第四章 王太子の後悔、そして暗躍
真夜中の王太子宮は、静寂の底で獣のように呻いていた。高い天蓋の寝台に身を横たえるアルフォンス・ルクレティアは、毎夜同じ悪夢に魘される。――断罪会場で背を向けるセレナの青い瞳。氷の矢のように冷たいその視線が、彼の胸に刺さり抜けない。
目覚めるたび、シーツは汗で貼りつき、枕には叫び声がにじむ。侍医は睡眠薬を勧めたが、アルフォンスは拒んだ。薬で薄めた意識の中でさえ、罪悪感は形を変えて追いかけてくると知っていたからだ。
今更だ。あの婚約破棄は、彼が望んだ“自由恋愛”の第一歩だったはずだ。だが男爵令嬢ミレーヌは思い描いた理想の聖女ではなかった。気品の足りない笑い方、王宮の礼節を覚えようとしない怠惰、そして何よりも、どこかで常にセレナを意識して怯える姿がアルフォンスを苛立たせた。
――結局、私はセレナに勝てないのか。
苛立ちはやがて焦りに変わる。公爵家の庇護を失った王太子派は、貴族院での議決力を大幅に落とし、若き国王ラファエルの改革案を阻止できずにいた。宰相は諫言する。「殿下、いま一度公爵家と和解を」。アルフォンスは首肯し、謝罪文を書き始めた。しかし便箋の上を滲むインクは、不安と後悔で歪んだ。
◆
謝罪の書簡がルミエールへ届いたのは国王行幸の一週間前。セレナは手紙を開くことなく、侍女に命じて返送させた。返信にはただ一言、「手続きは公文書で」と記されていたという。アルフォンスは唇を噛み、執務机を拳で叩いた。
「……まだ間に合う。償いを示せば、彼女は振り向いてくれる」
そこに現れたのがギルバート・フォクスだ。侯爵家三男は深紅の外套を翻し、影のように跪く。
「殿下、セレナ様は公爵領で反逆の資金を蓄えています。新税を拒み、温泉祭で民衆を煽動するのが目的とか」
ギルバートの言葉は毒の飴にも似て甘い。アルフォンスは眉をひそめながらも、耳を傾けずにいられなかった。
「証拠はあるのか?」
「ご用意いたします。筆跡鑑定をすり抜ける複製書類、王立会計院の印影までお付けして。殿下は正義の告発者となり、セレナ様は反逆罪で王都追放。後は……」
「私が彼女を救えばいい、という訳か」
ギルバートの唇がひし、と歪む。歪みは笑みか嘲りか判別できず、アルフォンスは胸に冷たい汗を感じた。だが背に迫る恐怖――王位継承順位の低下、廃太子の噂。考える間もなく、頷いてしまった。
◆
偽造計画は水面下で進んだ。王立文書館に勤める書記官を買収し、過去の公爵家決算報告書を盗み見せて筆跡を模写。魔術師ギド・ノックスが硝子の写鏡で印影を複写し、羊皮紙に本物同様の銀粉を混ぜて押印した。ギルバートが差配する闇工房では夜通しランプが灯り、羽根ペンの走る音と硝子薬壜が触れ合う乾いた音が混ざり合った。
書類が完成すると、ギルバートは王太子宮の地下書庫で“保管”という名の隠匿を行った。アルフォンスは震える手で署名を加える。――自らの行為が罪人を仕立て上げる偽証であると理解しながら、彼はペンを離せなかった。
その夜、アルフォンスは第二王子レオンの誕生祝賀会を欠席した。王宮中が華やぐ中、孤独と罪悪感が彼を蝕む。鏡に映る自分の顔は青ざめ、幼い頃セレナと語り合った〈未来の王国像〉などは遠い幻になっていた。
◆
舞踏会前々日、宮廷の温室でミレーヌが泣き崩れた。侍女が伝えた噂――王太子が公爵令嬢の弾劾を準備している、と。自分こそが殿下の“真実の愛”になるはずだったのに、身分の低い自分では新しい王妃の器になれないと言われるのではと怯えたのだ。
アルフォンスは慰めの言葉を探せず、ただ肩を貸した。ミレーヌの涙が袖を濡らす。だが慰めの抱擁は安らぎを与えず、むしろ彼の心に罪の重さを上塗りした。――この手は誰を救い、誰を傷つけるのか。
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夜気漂う回廊を歩くアルフォンスの前に、ユリウス近衛師団長が立ちはだかった。琥珀の瞳を持つ青年は、王直属の“剣”として恐れられる人物だ。
「殿下。偽造書類の噂が貴族院で囁かれています。ご存知ですか?」
アルフォンスの心臓が跳ねた。「私は何も知らぬ」と言い捨て歩み去ろうとするが、ユリウスの声が追う。
「セレナ様は、ルミエールで民を笑顔にしています。王国の未来に不要なのは誰か――見誤らぬように」
靴音が遠ざかる。アルフォンスは拳を握った。〈追放された令嬢〉の背後に国王がいるかもしれぬという恐怖と、彼女を讃える言葉への嫉妬が胸を渦巻く。
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翌朝、王妃代理付き侍女長が舞踏会の台本を持参した。舞台中央で王太子が弾劾文を読み上げ、エリザが義憤の涙を流す――英雄劇の筋書きだ。アルフォンスは眩暈を覚えつつも台本を受け取る。脚本通りに演じることで、失った支持を取り戻せるのなら。
だが夜、寝所で再び悪夢が襲う。焚き消せない青い瞳。彼は叫び声を上げ、部屋に駆け込んだ従者に命じた。「セレナに伝言だ。明朝、温泉祭へ向かう前に私と会え、と」
それでも返事は来なかった。セレナは既に王都へ向かっており、伝言は虚空に消えたという。
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舞踏会当日。王太子公邸は早朝から慌ただしい。ギルバートが偽造書類を最終点検し、王太子の署名が消えないよう防水蝋を塗布する。エリザは侍女に髪を結い上げさせながら胸を高鳴らせた。――姉を超える日。
アルフォンスは儀仗隊の前で礼装のボタンを留めながら、自らを奮い立たせていた。ここでセレナを糾弾し、最後に救いの手を差し伸べれば、彼女は自分に感謝し、そして王国は平和を保つ。理想的な筋書きだ。
しかし胸の内で何度唱えても、耳にはユリウスの言葉がこだまする。〈不要なのは誰か〉。鏡の中の自分を見据える。――そこに映るのは、王冠を得るために愛も友情も捨てた男の顔。
決断の機会は残されているのか。舞踏会の鐘は、否応なく迫る運命を刻み始めていた。