第六章 国王からのプロポーズ
舞踏会の激震から三日。王都リストリアは嵐の後の静けさに包まれていたが、宮廷の奥では密やかな潮流が渦を巻いていた。私は玉座謁見の翌朝、父ブランシュ公爵とともに執務館へ呼び出された。正装のドレスの肩口がきつく感じるほど、胸は緊張で高鳴っていた。
「国王陛下が直々にお招きとは……父上、何か心当たりは?」
「見当はあるが、答えは陛下自ら告げられるだろう」
父は意味深に笑い、私の手を取った。その手は昔から鍛えた剣の柄ダコが固く、けれど慈しみに満ちて温かい。
執務館の扉を開くと、深紅の絨毯の先――巨大な窓から差す朝陽を背に、若き国王ラファエルが立っていた。金色の軍装を脱ぎ、柔らかなスーツ。けれど琥珀の瞳だけは鋼のごとく揺るぎない。
「よく来てくれた、セレナ」
陛下は私の名を呼び捨てにすると、父へ目礼を送り、そのまま私に視線を戻した。「お父上には失礼だが、二人きりで話がしたい」
父は愉快げに頷き、部屋を辞した。残された私と陛下を包む静寂は、舞踏会の喧騒とは対極の張り詰めた気配だった。
「まずは感謝を。あの夜、貴女が真実を示さなければ、この王国は闇に呑まれていた」
陛下はそう切り出すと、机の上の一冊のファイルを広げた。中身は温泉祭の収支報告、孤児院設立計画、そして新税案の草稿――いずれも私がルミエールで練った施策だ。
「これらは既に財務庁と検討を進めている。王令として布告する前に、正式な協力者を迎えたい」
「協力者……と申しますと?」
陛下は椅子を離れ、私の前に膝を折った。まるで薔薇に跪く騎士のごとく、真摯な瞳が私の視界を奪う。
「セレナ・ブランシュ。私は貴女に——王妃として隣に立ち、共に国を治めてほしい」
空気が揺れ、心臓が跳ねた。あらかじめ予感していた言葉のはずなのに、実際に耳にすると足元が浮くような眩暈に襲われる。
「陛下……私は婚約を解かれたばかりの身。世間は“悪役令嬢”と呼びました。王妃の器にふさわしいかどうか——」
「私は見た。貴女が民と共に茶を飲み、子どもと共に苗木を植える姿を。玉座からは決して見えぬ、王国の本当の姿を見せてくれたのは貴女だ」
言葉は穏やかで、しかし炎のように熱い。私は薔薇園の出来事を思い出した。夜風と湯けむりの中で交わした短い視線——あのとき芽生えた理解は、真実だったのだ。
「お受けするには、条件がございます」
自分でも驚くほど澄んだ声が出た。陛下の眉がわずかに上がる。「条件を聞こう」
「孤児院法案を可決し、身寄りのない子どもたちに学び舎と職業訓練を約束してください。そしてルミエールを王国初の〈保養特区〉として認定し、外部交易の関税を五年免除すること。最後に、公爵家の自由貿易権を保証していただきたい」
陛下は微笑を深めた。「三つとも妥当だ。だが、なぜ“条件”なのか?」
「私は政治の駒としてではなく、“信頼できる同志”として陛下と歩みたいのです。王妃は王の装飾ではなく、国と玉座を支える柱であるべきと心得ております」
言い終えると、胸が熱くなった。前世で叶わなかった“対等なパートナーシップ”。今世で掴む機会が目の前にある。
陛下は立ち上がり、机の上の匣を開けた。蒼玉の指輪——戴冠式用に代々伝わる〈黎明の星〉である。青い光が朝陽を吸い込み、虹色の輝きを放った。
「ならば、この指輪は単なる贈り物ではない。共に王国を背負う盟約の証だ」
指輪が私の左薬指に滑り込む。ひんやりとした金属の感触が、じきに熱を帯び、脈打つ血と溶け合った。
「陛下、いえ……ラファエル。私は貴方の提案を——喜んでお受けいたします」
言葉が終わるより早く、ラファエルは私の手を取り、甲にそっと口づけた。その仕草は騎士としての忠誠にも似て、しかし瞳の奥には確かな愛情の炎が揺れていた。
◆
昼下がりの王都大通り。即日招集された臨時貴族院では、王と新たな王妃候補の盟約が宣言された。驚愕と喝采が混ざり合う議場で、私は席上演説を許された。
「婚約破棄された令嬢が王妃となるなど前代未聞!」と古参侯爵が声を荒げたが、私は微笑んで言い返した。
「前例が改革を妨げるなら、前例は破られるためにあるのです」
議場の空気が一瞬止まり、次に大きな拍手が巻き起こった。青年議員や商人派は口笛を吹き、保守派も渋々ながら腕を組み直した。
可決票が投じられ、私とラファエルは壇上で握手を交わす。――その瞬間、天窓から差し込んだ陽光が指輪に反射し、虹を描いた。「王家に祝福あれ!」と詠唱する司祭の声が響き、歴史の歯車が確かに動いた。
◆
夜。薔薇園の東屋に灯るランタンの下、私は妹エリザと向かい合っていた。彼女は修道院行きを前に、最後の謁見を求めてきたのだ。翡翠の瞳はまだ赤いが、深い後悔と決意を宿していた。
「姉様……どうか、お幸せに。そして……ごめんなさい」
「謝罪は行動で示すものよ。修道院で学び、子どもたちの教師になると聞いたわ。私が開く孤児院で、あなたの学びを活かして」
エリザは涙をこらえ、首を縦に振った。私は妹を抱きしめる。薔薇の香りが夜気に混ざり、遠く宴の音が聞こえた。
◆
翌朝、王宮楽団が奏でる行進曲とともに婚約発表の祝典が開幕した。バルコニーに立つラファエルは私の手を取り、民衆へ高らかに宣言する。
「我が伴侶、セレナ・ブランシュと共に、王国の新時代を築く!」
広場を埋め尽くした人々が歓声を上げ、鳩が放たれ、紙吹雪が空を舞った。その光景を見つめながら、私は心の中で静かに誓う。——悪役令嬢と呼ばれた過去を、未来への礎に変えてみせると。
指輪の蒼い輝きは、黎明の空よりも明るく瞬き、私の新たな物語の序章を照らしていた。