第7章『ふたりでいるということ』
その歌詞は、ノートの最後のページにだけ綴られていた。
灯里が手にしたのは、ユナがいつも持ち歩いていたという黒い布張りのノートだった。表紙には何も書かれていない。ただ、ページをめくると、まるで呼吸をするように自然な筆跡で、幾つもの言葉が並んでいた。
その最終ページには、こう記されていた。
| 朝焼けの海で、もう一度だけ、一緒に歌いたい
| 約束の場所は、あの時の海
奏介が小さく呟いた。
「これ……ふたりの“未来”だったんだ」
灯里は頷いた。
「叶わなかった約束。でも、彼女は最後まで諦めてなかった」
「だったら、僕たちが——」
そのとき、灯里のスマートフォンが震えた。
メッセージの送り主は、MIU。
| 動かす準備、できてる。#AAの話、広げようか?
数日前、奏介がかつての同期であり、今はセキュリティ企業で働く“情報の魔術師”に連絡を取っていた。彼の名は三浦ミウ。大学時代は伝説的なハッカーとして名を馳せていた人物だ。
「今、この瞬間、ネットの空気を変えられるとしたら——あいつしかいないと思ったんだ」
灯里は頷き、短く返信した。
| お願い。火を灯して。
その言葉のあと、彼女はひとつ、深く息を吸った。
まるで、胸の奥に小さな灯を灯すように。
-----
その夜、SNS上で突如として《Answer / Another》という未公開楽曲の噂が再燃した。
鍵となったのは、一連の“偶然”だった。
——ユナが遺した未発表の歌詞の断片が、匿名アカウントに投稿された。
——かつてのストリートライブで《灯を探して》を聴いたというファンが、古い録音データをアップした。
——《Silent Prayer》の一節が、《Answer / Another》の歌詞と“対”になる構造を持っていたという考察が拡散された。
どれもが確証のない憶測だった。けれど、それらが“ひとつの物語”として繋がったとき、人々の心を強く揺さぶった。
ミウは言った。
「燃えるときは一気だよ。あとは、誰が“本物”を出すかだけ」
灯里は、ノートのページを撫でながら呟いた。
「……世界に、ちゃんと届くかな」
奏介は隣で言った。
「届くよ。きっと。でも、それを“どう届けるか”は、君の言葉で決めるべきだ」
灯里はしばらく黙っていた。そして、そっと目を閉じた。
自分の内にわきあがる小さな迷い——それは“語り手”であろうとする自分への不安だった。
「……ねえ、奏介。私、こんな重たいものを背負って、語っていいのかな。正直、怖いの。誰かを代弁することの責任も、覚悟も……。私で、本当にいいのかな」
その問いは、誰に向けたものでもなく、ずっと胸の奥にあった自問だった。
奏介は少し間を置いて、穏やかに答えた。
「僕はね、灯里が“語り手”だからこそ、信じられると思ってる。誰かの声をただ拡声するんじゃなくて、自分の中に受け止めたうえで、丁寧に、揺れながらでも言葉を紡ぐ人。それが、君だ」
「……そんな風に、思ってくれるんだね」
「うん。そして、ユナもきっと……“あなただから託した”って思ってるはずだよ」
ページの余白に、かすかに鉛筆の跡が残っていた。
| 誰かの灯になれたら、それでいい
その文字を見た瞬間、灯里の中で“灯すべき場所”が、はっきりと見えた気がした。
胸の奥で、ひとつ深呼吸する。静かな祈りのように、彼女はその言葉を受け止めた。




