第3章『消えた共作曲』
「……鍵盤の音、なんか、違うんですよね」
井上奏介は、自分のスマホを操作しながらそう言った。
ファイル名は「SP_DEMO_FINAL」。数年前にアップされた、「Silent Prayer」の公式デモ音源だった。
カフェのテーブルに流れたのは、静かなピアノ。ヴォーカルのない、レンの鍵盤だけが残されたバージョン。
灯里はそれを聴きながら、自然と背筋を正していた。音が空気を整えていく。
そして、思わず息を吸い込んだ。深く、静かに。鼓動が、少しだけ落ち着く。
——Deep breath。
「このイントロ、テンポが一度落ちて、また戻るでしょう?
リズム的には不自然なんです。
本来ならここ、歌が入る“間”なんですよ。……でも、歌詞が存在しない」
「つまり……消された?」
「それか、最初から入ってなかった。いや、“まだ入れてなかった”のかもしれない」
二人は再び図書館のような静かな空間――井上が通う大学の音楽棟の練習室にいた。
グランドピアノの前、灯里はプリントアウトされた《Silent Prayer》の譜面を見つめていた。
「このコード進行……《Deep Breath》とは違う。でも、似た構造を持ってる。
展開の持たせ方、対旋律の置き方……まるで、返事を待つように作られてるんです」
井上の声は確信に満ちていた。
「でね、もっと驚いたのは――これ」
彼は、USBメモリを机に置いた。白無地のラベル。何も書かれていない。
「Silent Prayer」考察を投稿する前、井上はネット上の中古音楽機材サイトを漁っていたという。
「神楽坂レンが使ってたって噂のMIDIキーボードが、たまたま出品されてた。
信じてなかったけど、価格が妙に高かったのと、出品者が音楽関係者っぽかったから……買いました。そしたら――中に入ってた」
灯里はUSBを受け取り、手のひらで温度を確かめるように握りしめた。
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その日の夜。
USBメモリを開いた灯里は、1つのフォルダを見つけた。
“AA_DRAFT”という名前だった。
開くと、そこには数本のオーディオファイルと、手書きのスキャンデータが入っていた。
スキャン画像には、乱れた筆致でこう書かれていた。
| もうひとつの可能性。
| 君と、僕と、あの歌が重なる場所に――答えがある。
灯里はファイルを再生した。
そこにあったのは――
ピアノの音。ユナの歌声。そして、レンの声が重なる旋律。
けれど、曲は途中で途切れていた。
その瞬間、灯里は小さく、祈るように目を閉じた。
——Silent prayer。
この音が、ふたりにとって最後のメッセージだったとしたら。誰にも知られないまま消えていったとしたら。
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数日前まで、タイムラインには確かに熱があった。「#SilentPrayer解析班」はトレンドの隅に顔を出し、音楽系YouTuberが動画を出し始め、まとめブログが取り上げていた。
「ユナとレン、まさかのアンサーソング説」「縦読みはただの偶然?」「匂わせ? それとも……陰謀?」
だけど、そんな熱は長くは続かなかった。数日もすれば、タイムラインにはまた別のニュース、別の炎上、別の恋愛暴露が並んでいた。ユナとレンの名前は、ゆっくりと、誰の記憶からも沈んでいった。
「なんか前もそんな話なかったっけ」「どうせまたファンの妄想でしょ」「ガチならとっくにテレビでやってる」
灯里はそれを見ながら、冷たい水に指先を浸すような気分になった。
熱を持たない真実は、誰にも拾われない。むしろ、確信がないという理由で、なかったことにされてしまう。
でも、自分の中にだけは残っている。あの音。あの歌詞。あの名前たち。
「なら、私が探すしかないじゃない……」
独り言のようにつぶやいた声は、再び沈黙に吸い込まれた。




