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月の宮は慄いた。
ネアイラの悲しみは月の宮を満たし、月へと吸い込まれていく。
今日は満月。月の力が一番強い夜。
幼き頃より見守ってきた、月の魔女の心の崩壊など見たくない――
ネアイラの悲しみは月へ届き、絶望の光となって地上に降り注いだ。
それはとても綺麗な光景だったが、その光に触れた途端、人々から感情が消え希望が消えていく。
「……ネアイラ?」
けれど皮肉なことにネアイラの力に触れたからか、ヘリオスの意識が戻った。
古の呪の縛りが、月の魔女の力の前に消し飛んだのだ。
ヘリオスは自分の足元で表情を無くしている彼女に気付き、慌てて抱きしめる。
後ろでは、国王が頭を抱えてこちらを睨みつけていた。
「その女を、殺せ……ぇぇぇっ!!!」
人々は正気を失っていた。
異端な者が起こした異端の術に、恐れ慄いた。
恐怖は、全てを支配した――
叫び声をあげて迫ってくる同僚だった騎士達から逃げるように、ヘリオスは愛しいネアイラを抱き上げると月の宮へと駆けこんだ。
後ろから続こうとした者達は、宮の中へ入ってこれなかった。
月の宮に拒絶されたのだ。
愚かな人間どもを、月の宮は憎んだ。
何もないはずなのに、壁がそびえているかのように中に入る事が出来ない。
そこをいとも簡単に通り抜け奥へと進んでいくヘリオスの背中を、騎士達はただ呆然と見送っていた。
けれど必至に逃げるヘリオスはそれに気付かないまま、宮の中を駆け抜けていく。
そうして辿り着いたのは、月に祈りを捧げる拝殿だった。
「神よ、月の神よ……! 助けてください! 彼女を、ネアイラを!!」
感情を無くしたように何も映さない瞳は、唯々涙を流し続ける。
絶望の押し寄せる地上の怨嗟の声を聴きながら、彼女は自分を止められない。
月の魔女の当代を引き継ぎ制御していくはずだった真実の力はこれまで以上に強大で、魔力が暴走し彼女から理性を奪い去った。
全てを持って、この地上を呪おうと体から急速に魔力が吸い取られていく。
その上…………
継いだばかりの月の雫から流れ込む代々の月の魔女の嘆きや悲しみが、彼女の心を壊し続けた。
なぜ人は魔女を頼りながら、恐れ畏怖し、恩恵のみを得ようとするのか。
欲望を叶えるためなら、全てを利用するのか。
短き命を、手折ろうとするのか。
なぜそんな者達を護る為に、私という犠牲が生まれなければならないのか……!!!
月の宮は受け入れた。
月の魔女の心を。
今までの月の魔女たちの嘆きを。
初代魔女と月の神に交わされた、契約。
地上の生きとし生けるものの幸せを見守りたい
ならばお前に力を与えよう。お前が何かを犠牲としてその代償を払うならば。
初代魔女が月の神に捧げたのは、愛情。
それからは生まれながらに、代償が決められていた、
初代魔女のように望んでなったわけではない、月の魔女の役目の為に。
――今が、終わりの時なのかもしれぬ
月の宮に、神の声が響いた。




