10話「ふたりのゆく年くる年」
深々と雪が落ちてくる空を窓から見上げる。
気付けば今年も終わりそうな時間帯だ。
「文化祭以来、わりと静かで本当に助かる」
せいぜい、廊下で出くわした冬也から「学年末試験で勝負だ!」と宣戦布告されたくらいである。
学年が違うのにどうやって勝負するつもりなのかは不明だ。
勢いで言って、あとから気付くパターンでないことを祈りたい。
「来年からは、もう少し学校行事へ参加されてはいかがでしょうか。体育祭にも参加されていませんし、旦那様が残念がっておられましたが」
「父さんのために学校行事へ参加しているわけじゃないからな。その辺りは善処するとしか言えない」
そうかもしれませんね、と同意して百合は自分の作業を再開した。
先ほどまで年越しそばが乗っていたテーブルを、隅々まで綺麗に拭いていく。
これが、今年最後の大掃除らしい。仕事熱心なことだ。
「それにしても、ここまで静かに年が越せるとは。やはり、変態の兄が帰ってこなかったのは大きかったな」
またあの地味な嫌がらせを覚悟していたのだが、蓋を開けてみればごらんの通り。
理由はよくわからないが、忙しいから新年の挨拶に戻れるかもわからないらしい。
これはこれで少し不気味だが、とりあえずは平和なことを喜ぶべきだろう。
「夏樹様、お茶を淹れてまいりましょうか」
「コーヒーで頼むよ。去年は病室で無茶も言えなかったからな。せっかくの新年、初日の出くらい見ておきたい」
かしこまりましたと頭を下げた百合の顔が、一瞬くしゃりと歪んだ気がした。
なんだろうか。また知らないうちに変な地雷でも踏んだのだろうか。
というか、生前の橘夏樹について調査したほうがいいかもしれない。
知らないうちに追い込まれるのは、もうこりごりだ。
「大丈夫、だよな?」
年が始まっていきなりひと騒動にならないことを祈りたい。
窓の外では雪の勢いが増している。
もうすぐ今年が終わりそうだ。
‡
ぽとりぽとりと雫が落ちるのを眺めて、百合は何とも言えない感覚を噛み締めていた。
この感情に名前を付けられないことが歯痒くて仕方ない。
専属で仕える主人。橘夏樹という人物に、思うところはたくさんある。
初め彼が記憶を無くし、もう戻ることはないだろうと聞いたときは安堵した。
家族にすら隠していた不安が、これで取り除かれたのだと本気で喜んだのを覚えている。そして、同時に何もなかったことにされるのを酷く恨んだ。
体中を這い回った不快感が、それで消えてくれるはずもない。
いつか相応の仕返しをしてやろうとも考え、実際にその準備をしたりもした。
「なにやってんだろ……」
いつも徹底していた敬語が、崩れてしまうくらいには動揺している。
拭いきれない不安と、僅かばかりの復讐心で夏樹のそばに戻った。
何より、彼が保管していた『特別なアルバム』を回収しなくてはならない。
一冊や二冊で済まないそれを探すのは、きっと近くにいて隙を狙わないと不可能だ。
そう思っていた。
ひょんな出来事から、事態はいっぺんする。
本棚をひっくりかえし、困ったように笑う彼の隣。そこに見覚えのある一冊が転がっていた。
見られたくないと思った。
見られるとまずい(・・・・・・・・)ではなく、見て欲しくない(・・・・・・・)と思っている自分に驚く。
あるいは、記憶を無くした夏樹が以前とは様変わりしていたからだろうか。
実際、しばらくそばにいて別人ではないかと疑ってしまうくらいには人が変わっていた。
だから、見られて幻滅されたくなかったのだろうか。
わからない。
コーヒーメーカーが、泥のような雫を落とす。
ぽたりぽたりと落としていく。
まるで涙のようだ。
結果的に、写真は見られることになる
慌てて奪いはしたが、何もかも手遅れだった。
しばらく固まっていた彼は、ゆっくり私の顔を見てから視線を下に落とす。
自分でもわかるくらい力の篭った手を見られて、彼は何を思っただろうか。
怖い。その感情だけが、心の中に満たされる。
耳が痛くなるほどの沈黙は、彼が「今日はもう寝る」と呟くまで続いていた。
次の日からは、もうどうしていいのかすらわからない。
自分でもわかるくらいびくびくしながら過ごす一日。
頭の中は真っ白で、少しでも考え事をすればごちゃごちゃになってしまう。
言い知れない不安と、先の見えない恐怖と。心の中では膝を抱えて震える自分から、必死で目をそらし続ける一日だった。
そんな滅茶苦茶な考えに終止符を打ったのも、やはり夏樹だった。
『この部屋の大掃除をしてくれ……』
何を言われているのか理解するのに数秒費やした。
理解してからは耳が正常か疑い。次いで意図がわからずに困惑する。
このタイミングでの大掃除ともなれば、その意味するところは明白だ。
だが、そうすることで彼にどういう得があるのかさっぱりわからない。
何か裏でもあるのか。
トロフィー以外は、何を処分してもかまわないと言う。
なら、実はそこに何か隠しているのかもしれない。
結論から言うと何もなかった。
台座に仕込み扉もなかったし、カップの中に何か入っていたわけでもない。何の変哲もない、ただのトロフィーである。
そして、それ以外の場所から二冊、前のも合わせれば計三冊の危険物を回収した。
一冊はベッドの裏側に固定されていたし、もう一冊は二重構造になっている引き出しの底に隠されていた。
どちらも普通に探していては見つからなかっただろう。
変に焼き増しされていなければ、記憶にある限りはこれで全部だ。
これを処分して、それで私は自由になれる。
もう怯えるようなことは何もない。
そこまで考えて、ふと思う。
果たして、私は怖がっていただろうかと。
確かに警戒はしていたが、それは昔の記憶からきていたものだ。
何よりあの写真を見たあとの彼は、私に『大掃除』を命じている。
それも、わざわざ自分は学校へ出向き留守の状態を作り出してまで。
初めに言ったように、橘夏樹に思うところはたくさんある。
良いことも悪いことも含めて、ありすぎるくらいだ。
その中でも、どうして? なぜ? という疑問が勝っているだろうか。
だから、未だにそばで指示に従っているのだろうか。
わからない。
わからないから、そばにいる。
たぶん、それが今出せる答えの中で一番正しいものだ。
抽出の終わったコーヒーをカップに注ぎ、お盆にのせて彼の部屋へと持っていく。
お父さんとお姉ちゃんは、それぞれ旦那様と奥様に付いているはずだ。
特に旦那様の方は、元旦だというのに仕事らしい。秘書を兼業しているお父さんも、今頃は会社だろう。
さっき、夏樹はまともに初日の出を見るのは初めてだとか言っていた。
記憶を亡くし、その一年目は病院に気を遣ったからだという。
そうして遠慮した光景を、初めての景色をたった一人で見るという。
いったい、私は何を怖がっていたのだろうか。
本当にわからなくなってくる。
「お待たせしました、夏樹様」
「ありがとう。それと、明けましておめでとう」
車椅子ごと体をこちらに向けて、カップを受け取りながら彼は笑う。
未だ、窓の外は夜の帳に塗りつぶされていた。