が付着していた。
「そんな……セフィアさんは、俺を庇って……」
血まみれの手が保の頬を撫でた。
「そんなに悲しい顔をしないでください……。あ……お顔を汚してごめんなさいね……。今の私に……慰める方法なんて……これぐらいしか……」
「もう喋らないでください!」
「――タモツ?」
保の大きな声で気づいたのか、弱りきっていたはずのゼルが保の背後に立ち目をむいていた。
「ゼル……ごめん、セフィアさんが……」
保の顔とセフィアの顔を交互に見たゼルは、それで全てを察したようだった。
「おいで、ゼル……」
弱々しい声でセフィアがゼルに言えば、セフィアを間に挟むようにしてゼルはぺたりと隣に座った。
「セフィアは……死んじゃうの……?」
「どうかな……。なるべく……頑張ってみるけど……。駄目だったら、ごめんね……」
イヤイヤと首を横に振ったゼルは、縋りつくようにしてセフィアに抱きついた。ゼルの顔にはセフィアの血が大量に付いたが、ゼルには気にした様子もなく、必死にセフィアの命を繋ぎとめようとしているようにも見えた。
「嬉しいな……ゼルがあんまり甘えないから……少し心配してたの……」
セフィアはゼルの頭に手を置き、慈しむようにその頭を撫でた。
「こんな風に甘えてくれるな……ボロボロになって良かった……かもなぁ……」
「良くない、セフィアはボロボロになったら駄目なのに……!」
「駄目じゃないよ、お姉ちゃんだもん……。巻き込んじゃって……ごめんね……。たぶん、私は……愛されたかった……愛したかっただけなんだ……。アグニマンが作る愛の真似事に浸って……それに、溺れていた……。でも、ゼルに……タモツ君達に会って……やっと……私は私になれた」
セフィアの瞳から大粒の涙が流れていた。今、セフィアは四姉妹の日々を夢想しているのかもしれない。姉妹を探す為に命令に従い続けることも、葛藤することも、偽りの愛に縋る必要も無い姉妹の日々。
「私は寂しい人だったのかもしれない……。私は卑しい人だったのかもしれない……。でも……妹達を愛していた……ただの姉になりたかっただけなの……。どこにでもいる、誰でもない……ましてやダークエルフなんて関係ない……ただ、本当の意味で愛したかった」
ゼルの流す涙とセフィアの涙が入り混じり、血と涙の流れた痕が肌を伝い地面に染み込んでいく。
「……ゼル……なんだか……もう意識が……タモツ君……妹達のことをお願い……」
いつしか涙を流していた保は、何度も何度も頷いた。一生懸命な青年の姿に、セフィアは安心したように微笑んだ。そして、最後の仕事をするようにありったけの力でゼルを抱きしめて包み込むような優しさで囁いた。
「――私は、妹達を愛しています」
「セフィア……? セフィア……お姉ちゃん……!」
満ち足りた表情でセフィアが告げると、その手はゼルの背中から滑り落ちた――。




