第七章 戴冠のキスと新しい未来
戴冠式の朝、王宮聖堂の鐘が黎明を告げると同時に、リストリアの街路は純白の花弁で埋め尽くされた。民は夜明け前から石畳を磨き、窓辺に百合を飾り、王妃誕生の日を祝うために家々の屋根へ王家の紋章旗を掲げた。私は控室の大鏡の前で深呼吸し、白銀のドレスの胸元に輝く黎明の星――蒼玉の指輪をそっと撫でた。
鏡越しに映る自分の瞳は、驚くほど落ち着いている。ほんの数ヶ月前まで“追放寸前の悪役令嬢”と囁かれていた少女の面影はない。私の隣では侍女レティシアが涙を堪え、微笑んでヴェールを整えていた。「これほど晴れやかな顔を見たのは初めてです」と囁く彼女に、私は同じ微笑みを返す。「私たちの旅はここで終わりじゃないわ。始まりよ」
聖堂へ続く長い回廊には、歴代王妃の肖像画と金糸で織られた王家の系譜が飾られている。私はラファエル陛下――いいえ、“ラファエル”と共に未来を歩むと決めた。だからこそ、この回廊を通る一歩一歩に、過去の重みと未来の希望の両方を刻みつけたかった。
巨大な扉が開くと、荘厳なパイプオルガンが響き渡る。祭壇の前に立つラファエルは琥珀の瞳で私を迎え、私の手を取って高壇へ導いた。参列する貴族や外国使節、そして市民代表の子どもたちが息を呑む中、司祭が戴冠の儀を執り行う。
黄金の王妃冠は千もの小さな月桂冠が連なる繊細な細工で、頭上に置かれた瞬間、その重みとともに温かい光が胸へと降りた。聖堂のステンドグラスが東の陽を受けて七色にきらめき、光の奔流がラファエルと私を包む。私は眼前に広がる虹彩の海に、民の希望を見た。
誓いの言葉を交わすと、ラファエルはヴェールを上げ、まるで初めて触れる宝物を扱うように額へ口づけを落とした。その瞬間、聖堂の天蓋が風を孕んだように揺れ、白い花弁が空から舞い降りた。聖歌隊のハレルヤが高らかに響き、列席者が総立ちで拍手を送る。私は胸に手を当て、はっきりと実感した――かつて“悪役”と忌避されたすべての瞬間が、この栄光を得るための布石だったのだと。
戴冠の儀が終わると、聖堂の外で沿道を埋める民衆へお披露目のパレードが始まる。真白な四頭立ての馬車に乗り込むと、暖かな冬陽がティアラの宝石を照射し、無数の虹が街路へ跳ね返った。子どもたちが声をそろえて「セレナ王妃、ばんざい!」と叫び、投げられた花束が幾重にも舞う。私は片手でラファエルと指を絡め、もう一方の手で民へ大きく手を振った。
途中、かつて私が投資した孤児院の子どもたちが特設スタンドから紙吹雪を放った。幼い手紙には〈夢をありがとう〉の言葉が滲んでいる。胸が熱くなった私は馬車を止めさせ、子どもたちに駆け寄った。膝をついて小さな手を握り、「これからは知識と勇気で世界を変えていきましょう」と声をかけると、少年が真剣な目で頷いた。その眼差しの奥には、未来の学者や騎士や商人が芽吹いている――そう確信できた。
王宮に戻ると、戴冠祝賀舞踏会の準備が整っていた。だが私はまず第一近衛師団長ユリウスを呼び出し、王太子アルフォンスの辺境任地支援案を提出した。「贖罪には孤独ではなく責任が要る。荒野の砦に学校と診療所を建設し、殿下自ら民と汗を流すべきです」と進言すると、ユリウスは敬礼して言った。「王妃陛下の指示、確かに」。ささやかながら、かつての友に再起のチャンスを残すことができた。
夜、祝賀舞踏会の天蓋ホールでは三千のランタンが星雲を描き、各国の衣装が色彩の海を織りなしていた。私は真紅の薔薇を胸に差し、ラファエルと初めての夫婦ダンスに臨む。彼の手は温かく、指先はわずかに震えている。私が囁くと、彼はいたずらな少年の笑みを浮かべた。「国王でも緊張するのね」と囁くと、彼は私をくるりとターンさせて答えた。「君の瞳は、王冠よりまぶしい」
楽団が奏でる新王朝の序曲に合わせ、私たちは円を描いて舞う。観衆が拍手を送り、王宮のテラスから打ち上がる黄金の花火が夜空へ咲いた。光が散り、星のように降り注ぐ火の粉の中で、私はラファエルと向き合い、未来を誓う口づけを交わした。花火の轟音の裏で、私の心臓は静かに、しかし力強く鼓動を刻む。
舞踏会が深夜へ差しかかる頃、私はひとときテラスに抜け出した。月光は静かに王都を照らし、遠くルミエールの山並みが青く霞んでいる。思えば、あの温泉祭の夜がすべての始まりだった。背後で足音がして振り返ると、レティシアが一通の手紙を差し出す。「王太子殿下より」と封にあった。開くと、粗末な紙に殴り書きの謝罪と、辺境での奮闘を誓う言葉が綴られていた。私は深く息を吸い、風に乗せて呟く。「あなたも未来を築いて」
やがて夜明け前、最後のゲストを見送った私はラファエルと執務室へ戻り、婚姻の正式書類に署名した。二人分の署名欄の下、私は空白に小さく書き添える。
『自由と責任を抱きしめ、共に歩むことを誓う』
ラファエルがそれを見て笑い、ペンを取り同じ誓いの文を記した。そして厳かな声で言う。「王妃陛下、今宵からは王国のすべての鍵を共に所持する。我らは二つで一つの刃だ」――私はその言葉を胸に刻み、指輪に触れた。黎明の星は月明かりを受けて静かに瞬き、窓の外で白い暁が訪れようとしていた。
夜が明ければ、新王朝初の議会が開かれる。孤児院法案の細則や、保養特区の第一期インフラ計画、辺境防衛隊への予算振り分け……やるべきことは山積みだ。それでも私は怯えない。かつて“悪役”と呼ばれた私が、今は未来を動かすペンを握っているのだから。
「セレナ、夜明けが来る」
ラファエルの声に振り返ると、東の空が群青から朱へと染まり始めていた。私は窓を開き、新鮮な朝風を吸い込む。そこには薔薇の香りも、硝煙の匂いもなく、ただ自由の匂いだけがあった。
「ええ。これからが本当の物語」
私たちは肩を並べ、黎明の光を浴びる王都を見つめた。悪役令嬢セレナの章は終わった。だが王妃セレナの物語は、これから幾千のページを紡いでいく。
新しい朝日が王宮の尖塔を照らし、紋章旗が風に翻る。それは、誰にでも訪れる“選択”と“再生”の象徴だった。