第3話 もう少し、近づいてください
それから、俺と天満さんの放課後は、少しずつ「当たり前」になっていった。
授業が終わると、俺たちは別々に教室を出て、特別教室棟のいちばん奥——第二被服室で落ち合う。俺は窓際の椅子に座り、彼女はその向かいで、例の分厚いノートを開く。あとはもう、ペンの音だけが部屋を満たす。
最初の数日は、さすがに落ち着かなかった。人にじっと見られるというのは、思った以上に心臓に悪い。けれど、人間は何にでも慣れるものらしい。1週間も経つ頃には、俺は彼女の視線の中で、わりと普通に呼吸ができるようになっていた。
わかったことが、いくつかある。
天満さんは、絵を描いているとき、ほんの少しだけ口を開ける。集中すると、前髪を耳にかける。気に入らない線を引いたときは、眉間に、米粒くらいの皺が寄る。
そして——ペンを握った瞬間だけ、あの完璧な優等生の仮面が、嘘みたいに外れる。
クラスのみんなが知っている天満凛は、半分も本物じゃない。
それを知っているのが自分だけだというのは、なんというか、ちょっとずるい気分だった。
◇
その日、彼女のペンは、いつもより、よく止まった。
「……むずかしい」
ぽつり、と彼女がこぼした。珍しい。弱音みたいなものを聞いたのは、初めてだった。
「行き詰まった?」
「……ここの、構図が」
彼女はノートをこちらに見せ——かけて、はっと我に返り、慌てて胸に抱え込んだ。条件反射らしい。猫が、まだ生きている。
「見ないでください」
「うん、見てない」
「……すみません。つい」
彼女は、こほん、と咳払いをして、いつもの優等生の顔を立て直した。それから、しばらく逡巡したあと、意を決したように言った。
「九条くん。ひとつ、お願いがあります」
「資料関連?」
「資料関連です」
もう、この流れにはだいぶ慣れた。俺はうなずいた。
「いいよ。何すればいい」
「……立って、こちらに来てください」
言われるまま、俺は立ち上がり、彼女のそばに寄った。彼女も立ち上がる。向かい合うと、思ったより近い。天満さんは、俺の胸のあたりに視線を置いたまま、やけに事務的な声で言った。
「今から、私が言う通りの体勢を、とってもらえますか」
「体勢」
「はい。資料なので」
「資料なので、ね」
「……右手を、壁に」
言われた通り、俺は彼女の横の壁に、右手をついた。
「左手は、下げたまま。それで、その——」
彼女の声が、少しずつ、小さくなっていく。
「顔を、もう少し……こちらに」
俺は、顔を寄せた。
彼女が、見上げる。
——近い。
気づいたときには、もう、結構な近さだった。彼女の睫毛の本数が数えられそうなくらい。さっきまで事務的だった彼女の目が、今は、まんまるに見開かれている。
夕日に照らされた頬が、みるみる、赤く染まっていく。
「……あの、天満さん」
「…………」
「これ、何の資料?」
「…………男主人公が、ヒロインに、壁ドンを、する、シーンの」
「それ、天満さんが壁側にいたら、描けなくない?」
「…………」
図星だったらしい。
彼女は、口をぱくぱくさせて、それから、絞り出すように、
「……今のは、その、距離感の、確認で」
「確認」
「確認です」
たぶん、確認できたのは構図じゃなくて、お互いの心拍数だった。俺の心臓は、さっきから、ノックでもされてるみたいにうるさい。たぶん、彼女のほうも。
壁についた俺の手を、どかすタイミングを、ふたりとも、見失っていた。
——そのときだった。
◇
「凛ー? いるのー?」
廊下から、声がした。
ぱたぱた、という、こちらに近づいてくる足音。
俺たちは、凍りついた。
「だ、誰」と俺。
「……堂島さん」と天満さん。「友達の」
堂島さくら。天満さんといつも一緒にいる、仲のいい友達だ。学校での天満凛を、いちばん近くで見ている人間。——だが今は、相手が誰だろうと関係なかった。足音は、もうドアのすぐ外まで来ている。
誰もいないはずの放課後の教室で、男女が、壁ドンの体勢で固まっている。
この状況を、どう説明しろというんだ。
「九条くん、こっち!」
彼女が、俺の腕を引いた。おっとりした優等生からは想像できない力で。
俺たちは、部屋の隅にある、背の高い資料棚の陰に、二人して身を滑り込ませた。
——狭い。
肩と肩が、ぴったりくっつく。彼女の髪から、ふわりと、甘い匂いがした。息を殺した彼女の横顔が、すぐ目の前にある。
がらり、とドアが開いた。
「あれ、いないなー」
堂島さん、と呼ばれた女子は、のんびりした声で言いながら、部屋をぐるりと見回した。俺たちは、棚の陰で、息を止めていた。天満さんが、俺のシャツの裾を、ぎゅっと握っているのに気づく。
心臓が、うるさい。さっきとは、別の意味で。
「気のせいかー」
数秒後、足音は、あっさり遠ざかっていった。
ドアが閉まる。完全に音が消えるまで、俺たちは、棚の陰で、固まったままだった。
やがて、天満さんが、ふう、と長い息を吐いた。
そして、自分が俺のシャツを握っていることに、ようやく気づいたらしい。
ぱっ、と手を離して、勢いよく俺から距離を取って——資料棚に、後頭部をぶつけた。
「っ、痛」
「だ、大丈夫!?」
「……だい、じょうぶ、です」
涙目で、頭を押さえながら、彼女は言った。優等生の顔を保とうと必死だったが、もう、何ひとつ保ててなかった。
その顔が、あんまり可笑しくて、可愛くて。
俺は、思わず、噴き出してしまった。
「な、笑わないでください」
「ごめん。いや、ごめん。……でも、なんか」
笑いながら、俺は言った。
「天満さんといると、退屈しないなって」
彼女は、頭を押さえたまま、ぴたりと、止まった。
それから、ぷい、と顔を背けて、小さく、言った。
「……知りません」
耳が、真っ赤だった。
◇
帰り道。
夕暮れの道を、俺はひとりで歩いていた。彼女とは、いつも校門の手前で別れる。一緒に下校するのは、まだ、ハードルが高いらしい。
心臓は、まだ、少しだけ、速いままだった。
壁ドンの距離。棚の陰の、肩のぬくもり。甘い匂い。涙目で、頭をぶつけた、間抜けで可愛い顔。
——まずいな、と思った。
これは、たぶん。
「資料」とか「協力」とか、そういう言葉で、ごまかせなくなる日が、近い。
気を紛らわせたくて、俺は、なんとなくスマホを開いた。
そして、いつもの習慣で、あの連載を開いた。
『君のいる窓辺』。
作者は、顔も本名も知らない、ペンネームだけの誰か。それでも俺が、半年前から毎週欠かさず読んでいる、お気に入りのウェブ漫画だ。舞台はいつも夕暮れの高校で、主人公の男の子と、無口なヒロインの、ゆっくりした恋の話。この静かであたたかい空気が、俺は、好きだった。
最新話を開く。
冒頭のページは、夕日の差す教室。男の子が壁に手をついて、ヒロインに顔を寄せている。
……今日の俺たちと、同じ構図だな。たしか数日前の更新のはずだから、ただの偶然なんだろうけど。
漫画でもこういう場面あるよな、と——そこまで、ぼんやり思って。
俺は、スクロールする指を、止めた。
その男の子の、顔。
半年間、何百回と見てきたはずの、その顔を。
俺は、たぶん、今日、初めて、ちゃんと見た。
黒髪。困ったように笑う、平凡な顔立ち。
毎朝、洗面所の鏡で見る、顔。
…………は?
夕暮れの道の真ん中で、俺は、立ち止まった。
いや、まさか。そんなこと。
でも——一度気づいてしまうと、もう、そうとしか見えなかった。
半年前から俺がずっと好きだった、あの漫画の主人公は。
どこからどう見ても、俺だった。




