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ウィルターソン家の屋敷のレンガの壁は、大人二人が肩車しても届くことが困難なほど高く、無事に一人が壁の上に登るがことが成功したとしても駐留する兵士や大勢の使用人を抱える屋敷に潜入するのはタカ派のエルフ族の集落を人間が歩くぐらいに大変なことだ。
時として自然から守り、時として他者の好奇の視線からも守り続けた壁の一角が――砂の城でも壊すかのように軽く吹き飛んだ。
舞い上がる土煙の中から屋敷の外へ飛び出した二つの影、一つはリーア、一つはハル。両者、離れすぎず近づきすぎず、一定の距離で見合ったまま屋敷の脇の道に躍り出る。
「壁に触っただけで粉々に砕くか……。それが、お前のダークエルフとしての異能か。どうやら、ゼルに使った時は手を抜いていたようだな。生かさず殺さず苦しめて、か……さらに腹が立ってきたぞ」
鎧を装備していない為、もしもハルの破壊の手に触れれば、体を粉砕されるだろう。しかし、リーアは鎧が無いからこそ、対等に渡り合えるのだとも考える。
ハルの動きは素早く、ゼルの肉体を強化する異能とよく似ている。ただし、肉体を強化再生することに特化したわけではなく、己本来の身体能力に依存している。
猫のように俊敏な動作で、狼のように鋭い攻撃をしてくる姿は、どこかウルフェス族を彷彿とさせた。それ故、一瞬の動きの遅れが命取りになることが本能的に感じられ、鎧なんて最初から無い方が僅かでも速度の上昇に繋がった。
リーアが喋りかけたことすら気にすることもなく、顔の前で両手の拳を作ると、身を屈めて突進してくる。
「早いっ……!?」
リーアは牽制するように剣を横に薙ぐが、その間をかい潜り、ハルの右の拳が接近する。
「魔障壁!」
危険を感じたリーアはすぐさま魔法を防ぐ為に不可視の魔法の壁を張る。だが、ハルの拳には案の定、魔法の力が宿っていた為にリーアの作り上げた魔法の壁、魔障壁に反発し小さな爆発が起きた。
「あぐっ――」
巨大な指に額を指で突かれたような衝撃を受け、リーア、それにハルも後方へと大きく吹き飛ばされた。
誰かに脳みそを揺さぶれるような激しい眩暈を払うように頭を振るが、それが逆効果になったようで、さらに視界は右に傾き左に傾きと焦点を合わせようとしない。
舌打ちをして、治癒魔法を頭に施すとすぐに楽になってくる。癒えた頭が、次なる危機を気配として伝えた。
確認する前に地面に落ちていた剣を掴んで、リーアは頭上へと払い上げた。確かな手応えを感じつつ、顔を上げて立ち上がる。
リーアの足元には血痕が残り、それから数滴ほど地面に血が染み込んだ跡を辿れば、ハルが傷付いた手の甲を舌で舐め取る姿があった。
ハルの人らしい動きはそれだけで、すぐに両手を拳にすると顔の前に構えた。
「感情でもあれば、多少なりとも怪我を気にして動きが鈍るものだが……。相手が操り人形となると、そう簡単にはいかないか」
苦々しそうにリーアが呟き、剣先から垂れ落ちる血を払い落とす。
武器を持っているリーアには、いくらが分があるような気がした。しかし、それは敵と戦うならの話だ。目の前のハルが、ゼルの姉なら下手に傷つけるわけにもいかない。アキホや保、リーアの願いは四姉妹が無事に再会できる未来を手にすることであり、その内の一人でも再起不能にしてしまえば本末転倒である。
「殺さず、傷つけることなく、意識奪うか行動不能にするしかないか。まあ、やろうと思ってできないことじゃないな」
右手に持った剣を下げると、左手を前方にかざすと緑色の魔方陣が発生する。大気が震えて、魔障の粒子がリーアの周囲を取り囲む。
野生的な直感で感じ取ったのか、即座にハルが前のめりに駆け出す。
「遅いぞ! ――シーカー・アド・シーカー!」
詠唱を終えたリーアが右手の剣を魔方陣を真っ二つにした。二次元的であるはずの魔方陣が割れ、その中から何かが込み上げて来るのをハルはダークエルフの直感で感じた。回避行動を取るために、ハルは足を止めてしまう。
「本能で挑み、直感で判断するか。人形じゃなければ、私と良い決闘をしたかもしれんな! 風の魔法をとくと味わえ!」
半分になった魔方陣が完全に砕け散ると同時に、無数の疾風の刃が放出し地を裂き泥をひっくり返し、周辺の木々を細切れにする。だがしかし、風の刃はハルの周辺を無残な光景に変えてもハルを傷つけることはなかった。
ハルが多少なりとも理性を持っていたら、その違和感に気づくことができただろう。だが、今のハルは操り糸が無いだけの人形。攻撃に対して、自分が傷付かないように守ることしか考えない。回避することだけ考え、次の行動は攻撃することだけ考える。一見合理的とも言えるが、それは本来誰しもが持ち合わせている戦術という重要な要素を捨てたアグニマンの愚作でしかない。
自分が立っている場所だけ無風地帯のように、その場でただただじっとしているだけのハルにリーアが距離を詰めると再び左手をかざした。
「バース・ゲート!」
発生して数秒もしない内に魔方陣が消えた。だが、状況は確かに進展していた。
目玉の変わりにガラス球を入れてしまっていたかのようにハルの瞳には再び光が宿ると、どこかほっとしたようにリーア立っている方へと傾いた。
「相手を洗脳するよりも、壊す方が何倍も簡単だ。ちゃんとお前の偽者は、お前の心の中で斬っておいたから安心するんだ」
倒れこんできたハルをリーアが受け止めると、心が救済された証明のようにハルのイヤリングが粉々に砕け散った。
※
「本当に広い屋敷ねえ……。何か出そう……」
言葉通り、肝試しでもするような気軽さでアキホが言う。
ディラを追いかけて屋敷に入ったアキホを迎えたのは大広間だった。左右の壁からぐるりと囲むように作られた階段、さらには中央には脇の階段よりも大きな階段が一つある。左右の階段を通る場合は姉妹の部屋に向かうことになるが、中央は屋敷の主用ということだろうかとアキホは勝手に想像する。
明かりは消え、時刻はもうすぐ夜になろうとしていた。普段は一日の疲れを癒す茜色の空も明かりの消えた屋敷の中では、不気味さを高める為のスパイスの役目をしている。
「ほら、私が変なことを言うから、女の子の幽霊的なのが現れるフラグが立っちゃった。こういうフラグ管理て、前に居た世界から甘いのよねえ」
中央の階段には、ぽつりとそうした置き物のようにディラが立っていた。最初からそこに居たのなら、金目の物ばかり目が行ってしまう銭ゲバな性格を治す努力が必要だとアキホは密かに考えた。
無表情でディラはアキホへと手の平を向けた。催眠魔法だが、その効果が無いと思ったら、次に指を鳴らす。再度効果が無いと分かっている魔法を何度も繰り返し続ける姿は、まさに人形のようだった。
アキホはトランクケースを床に置き、それを椅子代わりに足を組んで座れば、退屈そうに欠伸をした。
「長期戦になるかしら? 催眠は効果無いし、あの子に感情が無いなら逆にこっちが催眠でどうにかできるわけじゃないし……。どっちにしても、指咥えて待っている訳にもいかないしね」
相変わらず手を上げたり下げたり鳴らしたりするディラを呆れたように見ていたアキホが立ち上がれば、トランクケースを止めていた二つの鍵を外すと、全部開けることはなく暗闇に手を突っ込む。
「さーて、何が出るかな何が出るかなー」
ガチャガチャガチャングリグリグイーンベチョベチョヌルヌルズズズズー。
絶対にトランクケースの中から聞こえる訳が無い音を屋敷に響かせていると、ディラがラジオ体操のようなあの動作を停止していた。だらりと手を垂らしているだけで、次のアクションが見えてこない。
不振に思ってディラを凝視していると、ディラの立つ中央の階段の奥の闇の中で何かがもぞもぞと動けば、人の頭程の大きさの赤い光が蠢く、それが二つの目であることに気づいたのはその三秒後だった。
ディラの背後から顔を出したのは、五メートル前後の大きさをした――魔物だった。
二つの目が付いている顔には、大きな牙に幼児なら一飲みしてしまいそうな口、顔の周りには鋼のような硬さの鬣が生え、客観的に現実を受け入れるためにアキホは必死に思いつく言葉を探したが、結局出てきたのは、二足歩行のライオンだった。
茶黄色の体をしているが、その鬣だけは銀色をしており、色合いから既に危険信号を発信していた。魔物は二本足で階段の上から見下ろすと、その手には鉄の槍が確認できた。槍とはいっても、いくつもの銀色の刃のようなものをくっつけて作っているようだ。
武器を作る知性を持ち、さらには、自分達の種族の鬣を武器にすら変える。アキホは、魔物の正体に気づくと、あっと声を漏らした。
「魔獣レイオニイル……。同族を喰らい、奪った鬣を武器にする魔物ね。ただし誇り高く凶暴で飼い慣らすなんてことは絶対に不可能……のはずだけど、完璧に催眠で操られているわね。さっきダークエルフに入門したばかりのパパの差し金かしら?」
考えたものだとアキホは素直に感心しながらトランクケースを閉じた。
アキホを催眠にかけることができないなら、さらなる脅威を用意すればいい。それこそ催眠なんて必要のないぐらい分かりやすい暴力という形で。
魔獣というのは、大気に漂う魔障の影響を受けた動物の突然変異体だ。最初は色違いや凶暴性が増す、食性が変わる程度だったらしいが、次第に魔獣が独自の進化を遂げていき、魔獣はいつしか知性を持つ魔物へと変化していった。というのが、この世界の魔物の存在だ。
確かにレイオニルは辛うじて魔獣と呼べるが、その力は既に魔物レベルに達していた。魔障に適正にある魔物を催眠にかけようとするのは手間取るだろうが、頭の中は犬猫とほとんど変わらないレイオニルなら可能だろうという考えだったのだろう。どうやら、その目論見は無事に成功したらしい。
ディラが口を動かすことなく、前に手を向けた。それはさっきまの無意味な催眠魔法をかける為の動作とは意味が違う。
――アイツを殺せ、きっとそういう類の指示なのだろうと考えたアキホの予想通り、レイオニルは窮屈そうにしていた階段の上から飛び降りた。
「ちっ――!」
レイオニルの飛び掛ったタイミングに合わせて、あらかじめ魔法障壁を施していたトランクケースをハンマーのように振るう。トランクケースとレイオニルが接触するほんの数センチの距離で、魔障の光が弾けた。多少効果はあったようで、レイオニルは呻き声を上げながら顔から地面に落下した。
その隙にアキホは、床に亀裂を入れながら滑るレイオニルの巨体の後ろに回りこむと尻の辺りに手を伸ばした。触れた辺りには、細長い物体、ほんの十センチにも満たないような長さの尻尾をアキホは掴んでいた。
「クウゥゥン」
甘える時の猫のような声でレイオニルは鳴いた。その声を聞いたアキホは、不敵な笑みを浮かべた。
「レイオニルには、一つだけ弱点がある。それは、常に体毛の下に隠された尻尾。本来なら警戒心が強く、尻を見せることは絶対に無いはずだけど……催眠状態のせいで、正常な思考ができなくなっているのね。何より、尻尾が弱点だと言われているのは――」
尻尾を掴まれているとはいえ、催眠効果を高めればレイオニルはすぐにでも復活してしまう。それを承知しながら、尻尾を離すことなく、アキホは白衣の中から注射器を取り出して説明する時間すら惜しいという感じで尻尾へ注射針を突き刺した。すると、レイオニルは先程よりもさらに情けない声を上げる。
「――第二の心臓と言われているからよ。レイオニルは魔障を尻尾で感じ取る為、外界と常にオープンになっている部分だからこそ、最も脆い。常に魔障を吸収しないと生活できない魔獸には、必ずある弱点ね」
注射器の中に入ってた睡眠薬を全てレイオニルに流し込むと、気味の悪い輝きの瞳が大きな瞼に閉ざされると、数秒もしない内にいびきが聞こえてくるようになった。
重たい机を引きずるようないびきを耳に、アキホはディラへ向き直った。
「貴女達には、生まれつきの特殊な能力があるかもしれないけど、人間達だって負けてないわよ。潜在的に能力を持っていると、ついついそれに依存してしまうだろうけど、私達人間は何も持たずに生まれてくる。下手をしたらリスクだって背負うかもしれない。……だけど、頑張り次第で想像もできない強大な力を発揮することもできるのよ。……それが、今見せた私の武器である知識よ」
一歩一歩階段を上がりながら、アキホは白衣をめくる。白衣の下には、レイオニルに使用して空になった注射器一つに加えて、五本の注射器が裏地に縫いこまれたポケットの中に収納されていた。その内一本を手に取る頃には、アキホが手を伸ばせば届く距離にディラが居た。
「策士面したアグニマンもさほど頭がいいわけじゃないのね。催眠術師を操るなんて、愚の骨頂よ。人形が操る人形なんかが、まともに動くわけ無いじゃない。こんな道具に頼らずとも――」
再び何度も催眠をかけようとするディラの袖をめくり、注射器を刺す。倒れてくるディラの体は、まだ幼いだけあってアキホでも十分に支えられる重さだった。そして、アキホはディラのリボンをすぐさま外した。
「――彼女達の心を手にすれば、道具なんて使わなくても、もっと良い働きをしたでしょうね。少しでも、人を信じる心があれば、私なんてすぐに負けていたわよ」
ディラの髪を撫でていたアキホの言葉は、そこには居ない元凶となった男へ向けたものだった。
注射の薬は単なる睡眠薬だ。護身用の注射器五点セットの内の一つなので、下手をしたらディラは数日は眠るかもしれないなと考えていると、中庭の方からは耳を塞ぎたくなるような轟音が響き渡った直後、屋敷中の窓が割れて宙に舞った。
「保君……」




