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誰かに呼ばれた気がした。
「ん? なに、翔太」
しかし振り返った先にあったのは幼なじみ兼親友兼クラスメートである榊浩一の、よくよく見慣れた、無駄に整った顔だった。
最近新調した、オシャレっぽい黒ブチの眼鏡には、まだ見慣れていないが。
そういえばこの眼鏡にしてから女子に呼び出される頻度がさらに増えた気がする、などと、割とどうでもいい事を考えながら応える。
「なんでもない。気の所偽だった」
「ふぅん。あ、帰り本屋寄っていい? 予約しに行きたいから」
「ああ」
教室の窓からは夕暮れのオレンジの光が差し込んでいる。部活も終わり、スピーカーからは早く帰宅せよと言わんばかりの緩やかなメロディーが流れている。いつもの風景。
桐原翔太は最近悩んでいた。
十七の誕生日を先月無事に迎え思春期真っ盛り、青春の真っ只中であることを考えれば―――浩一ならばともかく、もう一人の幼なじみ兼親友兼クラスメートであるリーコ……こと、藍川梨衣子ならば、
「恋!? 恋よね! ついに翔ちゃんも恋しちゃったのね!? 昔はあんなにちっちゃかったのにねー! で、誰に? ねぇ誰? ねーってばー!」
などと、嬉々とした表情で詰め寄るに違いないが、残念ながら(?)悩みとは、恋愛ごとではなかった。
最近、誰かに呼ばれている気がする。
誰に? わからない。誰かに、だ。
何で? 知るか。とにかく呼ばれている気がするのだ。
言葉で話しかけられているのではなく、もっと曖昧な感覚。ここではないどこかで「来てほしい」と強く願う人がいるのを知りながらもそれを無視している、後ろめたさ……というかなんというか。
よく分からない。
しかし翔太は生まれて約十七年が経つが、引っ越したことはなく、地元から離れることも滅多にないのだ。他の土地に知り合いなどいるはずもない。
「あー……マジ意味わかんね」
「え? 何が?」
「いや、その。なんつーか……言いにくいんだけどさ。妙な感覚がするんだ」
「妙な?」
「行かなきゃいけない気がする」
「どこへ?」
どこへ、か。それが分かれば悩む事もないのだろう。腹が減ったなら購買か、最近知り合った気のいい事務員のおばさんの所、か。生理現象ならば手洗い。目的地さえはっきりしていればすぐに用件を済ませられる。
「分かんね。見られてる、ってのとはまた違うんだよな……。ううん、気の所為だ。忘れてくれ」
「そう?」
これ以上、漠然とした青春時代の悩みがごとし懸案なんぞに貴重な時間を割いてはいられない。
……とはいえ。その貴重な時間を何に使うかと言われると、答えられないのだが。
「退屈だな」
「今日は珍しく、誰かから呼び出される事も無かったみたいだね?」
「お前もな。バスケ部は暇なのか? いつもより終わるのが早いみたいだが」
「まあね。正確には部が忙しくなってきたからこそ、かな。僕の役目が無くなってきたんだ」
「へえ。お役御免ってやつか」
「そうだね」
「……退屈だ」
「何かやりたいことでもないの?」
「やりたいこと、か」
視線を外をへ向ける。窓際、後ろから二番目の席。浩一の席の前にある机だ。翔太の席は廊下側にあって、自分の席ではないのだが、今この席の主は部活動真っ最中だろう。座っていたって文句を言われることは無い。
「特にないな」
「そういう割にはいろんなことをやってきてるよね」
「……全部成り行きだ。やりたくてやってたわけじゃない」
浩一は真面目な優等生らしくきっちりと第一ボタンまでとめた制服のシャツのポケットから、携帯電話を取り出す。
携帯電話というよりはPHSだとか―――ひと昔以上も前のモノなんじゃないかと言いたくなるような、年代物の端末だ。
最早アンティークと言っていいくらいだ、なんて精密機器マニアの担任が妙に感心していたのだ。
「もう六時だね。リーコはまだ生徒会だっけ?」
「ああ。先に帰ったら殴る、そんでもって回し蹴る、だそうだ」
「ははっ、そりゃおっかないね」
翔太も何と気なしに教室の時計を見遣る。と、その時ガラリと勢いよく扉が開いた。
「お待たせー!」
「遅い」
間髪入れずに答える。教室に飛び込んできたのは、栗色の長い髪を活発なポニーテールに束ねたセーラー服。顔は美人なのだが、勝気そうな笑みが全てを台無しにしている。性格もそんな感じ。
特技は剣道。
どこかの何かの大会で優勝するのを翔太も浩一も半ば無理やりに連れて行かれたので、観戦席から何度も見た。
ちなみに今は剣道部には所属していない。入学式の前日に街のとある暴走族を壊滅させて、コンビニの肉まんを奢らせたというエピソードが学校中で噂になり、入部を拒否されたのだという。
結局は変人好きと有名な当時副部長、現会長に引き抜かれ生徒会をやっているというわけだ。
翔太と浩一しては、まぁ、それで結果オーライであったと話し合いの末に結論づけている。なぜかリーコが生徒会に入ってからというものの、校内の風紀が史上最高基準を保っているのだと先輩方から話を聞いたのだ。
当のリーコは何事も無く真っ当に、凶暴さを(一般生徒には)見せることもなく、高校生活をエンジョイしている。
(それでも浩一は、リーコが陰でひそかに「番長」と呼ばれ、崇められている現場を何度か目撃したらしい。)
リーコはニッコリとご機嫌な笑みを浮かべながら元気よく駆けてくる。
「やーごめんごめん! 体育祭の準備の打ち合わせに手間取っちゃって」
「体育祭? まだ四月だぞ」
「準備の準備だからね。動いてんのはまだ生徒会だけ。来月頭になったら部長会議に出すの。浩一、バスケ部に根回しお願いね!」
「うん」
「じゃあ帰ろっか。どっか寄ってく? おごってあげる」
「マジ? じゃあ牛丼な。ヨシギュー」
「ええっ!? 夕飯食べられなくなるんじゃない?」
「食える食える。な、浩一?」
「そうだね」
リーコは呆れ顔で、
「運動してる浩ちゃんはともかく、翔ちゃんってば何にもしてないのによく食べるよね。その割に痩せてるし……あんた、燃費悪いんじゃない?」
「かもしれん」
雑談をしながら学校を出て、夕暮れに照らされた街を歩く。
雑談というよりはリーコの話に二人で相槌をうつのがほとんどであるが。浩一は愛想のいい笑みで、翔太はほぼ無表情の微笑で。
「そういえばね、知ってる? 翔ちゃん、浩ちゃん」
「え? 何が?」
通学路半ば、河原沿いの道を先行しているリーコは聞き上手な浩一の問いにニンマリと笑って、器用に後ろ向きで歩きながら手にしている鞄をブンと振り回した。
「わ! ちょっ、あぶねぇな」
「ここら辺、出るんだって」
「何がだよ。あ、変質者か。知ってる、それこの先の橋の下に住んでるおっさんが酔っ払ってただけなんだってよ」
「違ーう! それも出るけど! 最近物騒だしね。そうじゃなくって……っていうか翔ちゃん。ホームレスに知り合いとかいたんだ?」
「まぁな」
「いじめてないでしょうね?」
「ねぇよ!」
「ははっ。翔太は顔広いからな。で、梨衣子? 何が出るって?」
「そうそう」
もったいぶったリーコは鞄を浩一に預けて、怪しげな笑みを浮かべ、両手をだらりと垂らして見せる。
「お・ば・け」
「そうくると思った」
言うと、リーコは小馬鹿にするように鼻で笑った。
「信じないと痛い目に遭うわよ?」
「さすがにお化けには負けねぇよ」
「だって私が殴るから」
「お前かよ! この上なく理不尽じゃねぇか!」
「だって本当なんだもーん」
「だもーん、じゃねぇよ! おい浩一、なんとか言ってやってくれよ」
「うーん、興味深い話ではあるんだけどね、そのお化けとやらは」
興味深い? どこがだ。胡散臭い。
「何かの見間違いとかじゃないのか。その噂話に尾ひれがついただけの」
「そーね。噂って言えば噂かな。私も生徒会の子から聞いた話だし」
曰く、最近、ここ数週間ほど。夕暮れ時になるとこの河原付近で不思議な発光体が出現するらしい。
「多分人魂なのよ。恨みに満ちたヒトダマがこの辺りを徘徊してるのよ」
「ヒトダマ……へぇ……」
「何? その人を小馬鹿にするような目は。牛丼に七味トウガラシひと瓶ぶちまけるよ?」
店の迷惑になるからやめろ。
「つーか、リーコお前理系だろ?信じるのかよ、そんな非化学的な話」
「信じるに決まってるじゃない!」
「どうして」
「その方が面白いから」
駄目だコイツ。ついて行けない。
「なによー! 文句でもあるって言うの」
「ああ、ある。その分じゃ、ヒトダマを見つけて心霊写真を撮るんだ、とか言い出して、俺達を無理やり連れまわしかねない」
「なんで分かったの?」
「だろうな。お前の顔に全部書いてある」
「えっへへー。そお? ってわけでー」
上機嫌なリーコは勢いよく拳を夕空に突き上げた。夕日を浴びて、血染めの戦を勝ち抜いた喜びに狂喜しているように見えなくもない。
恐ろしい。それにどうしてそんなに上機嫌なんだ?
若干引いているこちらにはお構いなしに(いつもの事だが)、リーコは満面の笑みで言った。
「オバケ、探しに行くわよ!! 生徒会の一員として、生徒の安全を脅かすヒトダマを見逃すわけにはいかないわ」
「マジかよ。つーかヒトダマ、安全脅かしてんのか?」
「脅かしてる。興味本位でヒトダマを探しに暗い街をうろついた生徒は、交通事故に遭う確率がぐんとアップするの。夜道は見通しが悪いから、だいぶ死にやすくなってるし」
「それ、まさに今の俺らだけどな」
「私たちがオバケをやっつけないで誰が生徒達を守るっていうの?」
「知るかよ。っていうかやっつけるのか!? どうやって!?」
「気合で。だから行くわよ! 今から!」
今から!?
「牛丼は食いに行かねぇのか?」
「お持ち帰りするの」
「またここに来るのか! 夕飯は!」
「もうメールしといた。翔ちゃんと浩ちゃんのママに。二人とも、今から家に帰っても晩ご飯はないからね」
「お前、教室で晩飯食えなくなるとか言ってたよな?」
「あのあとメールしたのよ」
「嘘、いつ」
「あんた達がロッカーでのんびりと靴を履き替えてる間に」
迷惑だ。が、しかし拒否権はないのだろう。昔からずっとそうだ。
「おごるのは並盛の値段だけだからね。盛るなら自腹」
「まあそれはいいけどな」
盛大に溜息をつき、ふと隣を見ると、浩一が珍しく難しい顔をして、じっと何かを考え込んでいる。どうりで静かだと思った。あと、いつまでリーコの鞄を持っていてやるつもりなんだろうか。
「浩一? どうした」
「……うん、ちょっとね」
言葉を濁した。が、すぐに笑って「なんでもない」と。
「じゃあとりあえず夕飯確保だな。リーコ、行くぞ」
リーコが立ち止まったまま動かない。追いつくとリーコはとある方向を指した。
「見て。翔ちゃん」
「え?」
「あれって、ヒトダマじゃない?」
「は? どこ」
「橋の下の茂みんとこ」
「あ、」
見えた。確かに見えた。そう認識した瞬間に――また来た。今までにないほどの強烈な既視感に襲われる。気のせいか、目の前の景色が一瞬掻き消えて、見たことも無い場所の景色が見えた様な気もした。
幻覚まで見るようになったのか。だとしたら、さすがにマズイ。病院にでも行った方がいいのだろうか?
「翔太? 調子悪い?」
「……や、なんでもない」
翔太は頭を振って意識から妙な感覚を振り払い、誤魔化した。目をこするまでもなく、一瞬見えていたどこか別の景色は見えなくなっていたし。変な心配を掛けさせるわけにもいかないから。
そして、改めて謎の光源を観察する。
どうやらあの光源を見ていると変な感覚が大きくなるようだが、見ないわけにもいかない。
リーコが言うように、本当に人魂なのだろうか。しかしあれは、人魂というよりは――
「ホタルって感じだな。季節的には早い気もするけど」
「こんな都会に? 一応首都だよ? 外れだけど。川の向こう側は神奈川だけど」
「神奈川はもう少し向こうだ」
それに神奈川はそこまで田舎じゃない、と思う。多分。
「けど、どうする。やっつけるのか?」
「え、うん……でも……予想外だわ」
リーコは腕組みをして唸った。
「なんだよ」
「まさかこんなに早く見つかるなんてね。ぜんぜんちっとも面白くない。遺憾だわ」
探してもなかったしな。
「それにあんなにフワフワ綺麗なものだなんて思わなかった。これじゃやっつけに行ったら私達が悪者になっちゃう」
「そうか? 生徒を交通事故から守るんじゃなかったのか?」
「それはそうだけど。だって弱そうなんだもん」
「幽霊に強さを求めるか……本末転倒だろ?」
「それもそうね。でもホタルをいじめるのは環境破壊だから」
「あれはホタルなのか」
「じゃない?」
「……桃色だけどな?」
「オレンジでしょ? あ、青くなった」
訳がわからない。なんだそれ、だ。
「―――つーかそんな色に光るホタルなんか、いるのか?」
「え? いるよ」
「嘘つけ! 冗談じゃねぇ」
「本で読んだもの。こうたくんが見た虹は、七色に光るホタルの大群だったのよ」
「何の本だよ!」
「あ、それ僕んちにある絵本だ。この前梨衣子に貸したんだけど」
「返してなかったっけ?」
「うん。いつでもいいけど梨衣子、そのまま忘れそうだし」
話が流れてしまいそうになる気配を察知した翔太は強引に話題を引き戻す。
「絵本はともかく! あれはホタルじゃねぇ! ホタルは……緑っぽい色に光る」
「知ってるわよ。ルシフェリンね。なら、何だっていうの? あれは」
「そりゃあ……あれだろ」
リーコと二人、顔を見合わせて、同時に呟いた。
「……お化け?」
「違う」
浩一が珍しくきっぱりと断じた。思わず翔太もリーコもまじまじと浩一の顔を見る。
しかしこちらには構わず、ヒトダマ(のようなもの)を見つめたまま。そして唐突に、
「行こう、二人とも」
「は? どこに」
「牛丼屋。もういい時間だし、おばけも見つかったし」
そう言って翔太とリーコの手を掴んで、やや強引に歩き始める。
「えっちょっと浩ちゃん? どうしたの? 違うって、何か知ってるの?」
「まぁ、少しだけ。食べながら話すよ」
「ふーん? じゃ、早く行こ! お腹もすいたし!」
駈け出して、堤防の階段を降りていくのを眺める。
「行こう翔太」
「ああ……」
何気なく振り返ると、ふわり、と茂みからひとつの光が飛んでくるのが見えた。
こうして見ると風流と言えなくもないな、と何の気なしに眺める。
それは滑るように、にホタルが飛ぶように翔太の周りを一周して、
「―――うわ!?」
唐突に、閃光が広がった。複雑な模様と、文字。ざあああっ、と無数に湧きだした幽霊だかホタルだかのあの光が黄金に輝き、まるで渦を巻くように翔太を取り囲み、昇っていく。
まぶしい。まるで蛍光灯を集中して照らされたような光量に驚いていると、
(契約を以って喚ぶ。汝、主に仕える者)
頭に、声が閃いた。
(彼の者の心を持つ者よ、我に応えよ)
ふと光の模様の合間から浩一が、なぜか焦ったような必死な表情で手を伸ばしているような気がした。しかし気がしただけで、まともに何かを考える間もなく。
周りの風景が消え失せ、視界は真っ黒に塗りつぶされ―――